カテゴリーアーカイブ:生き様

少し古本を処分14

2026年7月11日   岡本全勝

少し古本を処分13」の続きです。
ついに、古本の分類整理が終わりました。他人に引き取ってもらうもの(押しつけるもの)、古本屋に引き取ってもらうもの、残すもの、捨てるものの分類が終わりました。引き取ってもらうものも、送りました。宅急便は便利です。
押しつけてしまった方々には、申し訳ありませんが、適当に捨ててください。自分では捨てるに忍びなく、他人に捨ててもらっているようなものです。

昨年夏から取りかかって、1年かかりました。不要なものを捨てるのではなく、思い出を捨てるようなものなので、やる気が起きず、作業も進みませんでした。多くの愛書家が経験していることでしょう。
階段や寝室、書斎の床に積み上がっていた本の山脈がなくなりました。家の床が、少し持ち上がったのではないでしょうか(笑い)。この記事の表題の「少し古本を処分」も、「大きく古本を処分」に変えなければなりません。

まだ本棚を整理できておらず、分野別に並んでいないので、その作業が必要です。約3~4千冊が1.5~2千冊くらいになったでしょうか。それでも、残っている本を生きている間に読むことは不可能です。しかも新しい本を買うし、読書量も減っています。棚の本の多くは、次に整理するまで、手に取ることもないのでしょう。我ながら、思い切りの悪い奴です。

整理していると、「こんな本も買ったのだ」「途中まで読んだなあ」という本が、たくさん発掘されます。「これは読みたかったんだ」という本が、机に積み上がります。そりゃそうですよね、読もうと思って買った本なのですから。
書斎にはまだ、何が入っているか、開けてみないとわからない箱がいくつかあります。開けるのが怖いです。

難しい会話

2026年7月4日   岡本全勝

先日のキョーコさんとの会話です。
「出かけるけど、何か買ってくる物ある?」
「あるわ」
「何を買ってきたらよいの?」
「買わなくても、必要なものはみんなあるのよ」

少し古本を処分13

2026年7月3日   岡本全勝

少し古本を処分12」の続きです。
古本屋に送った本の結果です。宅急便で送ってから5日後、向こうに到着して2日後に、査定結果が届きました。結果は次の通り。
送った冊数、131
買い取ってもらえた冊数、35
値がつかなかった冊数、96。これは古本屋が処分します。古紙になるのか。

買い取り金額は、合計1万6千円あまり。クーポンで2割増しとなって、約2万円でした。
ほぼ捨てるしかない古い学術書が多いので、35冊に値がついただけでも良しとしましょうか。
値付けを見ると、私の見立てとはまったく異なっています。この本が2000円になるのかというのもありましたが、ほとんどは300円程度。10円とかも多いです。星野英一、塩野宏、西尾勝先生などの本は買い取ってもらえませんでした。半世紀以上前の本ですから、そんなものでしょうか。悲しくなります。
私の思い入れと、世間での流通価値との差を思い知らされました。

少し古本を処分12

2026年7月1日   岡本全勝

再開した古本の処分。ぼちぼち進んでいます。嫌々取り組んでいるので、はかどりません。

先日、古本屋に5箱引き取ってもらいました。学生時代の学術書などです。星野英一、塩野宏、西尾勝先生など。当時の本ですから堅牢な作りで、紙の箱に入っています。すると、痛みは少ないですね。読み通した本は少なく、参照した程度なので、その点からも傷んでいません。
捨てるには惜しいと思い、インターネットで調べたら、値段がついているものもあります。バリューブックスにインターネットで依頼したら、クロネコヤマトが取りに来てくれました。
本棚で、2.5棚分が空きました。

本居宣長が見た我が故郷

2026年6月29日   岡本全勝

本居宣長が吉野に旅した際(明和9年、1772年)に、『菅笠日記』という旅の記録を残しています。そこに、我が故郷の「岡」も書かれていることを教えてもらいました。原文(江戸時代の刊本は読めないので、奈良女子大が活字にしてくれたもの)と現代語訳を載せておきます。「日本古典文学テキスト」もあります。

