カテゴリー別アーカイブ: 歴史

『ドイツ・ナショナリズム』

今野元著『ドイツ・ナショナリズム 「普遍」対「固有」の二千年史」』(2021年、中公新書)が、良かったです。先に、「西欧的価値と普遍的価値」(2月5日)で一部を紹介しました。

副題にあるように、「西欧普遍」に対して、ドイツがいかにして「固有」を生み育ててきたか、西欧を取り入れてきたかという切り口で、ドイツの歴史を見たものです。もともと「ドイツ」という国家はなく、西欧特にフランスやイタリアとの対決の中で民族意識と国家意識をつくります。
しかし、西欧を鏡にするということは、西欧の意識の土俵で生きることでもあります。今野先生が示唆しておられるように、これは日本にも当てはまります。ドイツでは「西欧的価値」と呼び、日本では「普遍的価値」と理解したのです。

1789年(フランス革命)までを「発展」、1945年までを「抵抗」、1990年までを「萎縮」、その後を「再生」と位置づけます。また、政治の動きだけでなく、政治家や学者など指導層の政治的発言や論争を分析しています。
日本はドイツと同じく、西欧との対比の中で国家を作り、戦争をして負けた国です。この本のような分析は、日本にも役に立つと思います。ただし、政治家や学者による「日本のあり方の発言」は少ないので、その点での分析は貧弱になるでしょう。

ところで、ナチスがドイツ文字を廃止し、一般的なラテン文字などを使うようになったと書かれています。ドイツ文字とは、あの髭のような特殊な字体です。日本でも、私立高校の紋章などに使われています。
私は、ナチスがドイツ文化を称揚するために、ドイツ文字を使ったと思っていたのですが。占領地で読んでもらえるようにするためと、占領地では印刷のための活字がないので、ラテン文字にしたとあります。ドイツから欧州国家になるには、普遍を取り入れることが必要だったのですね。

オリンピック、感じる崇高さより軽さ

2月16日の朝日新聞スポーツ面、バルセロナ五輪出場、法政大・杉本龍勇教授の「五輪、崇高さより“軽さ”感じる」から。

――五輪の価値が下がってきていませんか。
「自分もその舞台に立った人間ですし、現役の選手には申し訳ないのですが、今は他の娯楽とさして差がない軽さを感じます。五輪に出ている側からすると崇高な場であっても社会の評価としては消耗品。スポンサーの広告ツール、そしてメディアのコンテンツとして瞬間的に視聴率を稼ぐための材料となっています」

――その軽さはどこからくるのでしょうか。
「メディアには、選手やスポーツの価値を高める発想が欠けていると感じます。東京五輪は多くの人がコロナ禍で苦しむ中で開かれ、あれだけ五輪やスポーツの価値を社会的に考えようとなった。それなのに大会後、メダリストがメディアに出るケースが多くはバラエティーで、いじられ役になっている。選手の本来の姿を見せることを優先させず、別の側面ばかりを見せ、当座のコンテンツにしています」

――他にもスポーツの価値を高める選手像はありますか。
「大リーグの大谷翔平選手です。こちらは、余分なセルフマーケティングをせず、自分のプレーだけを見せている。自己欲求を達成するために、自分の持てる力を高め、それを試合で披露することに集中しています。余分な装飾をはずしている分、スポーツが持つ本質的なエンターテインメント性を高めることにつながっています」

――五輪と人々の距離を近づける方策はありますか。
「メディアの伝え方は考え直した方がいいかもしれません。テレビを見ていても、コメンテーターや音楽、映像を駆使して番組を盛り上げようとする雰囲気に、視聴者が付いていけていない気がします。自分は、粛々と競技を見せて欲しいというのが本音です。それぞれに閉塞感を抱えたコロナ下では特に、演出はいらない。選手のすばらしいパフォーマンスをリアルに見てもらい、何かを感じてもらうためにも、あおることなく、良い意味で淡々と見せることが一番いいと思います」

川北稔先生「私と西洋史研究」

川北稔著『私と西洋史研究:歴史家の役割』(2010年、創元社)を読みました。かつて読もうと買ってあったのが、本の山から発掘された(正確には、崩れて出てきた)ので。
川北先生はイギリスを中心とした西洋史の大家です。私は、『路地裏の大英帝国』『民衆の大英帝国』やウォーラーステインの『近代世界システム』の翻訳で、親しみました。あとで、高校の先輩だと知りました。

この本の解説には、次のようにあります。
「西洋史研究の碩学として知られる著者の個人研究自伝。計量経済史および生活史(社会史)の開拓、世界システム論の紹介・考察など数々の画期的業績を築きあげた著者の研究スタンスや思考を詳説するとともに、学界研究動向の推移や位置づけ、歴史研究の意義とあり方、歴史家の役割など、歴史を学ぶうえで必須の観点を対談形式で平易に説き明かす」

この本にも書かれていますが、川北先生と阿部謹也先生が社会史を始められた頃は、学会からは異端として相手にされなかったそうです。私も、阿部先生の『ハーメルンの笛吹き男』や川北先生の本を手に取ったときは、「このような歴史学があるのだ」と驚きました。歴史を政治史として習った私には、社会史は「文学に近いな」と思えたのです。
興味を持って読んだそれらの平凡社のやや大きめの判型の本は、いくつも今も本棚の奥に並んでいます。
大学で政治学を学び官僚になったのですが、社会史の見方に惹かれ、そのような本を読むだけでなく、今の社会と政治の見方にもつながっています。

