カテゴリーアーカイブ:社会の見方

頭は類推する。カタカナ語批判。1

2021年6月8日   岡本全勝

なぜ、カタカナ語やアルファベット語は、理解しにくく、覚えにくいのか。人は、画像にしろ文言にしろ、連想で認識します。それは、次のようなことです。

まず、目で見る景色から説明しましょう。景色を見る場合、ぼやけた像から、はっきりした像に進みます。遠くから人が近づいてきた場合、最初は人か物なのか判別できません。だんだん近づいてきて、ぼんやりした像を見て、人だろうと判断します。さらに近づいて、服装によって男性か女性かを推測し、体つきから大人か子どもかを判断します。そして顔が見えてくると、知っている人か知らない人かを判断します。
最初から、知人のAさんだとはわかりません。それは、網膜に写った像を、頭の中の記憶にあるよく似た像にあてはめて、正解を探すのです。
テレビ番組に、モザイク画像を見て、何の写真かを当てるクイズがあります。最初は解像度の悪い画像で、何の写真なのかわかりません。だんだん解像度が高くなって、正解がわかります。私たちは、ぼやけた画像でも、記憶の中から似たものを探します。「脳の働きと仕組み、推理の能力

言葉も同じです。耳にした言葉が、はっきりしたものでなくても、よく似た言葉に当てはめます。その単語の発音に似た単語に当てはめます。外国語が聞き取りにくいのは、経験が少なく、頭の中の類似例が出てこないからです。
聞き慣れた日本語を理解する際にも、辞書で単語を引くように、発音の1音目から解読するのではありません。私たちは、耳で聞いた音声を、1音ごとに音声そのもの(発音記号)として認識しているのではありません。ひとかたまりの音声(単語)として聞いて、それを頭の中の類似例に当てはめ、正しい単語を探します。
この項続く

小関隆著「イギリス1960年代」

2021年6月7日   岡本全勝

小関隆著「イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ」(2021年、中公新書)が、勉強になりました。

1960年代のイギリスを、ビートルズを鍵に、社会の変化を分析します。戦中戦後の窮乏期をへて、イギリスも豊かな社会を迎えます。そこに「文化革命」が生まれます(中国の政治闘争であった文化大革命とは違います)。世界の先駆者の地位をアメリカに奪われた後、ロンドンとビートルズが、文化で世界の最先端を走ります。
イギリス社会の代名詞だった階級がなくなり、マルクス主義が意味をもたなくなります。労働党が苦境に陥り、方向転換をします。他方で、伝統的な倫理が崩れます。教会に通う人も少なくなります。性や麻薬が解放されます。もちろん、伝統的な勢力からは、巻き返しもなされます。

豊かな社会を迎え、ベビーブームの若者や労働者から、生き方や生活文化が大きく変わります。これは、戦後、昭和後期の日本と同じです。というか、イギリスが先を行っていたのでしょう。
日本との違いは、階級と宗教がイギリスほど強固でなかった点でしょう。また、社会党が、イギリス労働党とは違い方向転換をせず、教条的な立ち位置で「自己満足」したことでしょうか。

著者のすごいところは、この60年代の社会の大変化を描くだけでなく、それがサッチャーを用意したと考えるところです。
文化革命、ロンドンとビートルズの先進性が、厳格だった社会に許容範囲を広めるという効果をもたらしました。それを基盤に、サッチャーが登場します。

日本についても、高度成長を経済から分析した著作は多いです。このような若者文化を含めた社会の変化を描いた作品、そしてそれが平成時代を用意したことを描いた作品はないでしょうか。私の連載「公共を創る」は、社会の変化と行政の変化(の遅れ)を描こうとしています。

ソーシャル・ディスタンス?

2021年5月28日   岡本全勝

奥井智之先生の「不特定多数で「社会の敵」を叩く“祭り”が、ネット上で発生するそもそもの理由」には、次のような指摘もあります。「ネット記事のコメント欄とSNSのはかなさ

・・・今回のコロナ禍の下で、人々は、たえず身体的距離をとるように求められてきた。
「社会的距離(social distance)」は、本来、人々の親密度を測る指標である(家族のメンバーは遠くにいても、その「社会的距離」は近いのが普通である)。したがって、ここでは、「社会的距離」と「身体的距離」を区分する。
理論的には、「身体的距離」を取ったからといって、「社会的距離」が広がるわけではない。しかし、「身体的距離」の拡大は、「社会的距離」の拡大のリスクを、つねにともなっている。それが、コロナ禍の下で、わたしたちが直面してきた、根源的な危機である・・・

