「連載「公共を創る」」カテゴリーアーカイブ

連載「公共を創る」第221回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第221回「政府の役割の再定義ー成熟国家への転換期における苦悩」が、発行されました。

政治の役割として、目指す国家像を示すことを説明しています。
国家像を議論する際の共通基盤の第三は、成熟国家になって見えてきた課題への対処です。
かつて豊かさを達成し、ジャパン・アズ・ナンバーワンと「慢心」しました。しかし実際には、豊かさを達成しただけでは、すべての問題が解決したわけではありませんでした。豊かさと平等を達成したと思っていましたが、そうでない人たちもいました。
そして、新しい不安が生まれました。豊かさとの引き換えに不足感と不安が生じ、豊かさ故に新たに不足感と不安が生じたのです。それとともに、国民の意識や社会の仕組みが、現実の変化に追い付いていない問題もあります。過渡期の悩みですが、行く先がよく見えていません。

日本列島に住む人は、弥生時代以来、村で支え合って生きてきました。家族や親族、地域社会に縛られつつ、一方で守られて安心を得ることができました。村から離れて、家族形態だけでなく職業や住む場所も、個人が選ぶことができるようになった社会で生きているのは、初めてなのです。束縛はなくなったのですが、どうやって生きていけばいいのか自分で考えなければなりません。しかし、まだほんの数世代の経験しかないのです。

連載「公共を創る」6年

公共を創る」の連載が丸6年になり、7年目に入りました。
第1回は、2019年4月25日でした。今年4月17日で第220回になりました。よく6年も続いたものです。月に3回(当初は毎週)、毎回の紙面では4ページ、文字数にして6800字余りです。自分で自分を褒めてやりたいです。いつも同じことを言っていますね。
資料提供など協力をいただいた、たくさんの人に感謝します。右筆さんの毎回の厳しい朱入れがなければ、できませんでした。

こんなに長くかかるはずでは、なかったのですが。全体構想では、もう少しで完結する予定です。「連載「公共を創る」5年

と書いたら、肝冷斎に「石の上にも6年」と評価(?)されました。

連載「公共を創る」第220回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第220回「政府の役割の再定義ー国家像を議論する共通基盤」が、発行されました。

政治家の役割として、この国の向かう先を指し示すことを取り上げています。
1980年代には世界有数の豊かさを手に入れ、併せて自由と平等、安全と安心も手にしました。目標を達成したのです。そこで当時も、日本は次に何を目指すべきかが議論されました。
中央省庁改革の方向を決めた「行政改革会議最終報告」(1997年)は、経済成長を達成した後、行き詰まった日本の行政システムを改革するものでした。そこでは行政の仕組みにとどまらず、「この国のかたち」の変革を求めました。省庁改革は実現したのですが、その後の目指すべき日本の姿については、政治家、官僚、識者の間でも議論は深まりませんでした。結局、明確な将来像も国家戦略も持ち得ないままに、現在まで至っています。

そのような議論をせずに、行政改革を続けました。今も、「身を切る改革」などを主張する政治家がいますが、政府を小さくしても、国民が満足する社会は実現できません。私たちが取り組まなければならなかったのは、行政改革を深化させることではなく、目指す将来像の議論であり、その中での行政の役割だったのです。

では、これから日本が目指す国家像は、どのようなものでしょうか。「国民が自由に振る舞う、国家はその条件を整える」という政治哲学では、かつての「強い日本」「豊かな日本」といった、国民が共通に目指す国家目標は、設定が難しくなりました。
石破茂首相が「楽しい日本」を提唱しました。反対意見もあります。目指す国家像は人によって異なるでしょう。

目指す国家像が人によって異なることは当然として、議論する際に前提となる「共通基盤」はあると思います。
その1は、我が国が経済発展を達成したことと、それに伴う国内の諸状況です。
2つめに、国内外の諸条件を、念頭に置かなければなりません。1990年代と現在では、「次の日本の目標」を考える際の内外の条件が大きく変わった、ということです。

