砂原庸介・神戸大学教授が、第17回大佛(おさらぎ)次郎論壇賞、を受賞されました。『分裂と統合の日本政治――統治機構改革と政党システムの変容』(千倉書房)です。
・・・二大政党制を目指した政治改革が行われたはずなのに、なぜ実現しないのか。本書はその原因を「地方」の政治ログイン前の続きや選挙のありようの中に探り、今の制度の中には有力な野党が育ちにくい構造があることを示した。与野党が公平に競争できる政治を目指し、改善の提言も行っている・・・
続きは、12月18日の朝日新聞をお読みください。
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「説明責任」の濫用と誤用
11月18日の朝日新聞オピニオン欄、豊永郁子・早稲田大学教授の「野党・メディアの追及 「説明責任」劇場に陥るな」が、勉強になります。
・・・元の言葉は英語のアカウンタビリティーだ。手前味噌だが、政治の世界の語彙としてのこの語を初めて日本語にしたのは私だったと思う。25年前、最初に書いた論文でのことだ。訳語がなくて困った私は(辛うじて見つけた訳は「会計責任」だった)「答責性」という語を作ったログイン前の続き。このとき敢えて避けたのが「説明責任」という訳だ。単に説明する責任ととられる恐れがあるからだ・・・
(アカウンタビリティーは、サッチャー政権の行政改革・地方自治体改革のキーワードだった)・・・それは個人や組織が与えられた職務をきちんと履行していることを、上位者の求めに応じていつでも説明できる状態にあることを意味する。上位者は個人や組織を評価し、制裁や報賞を与える存在なので、この状態には緊張感が伴う。サッチャー政権は、経営や会計学で用いられていたこの概念を行政組織に適用した。そしてアカウンタビリティーを実現するため、行政組織の各単位の職務を確定し、職務の履行ぶりが数字で示されるシステムの構築を図った・・・
・・・さて、気になるのは、そうした「説明責任」が決まり文句になることで、何か問題が起こった際には、責任者に「説明責任」を問い、あるいは責任者が「説明責任」を果たせば事が済む、とする風潮が生じていることだ。
政界で言えば、典型的には、双方「説明責任」の錦の御旗を掲げ、野党とメディアは執拗に政府に説明を求め、政府、とりわけ首相は喜々として説明する、お決まりの「説明責任」劇場が展開する。悪いことに、ここでは、一方の野党とメディアは「説明責任を果たせ」とボールを政府に投げることで、客観的な事実認定を自ら行うことを避けているように見え、他方の政府は「説明責任を果たす」と言っては、一方的な言い分を述べ立て、自己宣伝の機会を増やしているだけに見える。議論の焦点も、誰かの説明責任が果たされているかどうかに、いつの間にかすりかわっている。
政治家とメディアは「説明責任」を問う手法をしばし禁じ手とし、自ら客観的に事実を認定し、示してはどうか。そしてそうした事実について、何が国民にとって問題かを説明してほしい・・・
マスコミにも野党にも、耳の痛い話です。ぜひ全文をお読みください。
日本政治、改革の時代の終わり?
