カテゴリー別アーカイブ: 社会と政治

社会と政治

社会の信用

21日の朝日新聞は、信用に関する社会意識調査を載せていました。
信用できない企業が多いが60%、信用できない人が多いが64%です。信用しているは、家族が97%、新聞が91%、医者83%、警察63%、教師60%です。政治家と官僚はともに18%です。
そのようなものかと思いつつ、次のようなことを考えました。
多くの人は会社勤めです。自分の会社についても、信用できないと思っているのでしょうか。それだと不幸ですよね。勤めている会社で偽装を見聞きしたら、上司や同僚に相談するが70%に達しています。これが実行されれば、良くなります。
他人を信用できないと思う人が多いということは、その人も信用されていないということです。これが、負の連鎖を招きます。「あいつは俺を信頼していない。では、あいつを信頼してはいけないな」とです。問題は、これをどう好転させるかです。山岸俊男先生は、村社会の中での安心と、不確実性の中での信頼とを区別しておられます。『信頼の構造』(1998年、東京大学出版会)。そして、村内での安心に頼っていた日本の方が、信頼をつくるのが低いと分析しておられます。
家族を結びつけるものは何かとの問いに、若い人ほど、精神的なものという答になっています。歳を取ると、それは減って、血のつながりや一緒に暮らすことが増えます。若い人の「理想主義」、歳を取ると「現実主義」になるのがわかります。心配なのは、若い人の「無い物ねだり」です。精神的なつながりを期待すること、それはよいことですが、必ずしも映画やドラマのようには行きません。それが得られないときには、不満がたまります。
求める人がいるときには、それに答える人が必要です。求めるだけでは成り立ちません。他人に求めるなら、あなたも答える必要があるのです。甘えることができるのは、甘えを受けとめてくれる人がいるからです。子供の時は、一方的に親に甘えれば良かったのですが。結婚すると、それが双方向になります。一人の喜びが二人で倍加するのか、二人で分け合って半分になるのか。一人の苦痛が二人で分け合って半分になるのか、双方になすりつけて倍加するのかは、夫婦二人の振る舞いによります。
夫婦とも生身の人間です。いつも聖人君主というわけには、行きませんわ。その時のかすがいは子供と金、というのが昔からの相場です(身もふたもありませんが)。もっとも、この二つの答は、この調査の回答にはありませんでした。あまりに現実的すぎるからでしょうかね。それとも、設問をつくった人が若い人か、関西人でなかったか。

グローバル化とナショナリズム

17日の朝日新聞「グローバル化の正体」は、小熊英二教授の「均質化が生む不仲の双子」でした。
・・グローバル化とナショナリズムは対立すると言われがちだが、仲の悪い双子のようなものです。両方とも、交通通信技術の発達に基づく均質化と資本主義化の産物です。均質化が国内でなされるとナショナリズムと呼び、国際的になされるとグローバル化と呼ぶ。
ナショナリズムは、中の下くらいの階層が受益層となり、グローバル化の受益層は上層です。
この双子の共通の敵は、ローカリズムでしょう。地域や親族の共同体が衰えているのが、ポピュリズム的なナショナリズムが台頭する一つの要因でしょう。

ユーラシアから歴史を見る

杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(2008年、講談社)が、面白かったです。スケールの大きな歴史で、私がいかにアジア(ユーラシア)の歴史を知らないかを教えてくれました。ヨーロッパ中心史観に、染まっているのですね。

外国人の受け入れ

10日の朝日新聞社説は、「単一民族神話を乗り越える」「外国人の子どもに、日本語などの教育支援を。多民族が「隣人」として共生する社会を築く」でした。外国人登録者はすでに200万人になり、この20年で倍増しています。
私は、政府としての取り組みの遅さを、危惧しています。問題を、二つに分けて考えましょう。一つは、今後、外国人の受け入れをどうするかという、国としての方針です。これは、なかなか決着がつかないでしょう。もう一つは、この社説のように、現在増えている外国人を、どう日本社会に受け入れるかです。それは、どのように支援するかということです。各自治体は現場で苦労していますが、中央政府には一元的な責任部局がありません。早く、つくるべきだと思います。
自治体の役割は、「新地方自治入門」p177で触れました。法律学から、この問題を通して日本社会を考え直す試みとして、大村敦志『他者とともに生きるー民法から見た外国人法』(2008年、東京大学出版会)が参考になります。

翻訳書の罪

鈴木直「輸入学問の功罪」(2007年、ちくま新書)が、おもしろかったです。「輸入学問」という表題に引かれて読んだのですが、内容は「思想・哲学の翻訳書はなぜ読みにくいか」、特にかつて教養とされた、ドイツ哲学についてです。
カント、ヘーゲル、マルクス、ウエーバー・・、学生時代に挫折した記憶があります。当時は、理解できない自分、あるいは読み続けることができない自分が、恥ずかしかったです。先輩たちはすごいんだなあと、思っていました。
その後、「どうも、訳がおかしいのではないか」と思い始めました。2005年に、トクヴィル「アメリカのデモクラシー」の新訳が出て、自信を深めました。学生時代に線を引きながら読んだ講談社文庫は、読みにくかったです。新訳は読みやすいです。
鈴木さんの本では、資本論とカントについて、これまでの訳文を並べて比較してあります。古典とも言える岩波文庫などの訳が、とんでもない訳であることがわかります。日本語になっていないのですよね。
しかも、当時の大御所は、わかりやすい訳を徹底的に攻撃するのです。どうして、そのようなことになったのか。117ページあたりに、社会的背景が分析されています。
・・新政府のリーダーたちの多くが、地方雄藩の下級士族の出身であった。彼らは、上級士族はもちろん、江戸下町の庶民より、無教養であった。この新支配層が威光を放ち、庶民の敬意を勝ち取るために、外国語の知識や文明の利器ほど、好都合なものはなかった。文明開化は、新支配層の文化的コンプレックスを糊塗する、絶好のアクセサリーとしても機能した。
翻訳文化と外国語教育が、国家エリート選抜のための高等教育に囲い込まれることによって、実際の経済社会から切り離された。この卒業生が支配層に移行し、輸入学問は官尊民卑を正当化するステータス・シンボルになった・・
納得します。