カテゴリーアーカイブ:復興15年

川内村、震災復興策効果を検証

2026年8月2日   岡本全勝

7月18日の日経新聞夕刊に「福島県川内村、震災復興策の効果を独自検証 「工業団地は不十分」」が載っていました。
自己検証は、「勇気ある行動」だと思います。誰でもどの組織でも、自らやったことを評価する、しかも「不十分だった」と認めることは、めったにできることではありません。
役所には、企業と違う「制約」「困難さ」があります。企業では、新しい商品やサービスが期待通りに売れないことはしばしばあります。「絶対に売れる」という商品はなく、リスクを冒さないと成功しません。少々の失敗は織り込み済みです。ところが役所では「財源は税金」なので、「失敗は許さない」という風潮があります。「それは絶対成功しますか」と問われれば「はい」と言えるようなことはまずあり得ません。「考えられる対策は取りましたが、絶対成功するとは言えません。しかし、今これに取り組まないと、村は発展せず、住民も困ります」という答えを許してほしいです。特に川内村などは条件不利地域です。挑戦しない限り、衰退します。

・・・福島県川内村は、東日本大震災や東京電力福島第1原子力発電所事故からの復興事業を独自に検証した。補助金など主に国の支援を受け約538億円をかけた取り組みを職員らが振り返った。被災地の街では異例の作業で、工業団地の整備を「期待した効果が上がらなかった」とした。

震災前に3000人強の住民がいたが、原発事故を受けて村全体に避難が求められた。それでも周りの自治体の中では最も早く、1年ほど後の2012年には住民の帰還が始まっている。
「財源のほとんどが税金で、当初に期待した効果が出たのか国民や関係者に伝える責務がある」。2日に記者会見した遠藤雄幸村長は点検の狙いをこう話した。
検証は副村長が委員長となり、課長級の職員ら10人ほどが担った。これまでの約1500の事業を46項目に分類。村独自の除染、公営住宅やワイナリーの建設、医療や教育の施設づくり、高齢者の外出のための乗り合い車両といった大半のプロジェクトを「効果があった」とまとめた。
一方、働き口を得ようと14年から28億円をかけ開発を始めた田ノ入工業団地は芳しい結果が出ていない。7工区のうち進出を決めた4社のうち1社が建設を中止。1社が倒産した。「復興へのスピード感を優先するあまり企業についての情報を得るのに甘さがあった」(遠藤氏)

今回の検証を踏まえ、すでに終わった11事業を除く34の事業はすべて続けると決めた。
一方で事業の経済効果について詳しい計算は資料に乏しい。議論の記録も公表も見送った。「職員個々の考えについても記載がある。自身や先輩が取り組んだ事業を振り返ることに心理的な抵抗もあった」。遠藤氏の説明には最前線で悩んだ職員の胸の内が垣間見える。
「84点」。遠藤氏は会見で復興事業の採点を問われ言葉を探したうえで、避難した住民の帰還率からこう答えた。災害復興の物差しは何か。厳しい経験から15年後の作業が、投げかけているようだ・・・

福島原発被災地視察

2026年7月14日   岡本全勝

7月13日14日と、福島県の原発被災地を視察してきました。旧知の首長さんにも会って、現状と課題を聞きました。多くの地域では災害があったことがわからないくらいになっています。他方で、まだ避難指示が解除されていない地域も残っています。息の長い取組が必要です。
14日は、県庁で、国や他都県から派遣されている職員との意見交換会。皆さん若いので、知らないであろう発災当初の状態や、どのような考えで復興を進めたかを話しました。若い力、外からの視点で、復興を進めてください。

被災自治体への応援職員、総括役登録1000人に

2026年6月21日   岡本全勝

6月6日の日経新聞に「被災自治体への応援職員、総括役登録1000人に」が載っていました。

・・・大規模災害時に都道府県などから派遣され、被災自治体の首長らを補佐する応援職員の登録数が1千人に到達した。ここ2年で7割以上増え、南海トラフ巨大地震をにらんだ国の目標に届いた。ただ人数には地域間で偏りもみられ、さらなる人員の充実が求められる。

応援職員の名称は「災害マネジメント総括支援員(GADM、ギャドム)」。地元で災害対応の経験があるなど、知見を有する管理職経験者らを対象とする。都道府県や市区町村の推薦により総務省が登録する。
創設の契機は2016年の熊本地震だ。
11年の東日本大震災で対応にあたった仙台市や宮城県東松島市などの職員が熊本県内の被災地に入り、避難所や災害対策本部の運営などをサポートした。
これらの実績から政府は18年にGADMを導入した。同年に始まった「応急対策職員派遣制度」の一環だ。

GADMは災害時、総務省などとの調整を経て被災自治体に派遣される。住民の安否確認や避難所運営、家屋被害の調査といったフェーズごとに、首長や幹部職員へ対応について助言する。
これまでに18年の西日本豪雨や24年の能登半島地震などで活用された。
跡見学園女子大の鍵屋一教授(地域防災)は「災害時は安否や避難所などに関する情報が飛び交い、幹部職員はどう対処したらいいか混乱しがちだ」と話す。その際に支援するGADMの役割は円滑な災害対応のためにも重要だと説く・・・

