カテゴリーアーカイブ:体験談

本居宣長が見た我が故郷

2026年6月29日   岡本全勝

本居宣長が吉野に旅した際に、『菅笠日記』という旅の記録を残しています。そこに、我が故郷の「岡」も書かれていることを教えてもらいました。原文(江戸時代の刊本は読めないので、奈良女子大が活字にしてくれたもの)と現代語訳を載せておきます。「日本古典文学テキスト」もあります。

菅笠日記」(奈良女子大
・・・やゝゆきて。左のかたに見ゆる里を。川原村といふ。このさとの東のはしに。弘福寺とてちひさき寺あり。いにしへの川原寺にて。がらんの石ずゑ。今も堂のあたりには。さながらも。又まへの田の中などにちりぼひても。あまたのこれり。その中に。もろこしより渡りまうでこし。めなう石也とて。眞白にすくやうなるが一ツ、堂のわきなる屋のかべの下になかばかくれて見ゆるは、げにめづらいきいしずゑ也。尋ねてみるべし。里人は観音堂といふ所にて。道より程もちかきぞかし。つぎに橘寺にまうづ。川原寺よりむかひにみえて。一町ばかり也。此寺は今もやゝひろくて。よろしきほどなる堂もありて。古の石ずゑはたのこれり。橘といふ里も。やがて此寺のほとりなり。日くれぬれば。岡の里にとまる。かの寺よりちかし。
此あひだに土橋をわたせる川あり。飛鳥川はこれ也とかや。いまの岡といふ所は。すなはち日本紀に飛鳥岡とある所にや。さらば岡本宮も。(舒明天皇皇極天皇斉明天皇三代の京)その傍とあれば。遠からじとぞ思ふ。又清御原宮は。その南とあなれば。その跡もちかきあたりなるべし。

十一日。朝まだきにやどりをたちて。岡寺にまうづ。里より三町ばかり東の山へのぼりて。二王門あり。額に龍蓋寺とあり。この門よりまへの道の左のかたに。八幡とて社もあり。さて御堂には。観音の寺々をがみめぐるものども。おひずりとかいふあやしげなる物をうちきたる。男女おいたるわかき。數もしらずまうでこみて。すきまもなくゐなみて。御詠歌とかいふ歌を。大聲どもしぼりあげつゝ。ひとだうのうちゆすりみちてうたふなるは。いとみゝかしかましく。大かた何事ともわかぬ中に。露をかでらの庭の苔などいふこと。ほのぼのきこゆ・・・

諏訪邦夫 現代語訳
・・・さらに進むと、左側に見える里を川原村といいます。この里の東のはしに、弘福寺《ぐふくじ》という小さな寺があり、これが昔の川原寺《かわらでら》で、伽藍《がらん》の 石礎などが、今も堂の付近に残り、前の田の中にも散らばって残っています。その中に、 唐土から渡ってきた瑪瑙《めのう》だという、真白で透明な石が一つ、堂のわきにある建 物の壁の下に、半分かくれて見えるのが珍しい礎石ですから、訪れてみて下さい。里人は 観音堂と呼び、道も近いところです。 つぎに橘寺にお参りしました。川原寺の向かいにあって、一町ほどです。この寺は今も 少し広くて立派なお堂もあり、やはり昔の石礎が残っています。橘という里も、この寺の すぐ近くです。日暮れになったので、岡の里に泊まります。岡寺に近いところです。この 間に土橋をわたる川があり、これが飛鳥川だということです。いまの岡という所は、日本 書紀に飛鳥岡とある所でしょう。そうすると岡本宮も、【舒明天皇皇極天皇齊明天皇三代(34、 35、37 代)の京】その傍ということですから、ここから遠くないと思います。また清御原 宮(上には、浄御原とある天武天皇の宮殿)は、その南とありますから、その跡もこの近 くでしょう。

