カテゴリー別アーカイブ: 政治の役割

行政-政治の役割

地方創生の10年

7月7日の読売新聞「参院選2022 視座を開く」開沼博・東大准教授の「地方創生 未完の10年」から。

・・・ 「地方創生」を安倍元首相が重要政策として掲げたのは2014年のこと。今回の選挙を終えれば今後3年ほど大きな国政選挙がない可能性が高く、地方創生が10年間で何を達成したのか、その締めくくりが問われる選挙とも言える。

とは言え、現実には「地方創生ってなんだったっけ、言われて久しぶりに聞いた」という感覚の人も多いだろう。確かに、いくつかの地方創生の成功事例は生まれた。東京五輪に向けてインバウンド需要を盛り上げれば、コロナ禍の中だからこそ地方移住が増えるのでは、といった期待もその時々に生まれてきた。ただ、いま振り返れば、それらは「少数のスター事例」や「一時のブーム」としてメディアで消費され、広い範囲に伝播・波及して持続可能な変化につながったようには見えない。少子高齢化、既存産業の衰退、医療・福祉の脆弱化、地域コミュニティーの崩壊といった日本全体が直面し、より深刻な危機を抱える地方の種々の問題は根治しそうにない。むしろ悪化している。
無論、何もやらないよりやったほうが良かっただろう、と見ることもできる。ただ、地方で肥大化し続ける不安・不満は、むしろこの10年で「あれだけ頑張ってもだめなのか」という絶望感と表裏一体のものとして強固に結びついてしまったようにも見える・・・

・・・「地方創生」というキーワードのもとで、過疎地域等の活性化、震災復興での地域づくりのあり方、福岡・大阪・名古屋・札幌などにおける東京とは違った日本の大都市モデルの構築など、それぞれ重要なテーマについて、この10年で様々な試みはあったはずだ。そこでできたこととできなかったことをまず検証すべきだ。残念ながら、そのような動きは見えない。「コミュニティーデザイン」などと呼ばれる、住民を巻き込んだ地域運営の方法論が洗練され、今後の人口や財政の動きを背景に私たちが思っている以上に深刻な未来がやってくるだろうという「地方消滅」論もあった。前向きな動きも見つつ、重い現実も直視すべきだ。

私は近年、3・11についての議論で「エンドステイト(最終的に皆が満足する状態)」を話し始めなければという主張をしている。目の前のことに追われ、ゴールが見えていない。改めていかなる「エンドステイト」を目指すか議論しないといつまでも復興は完了しない。日本の地方をいかにするべきか、ここにも「エンドステイト」を正面から議論する必要性を感じる・・・

強い自民が、知事選分裂を誘う

7月12日の日経新聞に、斉藤徹弥・編集委員の「強い自民、知事選分裂誘う」が載っていました。今回の参議院選挙の結果を受けたものですが、それが知事選挙に与える影響です。このような分析もあるのですね。目の付け所が違います。

・・・参院選は自民党の地方基盤の強さを浮き彫りにした。ただその強さは自民党の地方組織に野党を気にすることなく権力闘争に走りやすい環境をもたらす。統一地方選が控える2023年にかけて各地で相次ぐ知事選は、自民分裂の激しい選挙が増えそうだ・・・
・・・今後しばらく国政選挙がないとみられることから、自民党内の関心は県議を中心とした地方組織の権力闘争に向く可能性が大きい。その舞台になるのが知事選だ・・・負けた県連はもちろん、勝った県連でも知事選に向けて県議の主導権争いが激しくなりやすい・・・

・・・地方政治に詳しい東北大学の河村和徳准教授によると、自民党の県議はもともと分裂傾向にある。理由の一つが県内の地域格差だ。地方では人口の県都集中が進む。都市部の県議は無党派を重視する傾向を強め、古くからの自民党支持層の多い郡部の県議と対立しがちになる。
小選挙区の定着で県議から国政への道が狭まったことも背景にある。当選回数を重ねるベテラン県議が増え、若手県議は不満を抱きやすい。県連運営の主導権を狙い、県連執行部とは別の知事候補を担ぐ例も目立つ・・・無風の国政選挙は激しい知事選のゆりかごである・・・

維新の会で見える自民党の今後の道

7月12日の朝日新聞オピニオン欄に、砂原庸介・神戸大教授の「維新の立ち位置 自民の動向が左右」が載っていました。日本維新の会を分析したものですが、自民党の今後の道を示した解説と私は読みました。

・・・55年体制下の自民は、右派で、かつ公共事業を通じた生活保障を重視する政党と見なされていたと思います。しかし現在の自民の中核支持層は、政治的には右派で、経済的には将来への投資を重視する。維新の支持層もここに重なります。取り合う支持層を見る限り、維新の競争相手は立憲民主よりも自民です。

維新が自民との対立軸を作ろうとしたら、まず経済の軸でしょう。リーダー層の政治的イデオロギーは自民に近いからです。経済の軸とは、人々のニーズを細かく分けて生活保障を重視するか、ざっくりと社会的投資を重視するかという対立です。維新は、岸田文雄政権は改革が足りないと批判しますが、自民との違いを明確にするために、自民が昔の生活保障重視に戻ったという印象を与える戦略でもあるのでしょう。

