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社会

「海外ルーツの子」?

「海外ルーツの子」と聞いて、あなたは、どのような子どもを思い浮かべますか。
3月23日の朝日新聞「海外ルーツの子へ、学習アプリを開発」に、次のような文章で出てきました。
「日本語指導が必要な子どもが増えている。海外にルーツがあり、日本で生活する子どもたちが、楽しく日本語や漢字を学べる方法はないか」
そして、記事の後ろには、次のような解説がついています。
「日本に暮らす、海外ルーツの子どもは増えている。20年の国勢調査によると、外国籍の19歳以下の人は29万5188人で、10年前の約21万人から8万人以上増えた」

私が疑問に思ったのは、「ルーツ」という言葉です。かつて、アレックス・ヘイリーの「ルーツ」という本が売れました。これは、確かアメリカの黒人がアフリカまでご先祖を探しに行くという話でした。
辞書には、起源、由来、先祖、故郷などが挙げられています。さて、この記事での「ルーツ」は、どれに当たるのでしょうか。

日本語が母語でない子どもたちを指しているようですが。
本人の生まれ育った地は、通常はルーツとは言いませんよね。出生地でしょう。「ルーツ」では、親や祖先が生まれ育った地で本人の出生地ではない国を想像します。しかし、「在日」と呼ばれる人たちの3世は、「海外ルーツの子」に入るのでしょうが、多くの子どもは日本語を話すと思います。
カタカナ語は、意味が曖昧なことが多いです。新聞記事がそれを助長するのは、困ります。

会社による社会保障国家の限界

3月14日の朝日新聞夕刊、浜田陽太郎記者の「休職体験への指摘 「正社員」の私、分断を自問」から。

・・・やはり来たか――。予想はしていたが、グサッと刺さった。
「55歳の『逃げ恥』体験」という記事を、朝刊リライフ面で連載している。
「自分は会社で役立っていないのでは」と悩んだ私は「自己充実休職」という制度を使って1年間、九州・大分で過ごした。その体験を軸にした記事だ。デジタル版では昨年末、同じストーリーをより詳しく書き込んで配信している・・・
・・・「正直、共感するポイントを探すことが難しい」。私の記事にこんなコメントを寄せたのは、人類学者の磯野真穂さんだった。
任期無しの正社員に一度もなったことがない磯野さんにとって、落下しても「ふかふかの羽毛布団と高級マットレス」が待ち構えている人(つまり私)と、「冷たいコンクリート」がある人(任期付きで働く多くの非正規労働者)が存在することをあらわにされた気持ちはぬぐえないという厳しい「感想」だった。
ただし、磯野さんは、こうした思いを言葉に出すことの危うさへと論を進める。「あなたよりもっと大変な人がいる」という語り口を進めれば「不幸の総量」が発言力を決める事態に陥るからだ。個々人の感じる苦しさを重量のように比べる議論は分断しか生まない……。・・・

・・・ 最近、ある有識者から、子育てや住宅の分野で日本の社会保障が立ち遅れたのは「それはカイシャ(会社)が面倒をみるべきもの」という規範意識が岩盤のようにあるからだ、と指摘された。
カイシャが面倒をみるのは正社員のみ。その枠から漏れる非正規労働者には「冷たいコンクリート」しかない状況を変えるため、政府にお金を預け(税金を払い)、社会保障を充実すべきだとの主張はこの岩盤を崩せていない、という。
正社員にも切実な不安や苦しみはある。だが、その吐露を批判されるのは嫌。黙って岩盤を守っている方が得策。そんな気分が自分にないか、自問自答するところから始めている・・・

人は何に従うか

3月13日月曜日から、マスク着用についての政府の推奨が、「着用が望ましい」から「いくつかの例外を除いて個人の自由」に変わりました。新聞テレビでも報道されていますが、ほとんどの人は依然としてマスクをつけているようです。政府の要請は、無視されているのでしょうね。着用の推奨は、受け入れられたのに。
面倒を増やす呼びかけが受け入れられ、楽にする方の呼びかけが無視されるという、不思議な現象です。

駅のエスカレーター、「右側を空けずに、立ち止まって2列で乗ってください」という放送は、ほとんど無視されています。右側が空いて、左にエスカレータを待つ長い列ができているのは、誰が考えても非効率ですよね。
「スマートフォンを操作しながら歩くのは危険なのでやめてください」という放送も、かなりの人が無視しています。これは効率の問題ではなく、安全の問題です。でも、無視されています。

高校野球の入場行進

3月18日から春の高校野球が始まります。17日のテレビニュースで、入場行進の予行演習風景が報道されていました。
でも、この入場行進と予行演習って、誰のために、何のためにやっているのでしょうか。きちんと整列して行進することは、球児たちにさほどの意味があるとは思えません。さらに、そのために前日に予行演習をするとは。軍隊を連想させます。
観客のためでしょうか、大会役員の自己満足でしょうか。

夏の大会では、あの炎天下で野球をすることも、非人道的ですよね。
私も野球は好きですが、これらの行事は、目的をはき違えているように思えます。ほかの競技や、他国ではどのようになっているのでしょうか。

時間を気にせず働く「昭和の男」社会

3月1日の朝日新聞生活欄「「昭和98年」の女性登用2」、「「偉くなったら変えれば」我慢強いられ」から。

・・・4年前、2人の保育園児を抱えながら、地方の営業所でリーダーに抜擢された。数十人以上の後輩たちをまとめるポジションで、同期のなかでも早いほうだった。夫と相談し、家事や育児、互いの仕事のスケジュールをとことん調整することにした。
一分一秒が惜しくて、パズルのようにタスクを組み合わせ、仕事にあてられる時間を捻出した。
そこまでして仕事に打ち込んだのに、だんだん、会社にストレスを感じることが増えてきた。

理由の一つが、非効率的な「根回し」を求められることだった。新たな取り組みを始めたいと思っても、社内の各部署との調整に多大な労力を強いられる。「順番的に飛ばせないから」と、結果は同じなのに、何人もの人に同じ報告をしなければならないことも多かった。
「この面倒な作業がなければ、もっと仕事が進むのに」。上司には、現場の裁量をもっと増やせないか、確認フローの簡素化はできないか、いろいろと提案した。でも、そこで返ってくるのは、決まってこんな言葉だった。
「おまえが偉くなったときに、変えればいいんだよ」
「今」の話をしているのに、我慢を強いられる。相談していたはずが、いつの間にか「俺も若いときはさぁ……」と上司の武勇伝にすり替わることもたびたびだった。

そしてあるとき、気づいた。上司を始め、ほとんどの男性社員の妻は、専業主婦だ。「誰かが家のことをしてくれる」という前提での働き方が、違和感なく受け入れられていて、がくぜんとした。
この人たちは、終業時間直前に設定された会議に焦ることも、会社を飛び出したあとに「お迎え、間に合うかな」とひやひやすることも、ないはずだ。帰宅して寝かしつけるまでの怒濤の流れに、体力の限界を感じたことだってないだろう。そう思うと、なんだか力が抜けた。
自分の時間を「仕事」に使えることに、何の疑問も持っていないような人たちと闘うなんて、世界が違いすぎて無理だ、と感じた。

家庭を優先することを選んだ社員に、「あいつは、出世をあきらめた」とからかうような発言も聞いた。なぜ仕事も、家庭も、大事にしてはいけないのだろう。「私が、家族との時間を犠牲にしてまで過ごす場所は、ここじゃない」。管理職試験に合格してからすぐ、辞表を提出した・・・