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生き様-生き方

私の履歴書の限界2

私の履歴書の限界」の続きです。
ある人と話していたら、「私の履歴書には、面白い人と、そうでない人がいるね」とのこと。その話を要約すると、初めてのことに挑戦した人と、既存組織で出世した人との違いのようです。

企業家だと、自ら会社を興した人や、潰れそうになった会社を立て直した人が、興味深いです。2月に掲載された女性登山家の今井通子さんは、女性として初めての困難な登山をいくつも切り開いてこられました。それぞれに苦労をしておられます。かつてなら偉人伝に載るような人で、社会一般の人が読んでも勉強になります。

既存企業や役所で出世した人も、大変な努力をしておられ、後輩たちの参考になります。しかし、それは同輩中の競争の場合が多いです。新しいことに挑戦して組織を変えたとか、こんな苦労を乗り越えて組織を立て直したたという話なら、興味深いのですが。良いと言われる学校を出て、有名企業や官庁に就職し、出世しましただけでは、面白くないです。会社員や公務員には参考になりますが、社会一般の人が読んでもつまらないでしょう。

40年前に「私の履歴書」を読んだ頃は、戦中と戦後を生きてきた人たちの記録が多かったです。その方々は、とてつもない苦労を経験し、新しい事業や仕事を切り開いてきた人たちです。社会が安定すると、そのような人は少なくなるのでしょうか。

私の履歴書の限界

日経新聞朝刊の最後のページに、連載「私の履歴書」があります。毎月、お一人の人生を取り上げています。経済界だけでなく、文化・芸術・スポーツ関係の方、政治家、官僚もあります。
先達がどのようにして生きてきたか、仕事をしてきたかの教科書として、若いときから読んでいます。

若いときは、登場される方すべてが、勉強になりました。私の知らない世界ばかりでしたから。その後に経験を積んだことで、より客観的に読むことができるようになりました。時に感じるのは、「そんな、うまくいったことばかりだったのですか」という疑問です。
自叙伝ですから、都合の悪いことは書かないのでしょうね。忘れているのか、覚えていても書かないのか。私もこのホームページに、笑い話ですむことは書きますが、不都合なこと(特にほかの人に迷惑がかかるような話)は書きませんから同じです。

その人の評価は、本人ではなく、別の人が行うことなのでしょう。聞き書き(オーラルヒストリー)もありますが、都合の悪いことは質問しにくいし、本人も話さないでしょう。これも限界があります。
本人が話さない「都合の悪いこと」のほかに、その人が周囲からどのような評価を受けていたかも、本人はわかりません。特に悪い評判です。
そして、本人が社会や組織でどのような役割を果たしたのか、果たさなかったのかもです。
この項続く。

人生の意味は誰が決めるのか3

人生の意味は誰が決めるのか2」の続きです。自分の人生の意味を考えることについてです。人生が自己発見の過程であるとすると、最初から目標があり、物差しがあるわけではありません。

私が心がけてきたことは、その場その場で精一杯生きることことです。
官僚という職業を選んだので、仕事が社会の役に立つことは疑う必要はありませんでした。仕事の中で判断に迷うこともありましたが、「後世の人に説明できるか」「閻魔様の前で胸を張れるか」を判断基準にしてきました。もっとも、いつもいつも正々堂々と立派に行動してきたとは言えません(恥ずかしいです)。

どのような職業を選ぶか、そしてどのような生活を送るかは、人それぞれです。しかし、棺桶に入ったときに「私は精一杯生きた。悔いはない」と言える人生が「善い人生」なのではないでしょうか。
希望して努力してもうまくいかない場合も、偶然や不条理なことで夢が実現しないこともしばしばあります。いえ、そのようなことの方が多いでしょう。
結果がうまくいくことはうれしいことです。しかし、うまくいかなくても「私は努力した」ということに価値があると思います。「心情倫理と責任倫理」、私の言葉では「努力倫理と結果倫理」です。

前回の話に戻れば、人生の意味は、本人が考える場合は「夢に向かってどれだけ努力したか」によって測られ、社会からは「どれだけ家族や社会に貢献したか」で測られるものではないでしょうか。
とはいえ、この問題は、人によって考え方が異なるでしょう。また、このような短い文章で語ることには向いていませんね。

目的地にゆっくり行く

2月14日の読売新聞「余白のチカラ」に「近道でなく 寄り道ナビ 絶景・名所巡り 運転楽しく」が載っていました。

・・・「この先で道を一本外れましょう」。スマートフォンからルート案内が流れると、千葉県君津市の山岳道路「房総スカイライン」を走っていた岩下宗伯さん(48)はハンドルを左に切り、林道に入った。
昨冬、妻をドライブに誘い、千葉・房総半島に向かった。川崎市の自宅を出て、木更津市内の道の駅に着くと、道案内アプリ「SUBAROAD(スバロード)」を起動。半島最南端の野島崎を目指した。
このアプリは、カーナビのように目的地までの最短ルートを案内するわけではない。時には脇道にそれ、知る人ぞ知る絶景や名所へとドライバーをいざなう・・・
・・・カーナビなら約70キロ、1時間10分の道のりが、約100キロ、3時間のドライブとなった。「ナビでは案内されない場所に行けて、走りがいがあった」と岩下さんは満足そうに話す・・・

いいですねえ。日本社会も個人も、がむしゃらに走ってきました。仕事は相変わらず「早く」とせき立てられますが、余暇や老後はゆっくりと行きたいものです。
私の休日の孫との散歩も同じです。途中でいろんなところに寄り道して、ゆっくりと時間を過ごしています。
かつて交通安全標語に、「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」という名文句がありました。

人生の意味は誰が決めるのか2

人生の意味は誰が決めるのか」の続きです。
ここでの「意味」は、内容(の説明)とともに、価値(の評価)が含まれているようです。内容なら「××して生きた」と記述すればすむ話ですが、価値はそれがあったかどうかを評価しなければなりません。
その評価は、誰が何を基準にするのでしょうか。本人でなく社会が評価するとしたら、その人がそれぞれの立場でどれだけ社会に貢献したかを評価するのでしょう。では、本人は何を基準とするのか。

多くの人は、日々の生活で人生の意味を深く考えることはないと思います。私も自分で考えたことはなく、聞かれたらどのように答えるか悩みます。
かつて大学で教えていたときに、学生から「自分は何者かは、どうしたらわかるか」という問がでました。いわゆる「自分探し」です。
私は「今20歳前後のあなたたちが自分探しをしても、答えは見つからない。まだあなたたちは、細いラッキョウのようなもので、これから皮を増やしてタマネギになるのだ」と説明しました。「「わたし」とは何か」「タマネギの皮を増やす

人生とは「自己実現」と意味づける場合もありますが、最初から「自己」という目標があるのではなく、生きていく過程で見つける「自己発見」と見る方がわかりやすいでしょう。