佐藤仁・前南三陸町長の回想2

2026年6月11日   岡本全勝

佐藤仁・前南三陸町長の回想」の続きです。

―他にも制度に疑問を持っていたことはありますか。
佐藤 政府は復興にあたって「創造的復興」という理念を掲げましたが、この内容には疑問がありました。政府がいう創造的復興とは、基本的にインフラに関しては原型復旧です。元の場所に復旧させろということです。
例えば、海岸近くにあった運動公園は津波で約3分の1が流失しました。安全性を考えれば別の場所への移転が合理的なのは明白です。しかし制度上は「元の場所に復旧すること」が原則であり、移転が簡単には認められませんでした。この調整に2~3年を要しましたが、最終的には復興副大臣に直接働きかけ、内陸部への移転が認められました。

南三陸町の人口はかつての約2万人から、今は約1万2000人に減少しています。それでも制度上は、2万人時代の施設を前提に復旧を進めようとする。これは将来世代に過重な負担を残します。私たちが目指した創造的復興は、より立派にすることではありません。身の丈に合った町をつくることでした。やめるものはやめる、縮小するものは縮小する、統合するものは統合する。それが本当の意味での創造的復興だと思っています。

―そのようなことを踏まえて、復興において重要なことは何でしょうか。
佐藤 発災後だけでなく、平時の時から考える「事前復興」を含めた総合的な対応が重要です。復興庁は東日本大震災を契機に設置された組織ですが、今後はこの11月に発足すると報道されている防災庁が、災害前の備えから発災直後の対応、復旧・復興のプロセスまでの役割を一体的に担うことに期待しています。

―復興を通じて、官民の役割分担はどうあるべきだと考えますか。
佐藤 大災害の復興では、自治体だけでは何もできません。役割は明確に分かれます。自治体は、道路や住宅地などのインフラ整備を担います。一方、漁業・農業・林業・観光・商業といった産業の再建は、基本的にその分野に携わる人々が主体となる必要があります。

大災害時には、行政職員自身も被災者であり、家族を失ったり自宅を流されたりしています。その中で行政機能の再建とインフラ整備を担うため、すべてに手を回すことは現実的ではありません。南三陸町では、それでも職員は愚痴を言わずに働き続けました。私は彼らを「スーパーヒーロー」だと思っています。だからこそ自治体の職員にすべてを背負わせてはいけない。自治体では、制度や資金に関する情報提供などはしますが、産業の再建は民間主体に委ねるという役割分担が不可欠です。
そして、そのような役割分担をうまく機能させるためには、再建に向けて同じ方向を向くことです。南三陸町は小さな町で顔の見える関係があったこともあり、自治体と民間の間で信頼関係が築かれていました。「この人なら任せられる」という関係性が機能していたことは大きかったです。

佐藤仁・前南三陸町長の回想

2026年6月10日   岡本全勝

日経BP「一歩先への道しるべ」「元・南三陸町長が語る復興の原動力 東日本大震災の「想定外」に挑んだ15年」(5月13日)から。佐藤仁・前南三陸町長は、東日本大震災の際に、津波に襲われた防災庁舎の屋上で奇跡的に助かり、その後2025年まで復興の指揮を執られました。

―東日本大震災が発災以降、町長として長い期間に渡って復興に取り組まれてきました。課題はどのような点にありましたか。
佐藤 仁氏(以下、佐藤)最も頭を痛めたのが、東日本大震災は、国の制度がまったく想定していなかった災害だったという点です。規模も被害の質も、従来の制度の枠組みでは対応できない災害でした。それにもかかわらず、復興は既存制度の上で進めざるを得ない。このギャップが大きな壁でした。
その中で救われたのが復興庁の存在です。復興庁があったおかげで、国と直接議論ができました。本来であれば県を通すわけですが、どうしてもワンステップ入るとストレートに思いが伝わらない。国に対して直接思いが伝えられたのは大きかったです。
復興庁に一貫してお願いしたのは、「制度に復興を合わせるのではなく、復興に制度を合わせてほしい」ということです。いろいろな要望に応えていただきましたが、制度に合わない要求を通してもらうのは、簡単なことではありませんでした。

例えば、町中心にある低地部の嵩上げ事業です。私たちは復興計画の最初に、「二度と津波で命を失わない町をつくる」と固く決めました。そのため、低地に関しては嵩上げをして人が住まない商業や観光といった用途に使用、そして住まいに関してはすべて高台に移転する方針としました。これが復興に対しての一丁目一番地です。
ところが嵩上げ事業を認めるための条件に「1ヘクタールあたり夜間人口40人以上が居住している」があったのです。つまり、「人が住まない場所は嵩上げできない」という理屈です。しかし、嵩上げを必要とした低地は、志津川湾に面した中心市街地で、震災前から商業・観光の核でした。港や海へのアクセスを失わずに経済活動を始めるには、この場所の再生が必要だったのです。

解決の決め手になったのは、低地のままでは水が溜まった際に、排水コストが発生するという課題でした。防潮堤や河川堤防などに囲まれた低地は、大雨が降るたびに水が閉じ込められた状態になる。そうすると、排水コストが生じてしまう。このような将来像を示し、嵩上げのコストと未来永劫発生しかねない排水コストを比較しながら、「今やる方が合理的で、結果的に安い」という説明を重ねました。
このような説明がすぐに通るわけではなく、実現までには長い期間を要しました。基本的に国が制度や法律を曲げることはありません。ただし、「合理的な理由」と「説明可能な根拠」があれば、制度の運用として柔軟に対応してもらうことは可能です。そのためには、「なぜ今やるべきか」「将来にどのような影響があるか」を明確に示す必要があります。