「政治の役割」カテゴリーアーカイブ

行政-政治の役割

政治決定の文書保存

7月18日の読売新聞1面コラム「地球を読む」、御厨貴先生の「つなぐ重み 五輪巡る判断 公文書に」から。
・・・国立公文書館開館50周年記念式典が7月1日、東京都内で開かれた。福田康夫元首相ら来賓の講演を、感無量の想いで聞いた。
私は駆け出しの学者として、開館数年後から公文書館のお世話になった。明治の元勲政治家の手になる閣議文書や政策文書のつづりを、1ページずつめくり、近代政治の実相に迫った。ある時は大正、昭和の政党政治家の行政改革に関する議事録を読みふけり、政友会、民政党という戦前の2大政党の政策の相違をじかに感じ取った。こうして学問の神髄に触れた日々が、いまは懐かしい。
公文書は戦後、徐々に充実していった。ただ、ある時期まで、この国の官僚は公文書の保存・管理に熱心ではなかった。21世紀に入ってから、未来のためにも過去の記録と記憶を残すことがいかに大事なことであるかを、官僚はもとより、政治家も国民も、次第に理解してきたように思う。私自身、内閣府の独立行政法人評価委員会や公文書管理委員会の委員を務めることを通して感じたことだ。
公文書が重要だという認識が深まったがゆえに、安倍内閣以来、公文書の改ざんが重大な案件として問われ続けてきたのだ。「説明責任」という言葉は、かつてよりずいぶんと軽くなった。だからこそ公文書の重みは一段と増している・・・

・・・いま、新型コロナウイルス対策と東京五輪を巡る意思決定に関する内閣への風当たりは強い。東京都への更なる緊急事態宣言の発出や、東京五輪のほぼ無観客での開催は、後に令和の始まりの時期を振り返る時、いずれもかなり重大な意味を持つ決定だったことが明らかとなろう。
「コロナに打ち勝った証しとして、東京五輪を開催する」という菅首相の宣言が事実上、意味をなさなくなったからだ。「ジリ貧」変じて「ドカ貧」となるのではないか。菅政権が、そんな危機感を持つのも無理はない。これらの決定に至る過程を、きちんと公文書として残すのは当然のことといえる・・・

ワクチン以外の政治を

7月17日の読売新聞夕刊「とれんど」、穴井雄治・論説副委員長の「ワクチン以外にも政治を」から。

・・・東京五輪の開幕を目前に控え、56・8%の人が「オリンピックは結構だが、わたしには別になんの関係もない」という選択肢に同調したという。
1964年大会に関する世論調査である。近現代史研究者の辻田真佐憲さんは、近著『超空気支配社会』(文春新書)でこの結果を紹介し、日本の黄金時代を象徴するようなイメージは「六四年の幻想」だと指摘している・・・

・・・ワクチン接種を加速させる必要があるが、ほかの懸案が先送りされかねないことは気がかりだ。菅首相は自民党の二階幹事長に「ワクチン一本で行きたい」と語り、二階氏は「政治も政局もすべてワクチンだ」と応じたという。
たとえば、私権制限のあり方、緊急時の病床確保策、国と地方の役割分担など、コロナ禍で突きつけられた課題は多い。利害が絡み合う構造的な問題の解決こそ、政治が取り組むべき仕事である。
立憲民主党は、酒の取引停止問題で西村経済再生相を追及しているが、閣僚の辞任を成果と考える発想では物足りない。「ゼロコロナ」などと夢想せずに、具体的な改革案を示してもらいたい。
秋までに衆院選がある。空気だけで政権を選択する、というわけにはいくまい・・・

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国のリーダーの謝罪

7月15日の朝日新聞オピニオン欄、竹内幹・一橋大学准教授の「過ちと向き合うリーダー 謝罪は信頼回復のために」から。

・・・首相の謝罪の言葉は、意味のない決まり文句になってしまったが、世界でなされた謝罪には、歴史的に重要な意義をもつものも多い。
国のリーダーによる謝罪として有名なのは、1970年にポーランドのワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人隔離地域)を訪れた西独のブラント首相によるものだろう。記念碑の前でひざまずいて黙祷する首相の姿は、戦後ドイツの新しい外交を象徴するものとして記憶されている。

歴史的謝罪を多くなしたのが、教皇ヨハネ・パウロ2世だ。例えば、17世紀に地動説を唱えたガリレオを異端としたことは誤りであった、と92年に認めた。さらにさかのぼれば、1204年に起きた十字軍によるコンスタンチノープルの略奪についても、彼は謝罪している。
こうした歴史的事件への謝罪は、20世紀末から顕著になってきた。
米国政府は1993年に米国人によるハワイ王国転覆のことを謝罪し、2009年には連邦議会が、奴隷制とジム・クロウ法(奴隷制廃止後も人種差別を規定した法体系)について公式に謝罪した。オーストラリアのラッド首相は08年、先住民族への差別や虐待について議会で公式に謝罪した。18世紀末にヨーロッパ人が入植して以来、豪政府として初めての謝罪であった。