朝早く宿を出て、岡寺にお参りしました。里から三町ほど東の山に登ると二王門があり、額に龍蓋寺とありました。この門から前の道の左側に八幡社もありました。御堂には、観音の寺を拝みめぐる人たちが、おひずりとかいうあやしげな物を着て、老若男女多数お参りでぎっしり並び、御詠和歌とかいう歌を大聲でしぼりあげながら堂内をとどろかせて歌うのはひどくうるさく、全体としては何だかわからないまま、露岡寺«つゆおかでら»の庭の苔などという言葉がぼんやり聞こえました・・・

橘という集落(橘寺があります)から飛鳥川を土橋で渡り、岡の集落に入ります。私の子どもの頃、土橋はまだ土橋でした。その橋の下で泳ぎました。道をたどると、すぐに岡本の本家の前に出ます。これが当時(大正時代に高市橋がかかるまで)主要道でしたから、間違いなく家の前を通っているはずです。岡の集落は岡寺(西国巡礼7番札所)の門前町として栄えていました。私の子どもの頃は、まだ宿屋が残っていて、商店街もありました。宣長は、このあと酒船石を見て、飛鳥寺に行きます。

聞き書きを受けました2

2026年6月19日   岡本全勝

聞き書きを受けました」の続きです。
東大駒場先端科学技術研究センターの研究室で、月に1回、10人近い政治・行政学者と記録者の前で話すのです。都合で参加できない方もいますが、オンライン参加もあります。

「思い出話」「自慢話」ならお気楽なのですが、ここではいい加減なことは話せません。毎回、対象となる時期・仕事に関して、何をしたかを思い出し、資料を引っ張り出して、発言骨子をつくりました。他方で、事前に質問項目が届けられます。この準備が少々、心の負担でした。細かいところを覚えていないし、覚えていても正確か検証できません。毎回準備していくのですが、話しているうちに思い出すことも多いのです。私の関心と、研究者の関心が異なる面もあります。

聞いてくださるのは、日本の行政に詳しい研究者ばかりです。しかし、官僚が実際に何をしているか、何を考えているかは、詳しくはご存じないでしょう。そう考えて、私の実体験「官僚の生態」を、かなり赤裸々にお話ししました。
私は、昭和後期と平成時代を経験しています。職場の中も、取り巻く環境と評価も大きく変わりました。若い人は、「昭和の官僚」を知らないでしょう。日本の官僚は世界一といわれた時代から、その後の評価の低下を見てきました。それについては、連載「公共を創る」を書いています。
県庁の末席や幹部、霞ヶ関の末席から事務次官、首相秘書官まで、さまざまな職を経験しました。50年に一度の省庁改革、再チャレンジ政策、半世紀ぶりの地方分権、千年に一度と言われる東日本大震災対応と、珍しい仕事も与えられました。話題には事欠きません。

ただし私が知っているのは、私の経験であり、私が見たものです。相手や関係者は違った見方をしていたでしょうし、第三者や神様からは違ったように見えたでしょう。そこが、怖い点です。

私が話し、質問に答えた発言は、記録者が文字に起こしてくれます。それに私が手を入れて、読めるようにし(話し言葉は、まともな文章になっていないか所もたくさんあります)、間違いを訂正して、記録版をつくります。1回当たり、A4用紙で30ページ以上になります。それが33回分です。とんでもない分量です。電子データなので、場所は取らないのですが。
先生方の前で話す研究としてはひとまず終わったのですが、この記録をどのように扱うか。他人に読んでもらうとすると、不確かなところや、登場する人物が読んで不快になる箇所は削除する必要があります。ゆっくりと悩みましょう。
一仕事を終えて、ほっとしているのですが、まだ完了ではありません。

聞き書きを受けました

2026年6月13日   岡本全勝

牧原出・東大教授を代表とする研究で、聞き書き(オーラルヒストリー)を受けていました。
2023年5月からほぼ毎月、1回2時間です。3年間で計33回になり、先日で完結しました。大学を卒業して自治省に就職した頃から、内閣官房参与・福島復興再生総局事務局長を退任するまで、42年間のことについてです。3年もかかるとは思わなかったのですが。

