連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第224回「政府の役割の再定義ー議論が乏しい「ムラの慣行」」が、発行されました。
政治家による政策議論について、国会と野党の役割を考えています。
先の衆議院選挙で、自公政権は少数与党になり、政府案を与党の数の力で押し通すことが難しくなりました。すると、与野党で議論して妥協し、結論を出す必要が出てきます。野党の意見を取り入れることで、より多くの国民に支持される政策が実現する可能性も出てきます。
一方で、首尾一貫した政策体系を示して、その対立の形で各党が国民の支持を獲得するために競い合うなら良いと思うのですが、政策体系の背景を持たずに、論点ごとに有権者にこびるようなポピュリズムに走ることになると、良くない結果を生むことになりかねません。
議会制民主主義とは、政治家と政党がそれぞれの主張を立て、国民の同意獲得競争をして政権に就き、政策を実行する。その場が国会であり、国民の間のさまざまな利害を調整する場です。政治学の教科書にはこのように書かれていても、それぞれの国がそれぞれに異なる社会と歴史を持っているので、国によって実際の運用は異なります。
日本では、国会が議員間の討論の場になっていません。議員が政府に説明を求め、問題点を追及する場となっているのです。与野党が議論を重ね、政府提案あるいは与党提案を磨き上げて、さらに良い法律や予算にするという意識と経験が希薄です。
この背景には、日本においては、人前で、意見の異なる人同士の間で議論することが少ないことがあります。討論の経験がないし、討論している人から学ぶ機会もないのです。しばしば「和を以もって貴しとなす」という言葉が使われます。聖徳太子の十七条憲法以来の日本の伝統であり、あるいはそうあるべき規範と思われているようです。
しかし、すべての事が最初から最後まで「和である」=一致するはずがありません。それは結局のところ、意見の対立を表面化させないこと、対立がある場合はウラの世界で調整をつけることが良いとされる、社会通念だということができます。
対立が少なく皆が協調するべきという「ムラの慣行」と、オモテの場で議論せず、意見の対立をなるべく表面化させないでいたいという日本社会の深層意識が、討論やそれに基づく修正は避け、野党は政府批判だけをするという我が国特有の国会審議の背景にあるのでしょう。それは、これまでのムラ社会、世間、そして国会を貫く、「この国のかたち」です。