カテゴリーアーカイブ:歴史

福井ひとし氏の公文書徘徊14

2026年7月3日   岡本全勝

アジア時報』7・8月号に、福井ひとし氏の連載「一片の冰心、玉壺にありや?―公文書界隈を徘徊する」第14回「一五日あったらどう使う?─官吏暑中休暇のてんまつ」が載りました。今回は役人の夏季休暇についてです。

明治6年の公文書には、奏任(官)以上は15日以内、判任(官)以下は5日以内の夏休みを与えると書かれています。奏任官、判任官、そして雇の区分については、本文をお読みください。夏目漱石の「坊ちゃん」を引用した説明があります。
また8月中は8時出勤、12時退出とされています。結構、働いていませんね。現在より暑くなかったのに。もっとも、冷房もなかったです。
私が採用されたときに、事務室に冷房はあったのかなあ。いつ頃、冷房が入ったのでしょうか。後に残業していると、冷房が切られ、暑くなった記憶はあります。地下鉄に冷房が入ったのは、まだ最近です。とてもムシムシしたことは覚えています。

大正11年に、季節ごとに変動した勤務時間を統一します。平日9時~16時、夏は8時~15時。土曜日は9時~15時、夏は8時~12時。その決定に官僚から反対意見が出て、それも記録されています。

あとは本文をお読みください。戦前とつい最近まで、官僚は無定量の勤務が期待されていました。これらの勤務時間の規定と「無定量」との関係、そして勤務実態はどうだったのか。知りたいです。
脱線すると、天下国家を考えることと、労働を時間で売る(測る)ことは、整合性がとれません。経営者や学者にとっての勤務時間と同じかもしれません。

インターネットを予想できなかった人たち

2026年6月8日   岡本全勝

読売新聞「時代の証言者」は、鈴木幸一の「ネット開国に挑む」が続いています。鈴木さんは、インターネットという言葉が一般に知られていなかった時代、インターネットイニシアティブ(IIJ)を創業し、国内企業で初めてインターネットの商用サービスを始め、日本のネット基盤を築き上げてきました。6月4日の「資金集め 相手にされず」から。

・・・1992年12月、インターネットイニシアティブ企画という会社を設立し、93年にインターネットイニシアティブ(IIJ)に変更しました。社名には、我が社がイニシアティブ(主導権)を取ってネットで社会変革をもたらすとの気概を掲げました。
資本金の目算は大きく外れました。電力会社からの10億円とその他の企業からの拠出で、20億円以上集まる想定でしたが、実際は、懐の寂しいエンジニアが持ち寄った約1800万円でのスタートでした。

当てにしていた企業からの出資話はビジネス的に詰められた話ではなく、資金集めはゼロからの出発となったため企業へのお願いに日々を費やしました。ネット市場の成長予測と事業計画を綿密に練り、その将来を説きました。
ある銀行の幹部に「日本のインターネットの利用者は現在は1000人程度ですが、10年後には3000万人になります」と話をすると、当初は「ホラもそこまでくるとたいしたものだ」とあきれられました。私の予測は、逆の意味で外れました。10年後の利用者は8000万人に迫り、今では驚きでもありません。
悔しい、笑い話のような思い出もあります。
ある鉄鋼メーカーにお願いに行った際には、「インターネットを私なりに調べましたが、皆がビジネスとして使うようになったら、全裸で逆立ちして銀座を歩きますよ」と、冗談交じりに言われました・・・

この人たちに、現在の心境を聞いてみたいですね。

福井ひとし氏の公文書徘徊13

2026年6月1日   岡本全勝

アジア時報』6月号に、福井ひとし氏の連載「一片の冰心、玉壺にありや?―公文書界隈を徘徊する」第13回「政党内閣に九片の「冰心」ありや?」が載りました。29ページもの力作です。
今回は、原敬内閣(1918年・大正7年組閣)の閣僚の紹介です。もう100年以上前のことになります。平民宰相、本格的な政党内閣です。朝敵の藩から立身出世するだけでなく、政党を取り仕切り、政権につく。並大抵のことではありません。

原首相と8人の閣僚とその功績を、公文書や新聞記事で紹介しています。よくまあ、こんなことを思いつき、たくさんの公文書を調べるものですね。感心します。盛岡市にある原敬記念館をも、調査しているようです。ここでも見たような・・・