連載「公共を創る」第219回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第219回「政府の役割の再定義ー政治主導を阻む全会一致の慣習」が、発行されました。

各府省が作った法案を国会に提出できないという不思議なことが起きます。異論があれば、国会で議論すればよいのですが、提出ができないのです。その原因は、前回まで説明した与党事前審査と共に、与党各機関での意思決定の際の全会一致という慣例です。

政治とは、意見の異なる者たちの間で、一定の結論を見いだす過程です。その際に、権威主義や独裁主義の体制では特定の者が結論を決めて押し付けるのに対し、民主主義では構成員が決定権を持つので、まずは議論を尽くして全員が納得するように努めます。しかし、議論しても一致しない場合は、永遠に先送りはできません。そこで、最後は多数決で決めるのが通常です。
民主主義は、それと融和性のある多数決原理と一揃いになることで、初めて実際に運用できる政治形態になるとも言えるのです。国会が、まさにそういう仕組みです。
与党内に異論があると、政府の法案が提出できない、国会審議には入れないことは、日本の政治にとって不幸なことであるだけでなく、行政の運営や、ひいては国民の生活にも悪影響を及ぼしているのではないでしょうか。

次に、官僚の抵抗です。自民党総裁である首相が、与党を従わせることができない、それによって改革を進めることができないことを説明してきました。自民党のような巨大な組織にも、構成員は平等であるというホラクラシーの原理が働くのです。これに対し、官僚は首相の部下ですから、ヒエラルキー原理の下、命令によって従わせることができるはずです。しかし、現実はそうは進みません。第216回で説明した三位一体の改革では、小泉純一郎首相が各省に「廃止し一般財源化すべき国庫補助金を提出するように」と指示したのに、各省は従わなかったのです。

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーが「職業としての政治」の中で「政治とは、情熱と判断力を駆使し、硬い板に力を込めてじわじわっと穴をくり貫いていく作業である」と述べたのは有名です。
意見の違いがある場合に、それを集約することが政治の役割です。全員が賛成している状況では、政治家は必要ありません。反対がある場合に、どのようにして正しいと考える政策を実現するか。そこに、政治家の力量が試されます。
日本は成熟社会になりました。かつてのような右肩上がりの財源の分配はできなくなり、他方で「豊かになる」という共通目標がなくなり国民の意見が多様になっています。国際社会では秩序が壊れ、安全への不安が高まっています。このような状況の中で、反対意見がある限り判断を先送りするという対応では、政治は機能せず、国民の支持も回復しないでしょう。

連載「公共を創る」第218回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第218回「政府の役割の再定義ー政策の大転換に必要な党内の支持確保」が、発行されました。

首相や各省が考えた政策が、与党の抵抗によって進まない場合があることを説明しています。その原因は、内閣の政策決定過程が政府に一元化されず、与党にも政策決定の仕組みがあり、与党事前審査を通る必要があるからです。
それを打破しようと挑戦したのが、小泉純一郎首相でした。「自民党をぶっ壊す」と唱えて総裁選に勝ち、それまでの自民党の政策を変える改革を進め、その際には党内の反対も押し切りました。経済財政諮問会議での議論と決定は、与党との調整なしに進められることが多かったのです。その頂点が、郵政民営化です。

このような政府・与党二元制や与党事前審査制度は、日本独特のようです。国会での審議を空洞化するような仕組みですから、議会制民主主義の思想からは理解しにくいでしょう。
この問題を解消するため、旧民主党は、政府・与党の一元化を目指しました。選挙や国会対策を指揮する幹事長と、政策責任者の政調会長を入閣させ、「政府・与党一元化」を目指しました。もっとも、すべてが実行されたわけではなく、また実行しても直ちに所期の効果を発揮したわけではありません。

各府省が作った法案を国会に提出できないことが起きる原因は、与党事前審査とともに、与党各機関での決定に全員の賛成を要するという「全会一致」という慣例です。