カテゴリーアーカイブ:社会の見方

国際法と国際関係の相互作用

2021年7月25日   岡本全勝

7月20日の朝日新聞オピニオン欄、小和田恒・元国際司法裁判所長へのインタビュー「国際法の理想の長い旅」から。
東京大学とオランダのライデン大学が秋に共同で始める「小和田恒記念講座」について。
――講座の狙いは何でしょう。
「第一に、法の支配に基づく国際秩序への挑戦が冷戦終結から今世紀にかけ台頭した背景と、その克服です。私が終生の実践と研究の対象とする『国際法と国際関係の相互作用』から探ります」
「17世紀の欧州で宗教戦争を和解に導くウェストファリア講和が実現し、主権尊重と内政不干渉を中核に主権国家が併存する近代国際秩序の枠組みが確定しました。ここから発展した近代国際法学には、ユートピアを目指す規範主義的指向が強く、国際紛争の平和的解決を掲げた1899年のハーグ平和会議で頂点に達します」
「これに対し2度の大戦とナチス台頭への幻滅から生まれたのが国際関係学で、ジャングルの掟が世界を支配するという認識に立つ現状肯定的指向が主流です。国際法学が目指す理想と、国際関係学が取り組む現実のギャップを埋める努力がなく、国際社会観を乖離させてきたのではないか。近代以降の歴史の流れを巨視的に見て『国際法と国際関係の相互作用』を的確に捉えることが、世界に安定をもたらす道と考えます」

――「国際秩序への挑戦」と言えば、いま世界は米中対立やコロナ禍で混沌としています。
「歴史は繰り返すと言われますが、私は国際秩序はらせん状に進化すると考えます。今はその進化の途中の『幕間(まくあい)劇』であり、講座ではこの紆余曲折を乗り越える歴史的課題に接近を試みます。国際法と国際関係のギャップを埋めるため、宗教や文化、感情といった人間集団に影響する様々な要因を学際的に探ることも必要です」
この項続く

もはや豊かな先進国ではない

2021年7月18日   岡本全勝

7月11日の読売新聞「日本復活の処方箋」、加谷珪一・経済評論家の「もはや豊かな先進国ではない」から。
・・・「日本は安い国になった」
最近そんな声を耳にします。私は香港のホテルでビールを注文したところ1500円以上取られてびっくりしたことがあります。国内にいては、わからないかもしれませんが、日本の物価は今や欧米や一部のアジア諸国と比べて低水準です。コロナ禍で下火になっていますが、訪日外国人(インバウンド)がどっと増えた一因は「日本の安さ」にもあるのです。
日本人にとって「日本が世界でも指折りの経済大国」であることは当たり前の話でした。その常識が崩れ始めているのです。

なぜそうなったのでしょうか。
バブル崩壊以降、日本経済はほぼ「ゼロ成長」の状態が続いており、賃金水準は上昇していません。この間、先進諸国は国内総生産(GDP)を1・5倍から2倍に拡大させました。日本は相対的に貧しくなったわけです。「今はもう豊かな先進国ではない」というのが実情です。
日本経済が成長を止めた理由の一つには、「ビジネスのIT化」にうまく対応できなかったことがあります・・・

・・・では日本経済が復活するための処方箋は何でしょうか。
まずは、日本企業の生産性を高めることです・・・
日本企業は基本的に雇用が過剰だからです。ある調査によれば、日本企業には「仕事はないが、会社に籍がある」という従業員が400万人もいるといいます。全従業員の1割に相当します。この「社内失業者」が転職し、別の仕事に従事すれば、その分、生産性を上げることができるのです。
日本は「終身雇用」「年功序列」が根強く、多くの人は転職に抵抗感があるかもしれません。しかし、人材が流動化すればもっと多くのサービスを創出できるはずです。 そのためには、転職しやすい環境をつくる必要があります。行政による支援は必須です。スキルアップが簡単にできる「職業訓練プログラム」の充実を政府は成長戦略の柱にすべきです。
もう一つの処方箋は「薄利多売」をやめることです・・・

先に、ビックマックが、アジアより日本の方が安いことを紹介しました。「日本は貧しい国

奥井智之著『宗教社会学』2

2021年7月10日   岡本全勝

7月7日の朝日新聞夕刊で、奥井智之先生の新著『宗教社会学:神、それは社会である』(東京大学出版会)が取り上げられていました。「宗教的なもの、形変え今も社会に」。この本は、ホームページでも、紹介しました。

・・・社会学者の奥井智之・亜細亜大学教授が5月に出版した『宗教社会学:神、それは社会である』(東京大学出版会)は、社会学の知見から「人間にとって宗教とは何であるのか」に迫った本だ。伝統社会で大きな影響力を持っていた宗教は、近代化と共に衰退してしまったのか。奥井さんは、宗教的なものは形を変えて、いまもスポーツなど様々な分野で人々に受け入れられていると話す。
「近代を通じて、宗教的知識は科学的知識による攻撃にさらされ続けてきました。でも、宗教的なものは今も社会に根を張り続けています。人間はつねに科学的にものを考えるほど単純な存在ではないからです」と奥井さんは話す・・・

・・・「宗教」を表す「religion」は、「固く縛る」「固く結ぶ」が語源で、宗教的な結合は、ほかにも様々な形で生き残っていると奥井さんは言う。
その一つがスポーツだ。「箱根駅伝が年中行事と化しているのは、それを通して新年の幸福を占ったり願ったりする国民的な儀礼になっているからでしょう。近代オリンピックも、賛否はあっても、4年に1回『国民』や『世界』を一つに結びつける宗教的な儀礼ともとれます。スポーツは現代における宗教の代用品とも言えるかもしれません」
さらに奥井さんは、著名な俳優やタレントが亡くなった時、日本中がこぞってその死を悼むのは宗教的な空間が一瞬生まれているからだとみる。
「知人が『科学はエリートのもので、宗教は大衆のもの』といっていましたが、私も同感です。人間の文化の根底には宗教があり、簡単に無くなるものではないのです」・・・

