時間を気にせず働く「昭和の男」社会

3月1日の朝日新聞生活欄「「昭和98年」の女性登用2」、「「偉くなったら変えれば」我慢強いられ」から。

・・・4年前、2人の保育園児を抱えながら、地方の営業所でリーダーに抜擢された。数十人以上の後輩たちをまとめるポジションで、同期のなかでも早いほうだった。夫と相談し、家事や育児、互いの仕事のスケジュールをとことん調整することにした。
一分一秒が惜しくて、パズルのようにタスクを組み合わせ、仕事にあてられる時間を捻出した。
そこまでして仕事に打ち込んだのに、だんだん、会社にストレスを感じることが増えてきた。

理由の一つが、非効率的な「根回し」を求められることだった。新たな取り組みを始めたいと思っても、社内の各部署との調整に多大な労力を強いられる。「順番的に飛ばせないから」と、結果は同じなのに、何人もの人に同じ報告をしなければならないことも多かった。
「この面倒な作業がなければ、もっと仕事が進むのに」。上司には、現場の裁量をもっと増やせないか、確認フローの簡素化はできないか、いろいろと提案した。でも、そこで返ってくるのは、決まってこんな言葉だった。
「おまえが偉くなったときに、変えればいいんだよ」
「今」の話をしているのに、我慢を強いられる。相談していたはずが、いつの間にか「俺も若いときはさぁ……」と上司の武勇伝にすり替わることもたびたびだった。

そしてあるとき、気づいた。上司を始め、ほとんどの男性社員の妻は、専業主婦だ。「誰かが家のことをしてくれる」という前提での働き方が、違和感なく受け入れられていて、がくぜんとした。
この人たちは、終業時間直前に設定された会議に焦ることも、会社を飛び出したあとに「お迎え、間に合うかな」とひやひやすることも、ないはずだ。帰宅して寝かしつけるまでの怒濤の流れに、体力の限界を感じたことだってないだろう。そう思うと、なんだか力が抜けた。
自分の時間を「仕事」に使えることに、何の疑問も持っていないような人たちと闘うなんて、世界が違いすぎて無理だ、と感じた。

家庭を優先することを選んだ社員に、「あいつは、出世をあきらめた」とからかうような発言も聞いた。なぜ仕事も、家庭も、大事にしてはいけないのだろう。「私が、家族との時間を犠牲にしてまで過ごす場所は、ここじゃない」。管理職試験に合格してからすぐ、辞表を提出した・・・