菅笠日記」(奈良女子大
・・・やゝゆきて。左のかたに見ゆる里を。川原村といふ。このさとの東のはしに。弘福寺とてちひさき寺あり。いにしへの川原寺にて。がらんの石ずゑ。今も堂のあたりには。さながらも。又まへの田の中などにちりぼひても。あまたのこれり。その中に。もろこしより渡りまうでこし。めなう石也とて。眞白にすくやうなるが一ツ、堂のわきなる屋のかべの下になかばかくれて見ゆるは、げにめづらいきいしずゑ也。尋ねてみるべし。里人は観音堂といふ所にて。道より程もちかきぞかし。つぎに橘寺にまうづ。川原寺よりむかひにみえて。一町ばかり也。此寺は今もやゝひろくて。よろしきほどなる堂もありて。古の石ずゑはたのこれり。橘といふ里も。やがて此寺のほとりなり。日くれぬれば。岡の里にとまる。かの寺よりちかし。
此あひだに土橋をわたせる川あり。飛鳥川はこれ也とかや。いまの岡といふ所は。すなはち日本紀に飛鳥岡とある所にや。さらば岡本宮も。(舒明天皇皇極天皇斉明天皇三代の京)その傍とあれば。遠からじとぞ思ふ。又清御原宮は。その南とあなれば。その跡もちかきあたりなるべし。

十一日。朝まだきにやどりをたちて。岡寺にまうづ。里より三町ばかり東の山へのぼりて。二王門あり。額に龍蓋寺とあり。この門よりまへの道の左のかたに。八幡とて社もあり。さて御堂には。観音の寺々をがみめぐるものども。おひずりとかいふあやしげなる物をうちきたる。男女おいたるわかき。數もしらずまうでこみて。すきまもなくゐなみて。御詠歌とかいふ歌を。大聲どもしぼりあげつゝ。ひとだうのうちゆすりみちてうたふなるは。いとみゝかしかましく。大かた何事ともわかぬ中に。露をかでらの庭の苔などいふこと。ほのぼのきこゆ・・・

諏訪邦夫 現代語訳
・・・さらに進むと、左側に見える里を川原村といいます。この里の東のはしに、弘福寺《ぐふくじ》という小さな寺があり、これが昔の川原寺《かわらでら》で、伽藍《がらん》の 石礎などが、今も堂の付近に残り、前の田の中にも散らばって残っています。その中に、 唐土から渡ってきた瑪瑙《めのう》だという、真白で透明な石が一つ、堂のわきにある建 物の壁の下に、半分かくれて見えるのが珍しい礎石ですから、訪れてみて下さい。里人は 観音堂と呼び、道も近いところです。 つぎに橘寺にお参りしました。川原寺の向かいにあって、一町ほどです。この寺は今も 少し広くて立派なお堂もあり、やはり昔の石礎が残っています。橘という里も、この寺の すぐ近くです。日暮れになったので、岡の里に泊まります。岡寺に近いところです。この 間に土橋をわたる川があり、これが飛鳥川だということです。いまの岡という所は、日本 書紀に飛鳥岡とある所でしょう。そうすると岡本宮も、【舒明天皇皇極天皇齊明天皇三代(34、 35、37 代)の京】その傍ということですから、ここから遠くないと思います。また清御原 宮(上には、浄御原とある天武天皇の宮殿)は、その南とありますから、その跡もこの近 くでしょう。

朝早く宿を出て、岡寺にお参りしました。里から三町ほど東の山に登ると二王門があり、額に龍蓋寺とありました。この門から前の道の左側に八幡社もありました。御堂には、観音の寺を拝みめぐる人たちが、おひずりとかいうあやしげな物を着て、老若男女多数お参りでぎっしり並び、御詠和歌とかいう歌を大聲でしぼりあげながら堂内をとどろかせて歌うのはひどくうるさく、全体としては何だかわからないまま、露岡寺«つゆおかでら»の庭の苔などという言葉がぼんやり聞こえました・・・

橘という集落(橘寺があります)から飛鳥川を土橋で渡り、岡の集落に入ります。そこだけ、両岸から岩が出ていて、川幅が狭くなっているのです。私の子どもの頃、土橋はまだ木造の土橋でした。その橋の下で泳ぎました。
道をたどると、すぐに岡本の本家の前に出ます。これが当時(高市橋がかかるまで)主要道でしたから、間違いなく家の前を通っているはずです。高市橋は少し下流に架けられたコンクリートの橋です。大正時代と聞いています。そこを通る道路は「新道(しんみち)」と呼んでいました。
岡の集落は岡寺(西国巡礼7番札所)の門前町として栄えていました。私の子どもの頃は、まだ宿屋が残っていて、商店街もありました。宣長は、このあと酒船石を見て、飛鳥寺に行きます。(7月1日一部加筆)