しかし、自民がこの先、以前のような政党に戻るとは考えにくい。生活保障を手厚くするといっても、公共事業を以前のようにはできません。農業や自営業者の支持基盤も細っている。かつて「抵抗勢力」が守っていたような利益を維持すると言っても支持は得られません。

いま自民には、世襲でスキルが比較的高い若手議員がかなりいます。この層の政治姿勢は極めて維新に近い。右派で将来への投資を重視し、社会を変えることに関心を持っている。党内で世代交代が進んでこの層が多数派になり、「改革」を進めていけば、立ち位置が重なる維新は国政での居場所を失い、「大阪の政党」に戻るかもしれません・・・

佐伯啓思先生「国を守るとは何を守ることなのか」

7月1日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「普遍的価値を問い直す」から。

・・・ かなりラフなスケッチではあるものの、これが今日の世界の近似だとすれば、不安定な世界にあって、日本はどのように国を守ればよいのか。いや、そもそも何を守るのであろうか。
政府も多くのメディアも、日米同盟の強化によって日本も「国際社会」を守れという。現実に着地すれば、確かに日米同盟の強化しかないだろう。だがもしも、本当にこの戦争を専制主義から自由・民主主義を守る戦いだとみなし、「自由、民主主義、人権、法の支配」こそ人類の至上の価値だというのなら、それを守るためにも、その敵対者と対決するだけの軍事力を持たねばならないであろう。

実は憲法前文も次のように謳っている。「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。……われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって……」
まさしく、「自国のことのみに専念」するわけにはいかないとすれば、国際社会のためにも専制や圧迫と闘わねばならない。世界平和のためにも悪と戦う必要がある。安倍晋三元首相は、それを「積極的平和主義」と呼んだのであった。

だが多くの人はいうだろう。闘うとは命を賭す覚悟を決めることである。われわれは、自由や民主主義のために死ねるだろうか。国際社会のために死ねるだろうか。無理であろう。では、われわれは何を守ろうというのであろうか。
これは難しい問いである。ウクライナの多くの市民は、自由や民主主義のために戦っているわけではない。生命、財産のために戦っているわけでもあるまい。戦争の背景に何があるにせよ、眼前に出現した自国への理不尽な侵略、自国の文化や己の生活の理由なき破壊に対して命を賭けようとしているのだろう。そこにあるのは、理不尽な暴力に屈することをよしとしない矜持であろう。福沢諭吉的にいえば「独立自尊」である。

今日、世界の構造は著しく不安定化している。日本の憲法9条の平和主義は事実上条件付きのものである、なぜなら、9条の武力放棄は、前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」を受けているからだ。だが今日の世界ではもはやこの条件は成立していない。
何かのきっかけで日本もいつ他国の侵攻を受けるかわからない。その時、己の矜持や尊厳が試される。そういう時代なのである。とすれば、「9条を守れ」というより前に、「国を守る」という事態に直面する。その時、「国を守るとは何を守ることなのか」という問いを己に向けなければならない・・・

原発事故と政府の役割

6月18日の朝日新聞、小熊英二慶大教授の「責任あいまい、問い続けて」から。
・・・今回の判決で、電力会社の責任が重くなったともいえます。国の監督責任を狭く解釈した判決と考えられますから、電力会社にしてみれば、国に言われなくても災害を予測して安全対策を施す責任は事業者にあると宣告されたようなものです。電力会社が原発を運転するハードルが上がったとも言えるでしょう。
そもそも原発とは、核を扱うものです。過酷事故がおきたら民間企業が負担しきれない可能性がある。そのため米国では事業者の賠償責任額に上限があり、それを超えたら大統領が議会に補償計画を提出することになっています。つまり最後は国が補償する。最終責任は国にあるわけです。
ところが日本では、国の責任が明確でなかった。

1961年制定の原子力損害賠償法によれば、原発事故の賠償は事業者が負担します。でも現実には事業者の手にあまる事故が発生する可能性はあります。そこで賠償が一定額を超えた場合は、国が事業者を「援助」すると定められています。国と事業者のどちらに最終責任があるのか不明確といえます。米国と同じく国が最終責任を負う制度も検討されたのですが、省庁の反対で実現しなかった。
この例が示すように、日本の原発は、誰が最終的な責任を負うのか、あいまいなまま運転されてきた。その結果として生じたのが、過酷事故は起こらないという「安全神話」だったと考えられます。事故が起きたら誰が責任を負うのか不明確なのであれば、「事故は起きないはずだ」としておくのが無難だからです。
しかし東京電力福島第一原発の事故が起き、責任の所在が現実の問題になりました。それはまず、事故対応に現れました・・・

・・・それでも原発を運転するなら、事故が起きないように対応する責任が誰にあるのか、過酷事故の時に誰が最後に対応するのか、誰が巨額の賠償を最終的に負担するのか、責任の所在を明確にすることが必要です。
こうした問題が未解決なことを明確に示したのが今回の訴訟の意義でしょう。今後の社会には、責任の所在を問い続けることが求められます。事故は現実に起きました。安全神話に頼る状態にはもう戻れません・・・

個人や民間では負いきれない責任を、必要な場合に肩代わりするのが保険の仕組みであり、さらには政府の役割です。企業にだけ責任を負わせると、企業はリスクのある事業に手を出すことを控えるでしょう。