非政府組織の役割

2021年7月9日   岡本全勝

7月4日の読売新聞言論欄、長有紀枝・難民を助ける会会長の「人道支援や問題提起 NGOが抱えるもどかしさ」から。

・・・非政府組織(NGO)の役割とは何でしょうか。
「政」が予算の優先順位をつけ、「官」がそれを遂行します。この過程で切り捨てられるものも決まる。この決定は誰かがしなければならないことであり、悪いとは言いません。ただ、取りこぼされる人や、日の当たらない問題が出る。そこに光を当てるのがNGOの役割だと思っています。
「全体の優先度は低くても、誰かにとっては死活問題だ」という認識や想像力を持つのは多様性を重んじることに通じます。
NGOに対しては、「あなたたちは誰からも選ばれていない。勝手にやっている」という批判があります。でも、選挙で投票してくれた多数の人を代表する「政」とは別に、少数の人の立場を代弁する。あるいは、後回しにされがちだったり、まだ争点になっていないが構造的・潜在的だったりする問題を提起し続けることこそがNGOの存在意義ではないでしょうか。
NGOの活動は、助けを必要としている人や地域への支援と、何かについて声を上げる啓発に大別できます・・・

・・・カナダ政府高官から、「長年の活動を通して、政府とNGOのパートナーシップは対等でないと機能しないことを学んだ」と聞いたことがあります。この対等の関係を築くことが日本では難しい。
「難民を助ける会」は1979年、初代会長の相馬雪香がインドシナ難民支援を目的に始めました。相馬は、「議会政治の父」として知られる政治家・尾崎行雄の三女で、「政」「官」に知己が多かった。ところが、一緒にやろうと働きかけたら「それは官の仕事だ。民は余計なことはせんでもいい」と相手にされなかった。
この「民は余計なことはするな」というメンタリティーはいまだ、日本の官の一部に根強く残っていると感じることがあります・・・

国家と市民との関係、欧米と日本の違い

2021年7月3日   岡本全勝

6月26日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「対コロナ戦争」から。
・・・この1年半、私の印象に残ったことのひとつは、この事態に対する日本と欧米の反応の相違であった。都市のロックダウンや違反者への制裁なども含む強力な措置をとった欧米に対して、日本の「自粛要請」はかなり際立った対照を示していた。専門家の見解を聞き、世論に配慮し、経済界の意向を確かめ、国会で野党と論議をし、その上で「緊急事態宣言」を出す、というのが日本政府の対応である。しかもほぼ強制力を伴わない自粛の要請である・・・
・・・通常の場合には、政府の強権を批判し、個人の権利を強く唱える野党や多くのメディアが、今回のような「緊急の状態」を前にして、政府の「中途半端さ」を批判し、断固たる態度を取れと訴える。では、欧米のような強力な私権制限の権力を政府に与えるべきだというのかと思えば、そうではない。有効な対案は出てこない。私はあまり政治的な色分けは好まないが、便宜的にいえば、いわゆる「リベラル系」の政府批判にこの傾向を強く感じた・・・

・・・こういうところに、欧米の国家観もしくは「国家」と「市民」の関係が典型的に示されているように思われる。たとえば、西洋近代社会の思想的基礎を与えたとされ、日本でも一時期は戦後民主主義のバイブルのようにもみなされたルソーの社会契約論をみてみよう。彼はいう。自然状態では、人々は様々な意味で生命の危機にさらされる。そこで、ある契約を行って自らの生命を共同で防衛すべく社会を作った。それは、個人の自由がより高度の次元で実現できるような契約社会である。ということは、この社会が何らかの脅威に晒された場合、人々は、自らの生命・財産をこの社会に全て委ねて社会の共同防衛にあたらなければならない。ここに政治共同体としての国家が作られるが、国家とは、まずは生命や財産を共同で防衛する共同体なのである。

ルソーの社会契約論は西洋思想の中でも特異なものであり、歴史的にこのような契約などどこにもなかったが、それでもこの思想は、西洋における「国家」と「市民」の関係を典型的に示す論理となっている。市民は私的な権利を持つ。そのことは法的にも保障される。しかしその法を確保するために人々は共同で国家を創りだした。つまり政治的共同体を創出し、自らをそこに投げ入れた。したがって市民と国家の関係は二重になっている。一方で、市民の私的権利は国家の干渉から守られなければならない。しかし他方で、この国家(共同社会)の秩序が危機にさらされた時には、市民は最大限の公共精神を発揮して国家のために役立たなければならない・・・

・・・先に、私は、日本の「自粛要請」と欧米の「国家の強権」を対比したが、この「対比」の背後にある違いを見据えることは大事なことだと思う。善かれ悪しかれ、日本には、西洋の歴史伝統が生み出した国家意識はない。それはまた市民意識の欠落をも意味している。人間に脅威を与える「自然」との対決において「国家」という政治共同体を理解するような考えは日本にはまずない。国家という政治共同体は、日本ではほとんど自生的に生まれ、いつもそこにあるもので、それが「自然」との対決で作り出されたという意識はほとんどない。「自然」との対決とは西洋流にいえば「戦争」である。自然災害も、感染症も、他国の侵略も共同社会への脅威であり、それは「戦争」なのである・・・
原文をお読みください。