お誘いがあったときは、まだ68歳でした。牧原先生に「そのような対象は高齢の方で、私はまだ若いのではありませんか」と聞いたのですが、「いや、時間がたつと忘れますから」とのことでした。自分ではまだまだ若いと思っているのですが、68歳といえば現役の方から見ると年寄りですよね。オーラルヒストリーは著名な方が対象なので、私で良いのかとも思いましたが、研究者の方の役に立つなら、また後輩の参考になるならと、引き受けました。

先生のおっしゃるとおりで、忘れていました。事務次官を退任してから9年、総理秘書官を辞めてからでも14年経っています。駆け出しの頃からなら、40年も経っているのです。忘れているはずです。印象的な場面などは覚えています。また飲み会などで繰り返した思い出話なども。しかし覚えていても、正確とは限らないのです「嘘をつく意識はないが記憶を美化する」。「人は記憶を作る

40年間の手帳」で書いたように、手帳は入省5年目からすべて残っていました。ところが、会議とか行事や、誰と会食したかなどは書いてあるのですが、どのような仕事をしていたか、何を考えていたかは書かれていません。手帳は予定表であって(後で実績により訂正をしたものもありますが)、日記のようにその日の振り返りではないのです「予定と振り返り」。
発掘された書類」で書いたように、段ボール箱に詰めてあった書類や写真を、引っ張り出す機会になりました。こんなことでもない限り、そのまま捨てたでしょう。自分のやってきたことを振り返る、ありがたい機会でした。

私は、携わった業務について雑誌や本に書いて残したので、それらは役に立ちました。若いときから「やったことを残したい」「このような意図で取り組んだということを知ってもらいたい」という意識が強かったのです。また、載せてくれる雑誌があったからです。地方交付税、地方分権、省庁再編、再チャレンジ政策、東日本大震災対応など。「著作一覧
この項続く

本家の再活用、ハンバーガー店

2026年4月26日   岡本全勝

このホームページでも何度か取り上げた、「本家の再活用」。明日香スタンドという、観光客の休憩所となっています。
4月から、有名なハンバーガー屋さんが入ったそうです。「さくらバーガー明日香店オープン」。

景色も良く、石舞台に行く道路沿いで、駐車場も整備しました。場所としては最適です。流行っているとのことです。
近くに「あすか燻製工房」もあります。

読売新聞「明日香村」

2026年4月25日   岡本全勝

4月19日の読売新聞別刷り「旅を旅して」は、明日香村でした。ビデオで映像も見ることができます。

1面「古代つかむ 石舞台の思索」には、桜の花がきれいな石舞台の写真が載っています。このホームページ「略歴」につけてあるあの石舞台です。

・・・山が美しいと思った時、私は其処(そこ)に健全な古代人を見附(みつ)けただけだ。それだけである。――――小林秀雄「蘇我馬子の墓」(1950年)

奈良県明日香村の石舞台古墳は、7世紀前半に造られたわが国を代表する方墳である。国の特別史跡だ。日本初の女帝となった推古天皇(在位592~628年)に仕え、権勢を誇った蘇我馬子(?~626年)の墓とされる。墳丘の封土は失われて天井石が露出、巨石がむき出しになったその威容は、歴史教科書でみた人も多いだろう。
そんな石舞台古墳を批評家の小林秀雄が訪ね、どうしたかといえば、「天井石の上で、弁当を食いながら、私はしきりと懐古の情に耽(ふけ)った」。何ということだろう。今夏に世界遺産になるかもしれない古墳の上で、弁当を食ったというのだ。案内してくれた橿原考古学研究所元調査課長の今尾文昭さん(70)(日本考古学)が笑う。「まあ、昔はおおらかでした」・・・

私の通った小学校は、この隣にありました。良い遊び場で、石の上に乗って遊びました。今は立ち入り禁止ですが。大きな石組みですが、登るにはコツがあって、子どもでも簡単に登ることができました。

2面「飛鳥宮跡 時代の息吹伝える」には、飛鳥宮跡の写真(中心にあった井戸の復元)も載っています。板蓋宮と呼んでいました。中学のカエルの解剖には、ここで捕まえたカエルを持っていきました。水たまりなので、いつもカエルがいたのです。捕まえやすかったし。