カナダでも、先住民族の子供たちを寄宿学校に住まわせる同化政策が100年以上にわたって採られ、15万人以上の子供が親から強制的に引き離された。政府の調査委員会は子供らが劣悪な環境におかれ、身体的・性的に虐待を受けていたと報告し、08年にハーパー首相が公式に謝罪した。今年に入り、学校の跡地に子供のものとみられる人骨が多数埋葬されていることも判明し、学校を運営していた教会には非難が寄せられた。トルドー首相は6月、ローマ教皇がカナダを訪れて先住民族に直接謝罪することが重要だと訴えた・・・

山本健太郎著「政界再編」

山本健太郎著「政界再編ー離合集散の30年から何を学ぶか」(2021年、中公新書)を紹介します。
自民党が分裂して、細川連立内閣ができたのが1993年です。それから30年近くが経ちます。その間に、政党の離合集散は目まぐるしいものがありました。
本書は、まずその歴史を通史として描きます。いや~、こんなにもたくさんの政党があったのですね。読んでいると、「そういえばこんな政党もあったなあ」と懐かしくなります。私は、二度の政権交代を間近で見ました。そのことなども思い出していました。
30年とは結構長い年月で、若い人は知らないことが多いでしょう。この本は、役に立つと思います。

他方で、衆議院選挙に小選挙区制を導入したのは、金のかからない選挙を目指すとともに、二大政党制を目指したからです。一時はそれに成功した、政権交代もできたと思えましたが、その後の歴史は二大政党制、政権交代とはまったく違った状態になりました。自民党は野党に転落しても大きな分裂はせず、民主党はバラバラになりました。
本書では、その原因を探ります。政治家たちが次の選挙で当選するために、「落ち目になった政党」を見限ります。しかし、相手の党の候補者がいる選挙区では、相手党への鞍替えは困難です。その際に検討されるのが、第三極です。第1党と第2党がせめぎ合っていると、第3党は少数でもキャスティングボートを握ることができます。第1党が絶対多数だと、第三極の出番はありません。この分析は、切れ味がよいです。
そして、今後の展望も書かれています。

思いついたことを書いておきます。
一つは政党の機能です。国民の政治意識や政治への要求(の分裂)を反映するのが、政党の役割でもあります。政党の背景に、利益や政治的主張の異なった勢力があり、それを代表するのです。かつてのイギリスの保守党と労働党がわかりやすいです。
日本のこの30年間の政党再編は、それとはどのような関係に立つのか。冷戦終了で、社会党の存立意義がなくなり、経済成長を遂げ停滞に入って労働組合も意義を失いました。政治的対立軸がなくなったのか、あるいはそれを示せない野党・言論界に責任があるのか。
もう一つは、地方組織や支持母体です。地方組織や支持母体がしっかりしておれば、このような簡単な離合集散はできないと思います。

山本健太郎君は、私が東大で客員教授として授業を持っていたときの「塾頭」の一人です。塾頭たちはその頃、大学院生で、新米教授の私を指導してくれました。

G7にいる資格

7月9日の朝日新聞オピニオン欄、「新井紀子のメディア私評」「G7にいる資格 言葉と論理で訴える気概あるか」から。

・・・2010年、日本の国内総生産(GDP)は中国に抜かれ、世界第3位になった。国自体が成熟し、生産人口が減るのだから致し方ない。まもなくインドにも抜かれることだろう。
日本だけではない。G7メンバーの多くが、GDP上位国にとどまることはできまい。それでもなお、G7の枠組みが残るなら、その存在意義は何か。日本が参加し続けるための「資格」は何か。「東京オリンピックに強力な選手団を派遣してほしい」以外に言うべきことを持たない我が国の首相の姿を見ながら、考え込まざるを得なかった・・・

・・・ 「建前民主主義」「建前自由経済」ではなく、民主主義と自由な経済の「あるべき姿」を不断に希求し続ける。異なる価値観を有する国々に言葉と論理で訴えかけ、具体的な解決策へ導く気概をもつ。そうしたことがG7に参加する上での資格ではないか。
たとえば、市場の失敗によって引き起こされた地球温暖化に対応することは、未来も含めた人類から「自由な経済」への賛同を得るための不可欠な活動とも解釈することができる。
振り返って我が国はどうだろう。この数年、日本の民主主義は「建前民主主義」へと明らかに後退した。公文書改ざんと国会における虚偽答弁、三権分立を揺るがす検事総長の恣意的人事への動きといった個別事案だけではない。政府が空疎な言葉で国会答弁を埋め尽くすことで、国会そのものが機能しなくなってしまった。まるで、国民が政治に興味や関心を失って、一票の権利を行使しなくなるのを待っているかのようだ。
報道も「建前的報道の自由」に劣化したように見える。メディアの多角経営化の中で、事業に「差し障り」のある報道は避けられる。スポンサーとして深く関わっている東京オリンピック・パラリンピックについて、メディアが「開催の是非」に言及しなかったのは、その象徴だろう。
25年に主要国首脳会議は50周年を迎える。日本がその場にいる資格があるか否か、真剣に考えてみませんか・・・