岡本全勝 のすべての投稿

肝冷斎お休み中?

肝冷斎ファンは、心配しておられるでしょう。8月9日から更新されていません。観タマも、同様です。どこかで行き倒れているのか、仙人となって羽化登仙したか。心配になって、肝冷斎本人に連絡を取りました。本人は、いたって元気で、旅行をしたり仕事もそれなりにしているようです。
ブログが更新されない原因は、パソコンの調子が悪いのだそうです。パソコンを買い換えたところ、インターネットにうまくつながらないようです。だから、「本人は元気です」と、ブログに書けないのです。私にも、経験があります。きっと、本人が一番イライラしているでしょうね。(2015年8月20日)
と書いたら、20日深夜に復旧したようです。

次の災害で被害を拡大しないために

日本財団が、「次の災害で被害を拡大しないためのノウハウ」訓練をしてくださっています。
・・・大きな震災が起きる度に、避難所に移ってから亡くなる「関連死」の多さが問題になっている。阪神・淡路大震災(1995年1月)では死者の14%を占め、新潟県中越地震(2004年11月)では死者の半数以上が関連死と認定された。このため、避難所生活の質を向上させる観点から避難所のあり方を見直す動きが強まっている。そこで日本財団は南海トラフ地震で大きな被害が想定されている三重県と共催して、災害時に重要な役割を果たす人材を育成するとともに、あるべき避難所を模索する避難訓練を実施することになった・・・
重要なことです。災害関連死を減らすことと,避難所生活の質を上げることです。避難所はこれまで、まずは被災者を収容し、食べ物を支給することに、主眼が置かれていました。しかし、避難所での生活を改善する必要が認識されました。毎日おにぎりとパンでは飽きてきます。壁や衝立のない体育館の床にごろ寝では、休まりません。トイレも行きにくい。小さな子どもを抱えている親、障害のある人、高齢者には、きつい環境です。
東日本大震災では、避難所生活の質の向上のため、簡単な調査をして、温かい食事、避難所での間仕切り、風呂やトイレ、洗濯機、医師や保健婦の巡回などを提供する努力をしました。仮設住宅でも、孤独や孤立を防止するために、見回りなどの配慮をしています。
また、災害関連死については、自治体の協力を得て、半年ごとに関連死者数を調査しています。平成24年8月には、分析も試みました。
その調査では、発災から3か月以内が多く、高齢者、持病を持った人が多いです。原因は、避難所での肉体・精神的疲労、避難途中の肉体・精神的疲労、十分な治療を受けることができなかったことです。死者数は、その後も増えていますが、6か月以内(仮設住宅に移るまでと思われます)が2,300人と、全体3,300人の3分の2を占めています。

細谷雄一先生、歴史認識とは何か、3

細谷雄一著『戦後史の解放Ⅰ 歴史認識とは何か』p114~。
日露戦争の際に、日本は「文明国」として認めてもらおうと、国際法を遵守しました。しかし、第一次世界大戦後、欧米で、圧倒的な人的被害から人道精神・国際人道法の精神が強まったのに、日本は逆に国際法や人道的な観点を減らしていきます。1932年には陸軍が、陸軍士官学校の教程から戦時国際法の科目を外します。1937年以降は、国際法教育を中止します。これが、戦時中の捕虜虐待などを生む素地になったようです。
・・・このようにして、陸軍や海軍は、国際法の教育を行うことを不要と考え、むしろそれが軍事的な効率の最大化を求める際の障害と見なすようになった。それによって、捕虜取り扱いをめぐる国際法上の知識を持たない軍人の多くが、第二次世界大戦中に東南アジアで捕虜を虐待したことなどを理由として、敗戦後のBC級戦犯裁判で処刑された。その責任は、処刑された軍人ではなく、むしろ1930年代に軍事的効率を最優先して国際法教育を十分に行わない方針を決めた軍の指導部にあったというべきではないか・・・(p116)。
日露戦争では、文明国の仲間入りをするために、小国日本は、悲しいまでに世界の動きや国際世論に敏感で、同調する努力をします。しかし、戦争に勝つことで自信を付け、さらに驕りに陥ってしまいます。そして、国際社会から孤立し、敵に回して戦争を始めます。国際社会とのズレがどう広がっていったか。この本をお読みください。いかに日本が「正しい」「正しかった」と主張しても、相手のある話です。国際社会で生きていくためには、相手側の認識や第3者に立った認識も知りつつ、相手と話し合うしかないです。

講演会のお誘い

秋が近づき、いくつか講演のお誘いが来ています。
8月22日 自治体学会(奈良市)第5分科会「大災害からの復興を実践から考える」パネル
9月5日 国際研修交流協会セミナー(福島県会津)基調講演
9月12日 広報学会(東京、東大)シンポジウム基調講演
そのほか、内輪の会合なども。
お誘いがあると、喜んで引き受けるのです。そして、講演会や資料の締め切りが近づくと、何をしゃべろうかと悩んでしまいます。「復興の現状と課題」なら、資料なしでしゃべることができるのですが。もっとも、レジュメを配らないと、私の話は脱線ばかりで、聞いていてわかりにくいでしょう。

細谷雄一先生、歴史認識とは何か、2

細谷雄一著『戦後史の解放Ⅰ 歴史認識とは何か』p36。
・・・日本の歴史教育における問題点は、歴史理論を学ばないということである。つまりは、広範な資料に基づいて、徹底的に研究を深めていけば、普遍的に受け入れ可能な「歴史的事実」にたどり着けるというナイーブな歴史認識が広く見られ、またそのような「歴史事実」は他国の国民とも共有可能であるという楽観的な想定がある。そのような想定こそが、これまで日本が他国との間で歴史認識問題をこじらせていった一つの原因ではないだろうか。そもそも、歴史学といっても、各国によって教育を通じて教えられるナショナル・ヒストリーは異なり、また時代によっても歴史理論の潮流は大きく変化している・・・
として、有名なカーの『歴史とは何か』を引用しています。続きは、原文をお読みください。

大学生の頃、「自然科学には唯一の正解がある(実はそうでない場合もあるらしいのですが)が、社会科学では唯一の正解はない、人によって解釈が違う」ということを教わって、目から鱗が落ちたことを思い出します。よって、自然科学では、問題を解く場合は正解を求めることです。しかし社会科学では、多くの人が納得する答を見いだすこと、納得しない人がいるときにはどのように折り合いを付けるかが、問題の解決です。
日中韓に歴史認識の違いがあることを、この数年、日本国民は学習しました。「話せばわかる」「研究すれば同じ答えにたどりつく」とは限らず、「話し合ってもわかりあえない」「研究しても同じ答にたどりつかない」こともあるのです。認識の違いを超えて、ドイツとフランスが和解して、発展のために折り合いを付けていると同じように、日中韓の間で認識の違いを認めつつ、どのように折り合いを付けるか。近年の日本政府は、「戦略的互恵関係」という表現を使っていました。