11月1日の朝日新聞オピニオン欄「平成の政治とは」、佐藤俊樹先生の発言から。
・・・平成は、グローバル化という潮流のなかで日本の「総中流社会」が崩壊し、格差が広がっていった時代です。その変化に対応しながら、より公平な社会をつくっていく。それがつねに政治の焦点になってきました。
小泉政権の郵政改革、マニフェスト選挙で政権交代を実現した民主党……。平成の政治の基本潮流は「改革路線」でした。保守・革新の枠を超えて、政党の崩壊や分裂を繰り返しながら、改革の旗印が消えることはありませんでした。ところが、今回の衆院選ではその旗手に名乗りをあげた希望と維新が票を伸ばせなかった。「改革の時代」の終わりではないでしょうか・・・
・・・背景にあるのは有権者の改革疲れだと思います。平成の初頭、日本は米国を脅かす経済大国でしたが、GDPは伸び悩み、今では中国に抜かれました。苦しい改革を重ねてきたのに、人々の暮らし向きはさほど変わっていません。
現在の日本経済は世界経済の動向に大きく左右されます。政府が打ち出す政策の効果はもともと限られている。さらに、以前は低成長や少子高齢化は日本特有の課題だとされていましたが、最近は多くの国で同じ状態になりつつある。横並び意識が強い日本人には危機感を感じにくい状況です。
安倍政権の安定ぶりにはそんな巡り合わせもあったように思います。「改革」の旗印がまだ説得力を持ちつつも、次第に政治への期待が低下していった・・・
いつもながら、鋭い指摘です。毎日の出来事を追いかけているだけでは、見えてこない視点です。
私もこの説には同意しますが、少し違う見方もしています。
一つには、改革という言葉がインフレ状態になり、あまりにも安易に=中身を伴わずに使われています。それに、国民が気がついているのです。××革命という言葉も、同様です。
二つ目には、改革によってどのような成果が出ているかを、政府も識者も十分に説明していないことです。国民には、改革でどのようなよいことが実現したかが、いまいち分かりません。改革は常に未来形であって、過去形では認識されていないのです。これも、政治家に幾分かの責任があります。未来に向かって「改革」を訴えますが、その結果について語りません。
三つ目に、このことにも関連しますが、改革さらに革命には痛みを伴います。既得権益、既存勢力を削減するのですから。しかし、痛みについては、多くが語られません。「敵」を明確にしてそれと闘うなら、それだけの覚悟が必要であり、「血」も流れます。かつては、国鉄と労働組合、郵政と郵政族、官僚などが「敵」とされました。
2017衆院選、問われたもの
10月25日の朝日新聞オピニオン欄「2017衆院選 勝ったのは何か」、濱野智史さんの発言「昭和の利益誘導 なお強固」から。
・・・日本はもともと、外圧でもないと変化の起きにくい島でした。黒船が来たから仕方なく近代化し、形だけ民主主義をやり始めたけれど、革命のあったフランスや南北戦争のあった米国のように、過酷な歴史を経て有権者に根づいた意識もない。だから日本の政治は、「民主主義ごっこ」のような一種の借り物でした。
戦後、その「民主主義ごっこ」を日本流の利益分配システムに仕立て上げたのが、自民党であり角栄でした。その結果、組織票か、地元でずっと応援しているから、という利害と惰性中心で、政策は二の次という支持基盤が強固になりました。都市型無党派層の私から見ると、今回の結果は既得権益に頼る地方の人々が作り上げた分配システムの勝利にしか見えないのです・・・
砂原教授、選挙制度改革論
砂原庸介・神戸大学教授が、今回の衆議院選挙を振り返って、選挙制度改革の論点を整理しておられます。「「フェアなゲーム」を作るための選挙制度改革」(2017年10月23日)。
・・・折しも,前回の選挙制度改革から20年が経過し,そろそろその総括をすべき時期になっているのではないだろうか。1994年当時といえば,まだShugart and Careyの極めて影響力の強い本が出た直後くらいであって,「小選挙区制が二大政党化を促す」と言ったような非常に単純化された言説は受け入れやすかったように思う。また,1990年代に入るころまでは福祉国家もそれなりに持続的で,ということは中央政府への集権の度合いも高くなっていっており,国政の主要な選挙での小選挙区制(のみ)が他の選挙にも影響を与えることで二党制の形成を促すといったところもなかったわけではないだろう。しかしその後各国で制度の多様化が進んだことを受けて行われた選挙制度研究の発展を考えれば,衆議院総選挙だけを小選挙区制にしたことで二党制が生まれるというのは相当に無理がある議論だということはわかるし,20年してその反省を踏まえて「フェアなゲーム」のルールを考え直すべきじゃないか。
制度を見直すといっても,元の中選挙区制に戻すべきではない。前回選挙制度改革での中選挙区制に対する問題意識自体は正しかったと思う・・・
と述べたあと、論点として、(1)安易な混合制を避ける、(2)参議院の選挙制度を変える、(3)地方の選挙制度を変えることを挙げています。
また、「投票方式よりも些細なことに見える制度群の扱いも重要である」とも指摘しています。その要素として、首相の解散権、任期や選挙サイクル、選挙運動期間などを挙げています。
原文をお読みください。