カテゴリー別アーカイブ: 歴史

経済成長期の東京、スラムの新築

朝日新聞土曜日別刷り連載、原武史さんの「歴史のダイヤグラム」。鉄道を切り口にした、歴史や社会の切り口が興味深く、毎週楽しみに読んでいます。
3月2日は「焦土から木造アパートへ」でした。東京の中央線沿線が、空襲によって焼け野原になったことが取り上げられています。そこに、戦後の風景が描写されています。

次に引用するのは、その後のことです。
・・・もちろん年月が経つにつれ、中央線の沿線でも再び宅地化が進んだ。だが55年ごろからは、「木賃(もくちん)アパート」と呼ばれる木造2階建ての賃貸アパートが急増する。それらは東京西郊に当たる山手線の外側の区域に帯状に建てられ、高度成長期に上京してきた大学生や労働者が多く住むようになった。

社会学者の加藤秀俊は、66年に北米を旅行して帰国した直後に新宿から中央線に乗ってみて、その風景に驚いた。国立の一橋大学に通っていた頃とはあまりにも違う。「いま眼に映るのは、住宅というにはあまりにお粗末な木造アパートである。かつてあった住宅は取りこわされ、六畳一間のアパートがそのかわりに出現しているのだ」(『車窓からみた日本』)
北米の住宅を目にしてきたばかりの加藤にとって、「この住宅地は、あまりにひどすぎる」(同)と映った。「はっきりいって、日本人は、スラムを“新築”しているのである」(同)
表面上の高度成長とは裏腹の現実を、加藤は中央線の沿線に見た。敗戦から20年あまり経っても、日本は真の復興を果たしていないのだ。「中央線の車窓の第一印象は、こんなわけで、いささかの怒りと悲しみをともなうのであった」(同)・・・

我慢する

フランス語に「我慢する」はない」の続きです。肝冷斎に教えてもらいました。

「がまん」は日本人が母語として、しかもかなり幼いころから違和感なく使うことばです。しかし、漢語でしかもサンスクリットの意訳です。
漢語の原義では、「我慢」は「慢心」の一種で、「自分に固執して他者を見下す思い上がり」というような意味です。「自慢」も同じ意味です。
「慢」(まん)はサンスクリット「マーナ」の音訳で、思い上がりの心だそうです。

それが、近世に「がまんを無くせ」が「がまんしろ」になり、「がまん」がほぼ反対の意味に転換してしまいました。

これもまた、専門家を知人に持っていると得をする例です。

フランス語の明晰性とその限界

フランス語は明晰であると言われます。「明晰ならざるものフランス語にあらず」(Ce qui n’est pas clair n’est pas français.)は、18世紀の作家のことばです。何をもって明晰かどうかを判断するか、難しいですよね。それは神話だとも言われます。フランス語の単語の綴りと発音のずれ(発音しない文字がある)を見ただけで、明晰でないと思うのですが。

ただし、フランスは言語を明快にするために、努力をしています。国家機関のアカデミー・フランセーズが、フランス語の規範を定めているのです。アカデミー・フランセーズは、1635年にリシュリューが創設しました。中世の封建国家だったフランスを、近代統一国家・絶対王政の国に仕立て上げたのがリシュリューで、彼は統一国家言語を作ろうとしたのです。その反面、方言が抑圧されました。

もう一つ、色摩力夫さんが、著書『黄昏のスペイン帝国ーオリバーレスとリシュリュー』(1996年、中央公論社)で、スペインの哲学者オルテガの説を引用して、次のように指摘しています(337ページ)。
「フランス語は明快であり、明快なものはフランス語である」との格言が、自縄自縛に陥った。言葉と理念の明快を求めるのは美徳である。しかし、言語による「表現」の明快と、表現される「もの」の明快とは関係がない。「もの」には明快でなく難解なものも多い。難解なものをどのように表現するか。表現の明快を求めるあまり、難解なものまで明快であるかのように表現するのは虚偽である。フランス文化はこのような誤りに陥る危機にあるのではないか。

経済学者の権威

12月14日の日経新聞夕刊1面コラムは、根井雅弘・京都大学教授の「松の廊下」でした。

・・・「松の廊下」といっても、浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた江戸城のことではない。京都大学法経本館をエレベーターで3階まで上がると、そこに昔「松の廊下」と呼ばれた空間が広がっている。帝国大学時代、この3階には威厳のある教授たちの研究室が並んでいたのだろう。
もちろん、当時この目で見たわけではないが、私の大学院時代も、なんとなくその雰囲気は残っていた。というのは、「松の廊下」には、経済学部教授の伊東光晴研究室(ケインズ研究の権威)、菱山泉研究室(スラッファ研究の権威)、平田清明研究室(マルクス研究の権威)が並んでいたからである。学界の権威者ばかりである。壮観というほかない・・・

う~ん。経済学の権威は経済の様々な分野、例えば金融、産業、労働、物価、マクロ経済、ミクロ経済などの権威だと思うのですが。ここにあげられている方々は、ヨーロッパの経済学者についての権威なのですね。日本の学問が、欧米の輸入だったことを象徴しているようです。

毎年同じことを講義した教授

読売新聞連載「時代の証言者」化学者の岡武史さん、11月23日に次のような文章があります。こんな時代があったのですね。それとも、自分で勉強せよという時代だったのでしょうか。

・・・1951年春に東大に入り、最初の2年間は駒場キャンパス(東京都目黒区)での教養課程です。これはよかった。まだ有名になっていない、新進気鋭の先生方が素晴らしいんです。好きな数学はもちろん、近代経済学なども、ズバズバッとよく分かる講義でした。
ところが、理学部化学科へ進み、本郷キャンパス(文京区)で講義を受け始めたら、全く面白くない。化学教室の先生方はもう堕落しててね。ある先生なんか、1学年上の人から貸してもらったノートと、話すことが冗談まで一言一句同じ。何十年一日のごとく、毎年同じものを読み上げていたのでしょう。偉い先生はとにかく威張ってばかり。

ちょうど学外の活動で忙しくなったこともあって、大学へ行くのは、学生同士で自主的に専門書や論文などを読む輪講くらいになりました。朝4時に起きて自習した後、8時から10時頃まで輪講をして、偉い先生方が講義室へ来る時間になると、僕は大学から逃げ出していました・・・