連載「公共を創る」で、孤立を書いているところです。そこでは、孤立しないように他人や社会とのつながりの重要性を指摘しています。
先生の指摘にもあるように、ソーシャル・ディスタンスは、本来は社会的距離であって、人の親密度です。ウイルス感染を防止するために他人との間に距離を置くことは、物理的距離や身体的距離です。家族や友達とは遠く離れていても、社会的距離は近いです。

「ソーシャル・ディスタンスをとる」では、「他人との社会的つながりを断ちましょう」という意味になってしまいます。よもや「家に引きこもって、他人との連絡も絶ちましょう」と呼びかけているのではないでしょう。
「距離を取りましょう」「間隔を空けましょう」では、なぜいけないのでしょうか。

ネット記事のコメント欄とSNSのはかなさ

2021年5月26日   岡本全勝

先日、紹介した奥井智之先生が、講談社のウエッブサイト「現代ビジネス」に「不特定多数で「社会の敵」を叩く“祭り”が、ネット上で発生するそもそもの理由 電脳世界に広がる「儚さ」を社会学する」を書いておられます(5月22日掲載)。
ネット記事のコメント欄とSNSに、なぜ人は書き込むのか、そして議論は成り立たないのかについて、社会学から説明しておられます。

・・・ネット記事は儚(はかな)い。
それが、一定の鮮度を保って、人々の前に姿を見せるのは、ほんの一瞬である。良い記事も悪い記事も、次の瞬間には、最初から存在しなかったかのように、ネット世界から姿を消している。
もちろん、それは、アーカイヴ化されているのであろう。しかし、特定の記事を、アーカイヴ(保管庫)のなかで探すのは、特別な目的がある場合に限られる。実際、わたしは、ネット記事がどこかで引用されているのを、見たためしがない。
とどのつまり、ネット記事の寿命は、ごく短い。筆者は、その一瞬に賭けて、自らの作品を、ネット世界に投げ込むほかはない。
オンラインの先には、読者が待っている。正直言って、わたしは、その読者の実態を知らない(わたしは、このネット世界にたまさか迷い込んだ、よそ者にすぎない)。ただ、ネット記事の読者として、しばしば遭遇するのは、その記事が、読者のコメント欄で酷評されている光景である・・・

・・・そこでは、ネット記事を批評することよりも、その記事をダシにして、自らの識見を誇示することが、目的となっているように映る。批評家の小林秀雄は言った。
「批評とは竟(つい)に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」(『様々なる意匠』)
「懐疑的」であるかどうかは別にして、ネット記事のコメント欄に横溢するのは、激しい自己呈示の欲求である。
ネット記事に、コメント欄が付いているように、コメント欄にも、個々のコメントへの賛否を表明するアイコンが付いている。
わたしのよく見るサイトの場合、デフォルト(初期設定)では、賛同者の多いコメントが、コメント欄の上位に並ぶようになっている。そして、上位のコメントの内容は、おおよそ似通っている。裏を返せば、意見が分かれて、議論が交わされる光景は、まず目にしない。
そこには、コメント欄のもつ、もう1つの機能が映し出されている。それは、他の(どこのだれとも知れない)多くの読者と協調することで、自らの意見の正当性を確認することである。一言で言えば、そこには、温かい相互承認の儀礼がある。
激しい自己呈示の欲求と温かい相互承認の儀礼──。この2つは、いったい、どのように結びついているのか・・・
続きをお読みください。

閉鎖的な学校を変える

2021年5月25日   岡本全勝

5月18日の朝日新聞オピニオン欄「学校と親との距離」
・・・学校と保護者の関係が揺れている。保護者がPTA活動の負担を訴える一方、長時間労働で疲弊する学校では保護者の声に対応する余裕が奪われている。どうすればいいのか・・・

西郷孝彦・東京都世田谷区立桜丘中学前校長の発言「閉鎖性を変えるのは校長」から。
・・・いまの学校の多くには、閉鎖的な風土があります。悪い評判を立てられたくない。生徒の問題行動を見られたくない。その内向きさが保護者との距離を遠ざけています。
新しい挑戦をしようとすると「みんなと違うことをするな」と、教育委員会や近隣の学校、ときには保護者から問われ、責められる。結局は前例を踏襲し、右にならい、情報も出さないことが正解になってしまう。ただでさえ仕事量が多いなかで保護者への対応が負担になれば、精神的に追い詰められてしまいます。
そうした教員を取りまく環境の問題が根幹にはありますが、私は、まず校長が自ら保護者と接することで閉鎖性を和らげられると思います。私は直接会う機会をつくり、メールアドレスも保護者に公開しました。情報を共有しあえる関係づくりが大切です・・・