この連載は、国立公文書館にある公文書を材料にして、歴史的事件などに立ち会った人たちの動きを紹介する「近代史読み物」です。役所は古代中国、律令国家以来、前例主義です。それがないときはどのように「切り抜けるか」。官僚の知恵が試されます。そして官僚は文書で仕事をするので、その過程が残っているのです。

意識の鎖国

2026年5月24日   岡本全勝

日本の投資の停滞」(4月20日)で、滝澤美帆・学習院大学教授の「日本は「イースト型」の経済成長を促せ」(4月2日の日経新聞経済教室)を紹介しました。そこには、次のようなことが書かれていました。
「日本の労働生産性(時間当たり)はこの30年間、主要先進国で最低水準にとどまり続けている。深尾京司・経済産業研究所理事長の研究によれば、1人当たり国内総生産(GDP)を基準に見ると、日本が技術フロンティアから著しく乖離した局面は鎖国下で産業革命に乗り遅れた江戸時代末期、太平洋戦争前後に続いて、1990年代以降が3度目だという」

日本が海外との交流をやめて「内向き」になった時代は、平安時代(中期以降、遣唐使船の停止)、江戸時代(鎖国)、戦時中があります。内に閉じこもると、それなりに安定した社会ができますが、外からの刺激と競争がないと残されてしまいます。
「失われた30年」は、これらと並べることができるかもしれません。
鎖国をしているわけではないのですが、特に国際化が進んだ現在では、海外で戦わないと地位が低下するのです。内に閉じこもった企業だけでなく、海外への留学生や旅行客の減少など。国民が「世界一になった」と満足したことで、海外との競争を怠ったように見えます。意識の鎖国です。第2の鎖国とも言えるかもしれません。

古代の朝鮮半島や中国との交流から始まり、南蛮貿易、明治時代と、文物や思想などを輸入することで、日本は発展してきました。それを考えると、平安時代、江戸時代、戦時中に続く、第4の鎖国なのかもしれません。
もう一つは、「先進諸国に追いつく」という「この国のかたち」が機能しなくなったことも挙げられます。目標・手本とすべき国や文明が明確でないのです。佐伯啓思先生「日本の方向を決めるのは」2

福井ひとし氏の公文書徘徊12

2026年5月1日   岡本全勝

アジア時報』5月号に、福井ひとし氏の連載「一片の冰心、玉壺にありや?―公文書界隈を徘徊する」第12回「石油の国・ニッポン」が載りました。詳しくは、記事を読んでいただくとして。

20世紀は、石油の世紀でもありました。動力源が人力や家畜から石油に、エネルギーが木炭や石炭から石油に、そして電力の源も石油に、自動車の燃料として、さらに化学製品へと、世界の活動は石油に浮かぶようになりました。今回の記事は、石油の世紀の幕開けに対応した明治政府(の公文書)から始まり、太平洋戦争(この戦争は石油を確保する争いでもありました)、戦後の石油確保の苦労、そして石油危機へと、話が進みます。

若い人はご存じないでしょうが、1978年に起きた石油危機(第一次)は、それはそれは大変なものだったのです。私は大学1年生でした。トイレットペーパーがなくなることを想像してください。もっとも、トイレットペーパー生産が停止したのでもなく、国民がたくさん使うことになったのでもありません。業者が便乗して値上げを狙って、出荷を抑えたというのが真相のようです。街からネオンサインが消え、暗い夜になりました。ただし、戦時中の物資不足を経験した父と母の世代は、衝撃は少なかったでしょう。

今回のイランとアメリカの戦争で、石油や石油製品の品不足が心配されています。石油危機に懲りて、日本政府は石油の備蓄に取り組みました。そのおかげで、現在のところ、大きな影響は出ていないようです。石油があることが普通の生活になじんだ若者には、なかなか想像がつかないと思います。しかし、少し歴史を遡れば、よく似た事案があります。
世界には石油備蓄が少なく、困っている国もあるようです。日本も余裕ある備蓄があれば、融通することができるのですが。そこまではありませんかね。

最後に「油断大敵」の語源が紹介されます。油がなくなることではないのですね。いつものことながら、執筆者の博学博識ぶりと、公文書を漁ってくる努力には脱帽します。