先生の史学は、当時の主流であった東大を中心としたマルクス主義史観、大塚久雄先生の史学を超えることでした。そして、ヨーロッパの研究者の三流にならないこと、彼らと互角の戦いをすることでした。すると、史料を読み解いて発表するだけでなく、新しい物の見方を提示する必要があります。それに成功されたのです。
先達の努力と葛藤を学ぶことは、ためになります。

「文明の衝突」発刊25年

11月23日の読売新聞、待鳥聡史・京大教授と池内恵・東大教授の対談「「文明の衝突」刊行25年 影響と評価」から。
・・・自由民主主義で世界が覆われるかのような楽観論を一蹴した米国の国際政治学者サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』が刊行され、今年で25年。刊行後の世界やこの本の意義について、比較政治研究の待鳥聡史・京大教授と、イスラム研究の池内恵・東大教授に語り合ってもらった・・・

池内  本書の一番のテーゼ(命題)は、西洋文明に対する、最も明確な挑戦者がイスラム文明だと言い切ったところです。中東では、超大国・米国の政治学の権威に認められたと受け止める傾向が強い。一方、潜在的な敵として描かれたと不快感を抱く人もいる。中東では文明の衝突論がねじれた形で受容され、人々の冷戦後の世界観を規定した面があります。9・11の米同時テロの首謀者、ウサマ・ビンラーディンなどは、まさにイスラム文明が西洋文明に挑戦しているとの世界認識を持つとみられます。
待鳥  世界規模で人々の思考の枠組みを無意識に規定してきたのだと思います。本書は、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(1992年)と、時に対比されて論じられてきました。自由民主主義が冷戦に勝ち、体制間競争はなくなったとするフクヤマの見方に対し、ハンチントンは文明間競争が残っていると主張したからです。実際、2010年頃までは、非国家主体が続々と現れ、国際政治のかく乱要因になった。文明の衝突論は、そうした状況に適合的に見えました。

待鳥  ただ、ハンチントンの議論は、学術的には扱いにくい。文明という概念は、何かをつかんではいるのですが、定義が難しく、経済指標のように測れないからです。定義や測定ができないものは、今の比較政治学では取り上げるのが難しい。また、文明は、簡単に変化しないのに、実際の政治変動や紛争は広く起きている。政治学が科学であろうとすれば、文明が「原因」との説明はできないのです。
池内  現在の学術界の研究成果といわれるものは、集合知にどれだけ積み増し、どれだけ引用されたかが評価基準になる。本書はそれらと一線を画し、彼個人の直感に多くを依存し、方法論としても定式化しにくい。超大国の介入を正当化しているなどと、刊行直後から多くの専門家に批判されました。疑問点はたしかに多く、いま本書が書かれたら、日本は独自の文明に入らないでしょう。

待鳥  現実をつかむために学者がするのは、地図を描くような作業。球体である地球を平面に描くと必ずゆがむので、地図は常にどこかが間違っている。それでも目的によって、正しい部分の価値が大きいなら、その地図を使うわけです。今、世界地図を描くような研究は、間違いを批判されるから取り組まれない。ただ、ごく一部を精密に捉える地図ばかりでは、全体は見えてきません。
池内  政策当事者は、現実にあるものを、雑ぱくでも大づかみにする言葉を求めています。文明の衝突論は、おおむね共有されている常識をざっくりと言語化してくれ、有用だから生き残ったと言えますね。
待鳥  文明という言葉は、国民性や県民性という言葉と、使われ方が似ています。あいまいな概念なのに、本質的なものを含むと感じる人が多い。しかし、学術界はそのあいまいさを嫌う。結果的に学術界と一般社会との距離は広がり、読む本や知識を共有できなくなっています。
池内  政治学は科学化して厳密になったものの、社会との接点が乏しくなってきたのですね。
待鳥 残念なことです。政治の世界には、うまく整理できない要素が多く存在します。それを、科学化を重視して切り捨てるだけだと、社会の見取り図を提示できない。バランスが難しいのです。

政権の自己評価、中国共産党

中国共産党が、11月11日、第19期中央委員会第6回全体会議で、毛沢東、鄧小平の時代に続く第3の「歴史決議」を採択しました。各紙は、習近平総書記(国家主席)は両者に並ぶ権威を確立したと伝えています。

これについて、12日の朝日新聞は「歴史決議は毛沢東時代の45年、鄧小平時代の81年に続き3回目。45年は結党以来の主導権争いに決着をつけて毛の権威を決定づけ、81年は文化大革命を否定し改革開放への道を開いた」と書き、林望・中国総局長が「政権の自己肯定、にじむ不安」に次のように書いています。
・・・過去の歴史決議が共産党内の主導権争いや路線の過ちをただす自己否定の作業だったとすれば、新決議は習近平氏の権威を高めるための自己肯定の試みである・・・
・・・一方で、強さと正しさを内外に証明し続けなければ今の地位は保てないという政権の不安があることも見逃すべきではない・・・

「歴史決議」には、次のような文章もあります(日経新聞による)。
・・・全会は次のように指摘した・・・中国共産党は中華民族の千秋の偉業を志してから100年で、まさに最盛期を迎えている。過去の100年、党は人民、歴史に優れた答案を出した。今、党は国民を団結させてリードし、第2の100年の奮闘目標を実現する新たな試験に向かう道に踏み出した・・・