G7にいる資格

7月9日の朝日新聞オピニオン欄、「新井紀子のメディア私評」「G7にいる資格 言葉と論理で訴える気概あるか」から。

・・・2010年、日本の国内総生産(GDP)は中国に抜かれ、世界第3位になった。国自体が成熟し、生産人口が減るのだから致し方ない。まもなくインドにも抜かれることだろう。
日本だけではない。G7メンバーの多くが、GDP上位国にとどまることはできまい。それでもなお、G7の枠組みが残るなら、その存在意義は何か。日本が参加し続けるための「資格」は何か。「東京オリンピックに強力な選手団を派遣してほしい」以外に言うべきことを持たない我が国の首相の姿を見ながら、考え込まざるを得なかった・・・

・・・ 「建前民主主義」「建前自由経済」ではなく、民主主義と自由な経済の「あるべき姿」を不断に希求し続ける。異なる価値観を有する国々に言葉と論理で訴えかけ、具体的な解決策へ導く気概をもつ。そうしたことがG7に参加する上での資格ではないか。
たとえば、市場の失敗によって引き起こされた地球温暖化に対応することは、未来も含めた人類から「自由な経済」への賛同を得るための不可欠な活動とも解釈することができる。
振り返って我が国はどうだろう。この数年、日本の民主主義は「建前民主主義」へと明らかに後退した。公文書改ざんと国会における虚偽答弁、三権分立を揺るがす検事総長の恣意的人事への動きといった個別事案だけではない。政府が空疎な言葉で国会答弁を埋め尽くすことで、国会そのものが機能しなくなってしまった。まるで、国民が政治に興味や関心を失って、一票の権利を行使しなくなるのを待っているかのようだ。
報道も「建前的報道の自由」に劣化したように見える。メディアの多角経営化の中で、事業に「差し障り」のある報道は避けられる。スポンサーとして深く関わっている東京オリンピック・パラリンピックについて、メディアが「開催の是非」に言及しなかったのは、その象徴だろう。
25年に主要国首脳会議は50周年を迎える。日本がその場にいる資格があるか否か、真剣に考えてみませんか・・・