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国立公文書館特別展「夢みる光源氏」

国立公文書館で特別展「夢みる光源氏―公文書館で平安文学ナナメ読み!」が開かれています。5月12日まで。

公文書館の展示は、動物園とか博物館と違い、書物なので派手さはありません。その分野に興味のある方でないと、つまらないかもしれません。関心のある方には、面白いでしょうね。
1000年前に書かれた小説、しかも王侯や僧侶でなく女性が書いたものが、後の世に伝わったのです。書庫の奥深く眠っていたのではなく、最初は上流階級に、後には庶民にまで読まれます。手で写していたものから、木版印刷、挿絵入りになります。それを江戸幕府が収集し、明治になると内務省が集めます。これも、不思議ですが。

今回の展示は、「夢」を切り口にしています。昔の人は、夢を大切にした、畏れたのですね。夢に出てきた女性が物の怪になり、憑りついて殺すのです。
源氏物語を通読した人は少ないでしょう。「早わかり、源氏物語」のような解説展示もあります。素人向けには、もっと説明があってもよいですね。外国人向けの解説もあると、喜ばれるでしょう。
近くの皇居東御苑の「三の丸尚蔵館」と一緒に、お訪ねください。東京の真ん中で便利です。しかも無料です。

和訳されなかった仏典

仏教は日本で庶民に広まりましたが、仏典は読まれることなく、僧侶が独占しました。インドで生まれた仏教は、中国で漢訳されたのですが、日本語には翻訳されませんでした。「ヲコト点」などによって、訓読することは行われていたようですが。
庶民は、「はんにゃはらみた~」「なんまんだぶ」と、意味が分からないままお経を唱え、僧侶の説法と絵解きなどで教えを理解しました。
漢訳でも意訳しきれず、音を宛てた単語もあります。それと同じで、意味が分からなくても唱えることで、ありがたみがあるとしていたのでしょう。

他方でキリスト教は、ヘブライ語から、ギリシャ語にそしてラテン語に翻訳されました。これも中世ヨーロッパの庶民には理解できず、司祭たちが独占しました。教会のステンドグラスは、文字の読めない庶民に絵解きをするための、画像でした。
それに反抗して、ルターがドイツ語に訳し、ほかの言語にも訳されることで、庶民が読めなくても理解できるようになりました。聖書は、世界で一番多く出版された本といわれています。かつては(今もかな)、ホテルに泊まると部屋に聖書がありました。

また、キリスト教徒が少ない日本でも、旧約聖書や新約聖書の断片は出版物に引用されることで、「汝の敵を愛せよ」など日常語にも「聖書の言葉」として知られています。しかし、仏典の用語は、僧侶以外はほとんど知らないのではないでしょうか。
宗教関係者が自らの地位を確保するためもあって、庶民には分からない書物・書き言葉を独占します。それを続けるのか、庶民にも分かるようにして理解者を広げるのか。「販売戦略」の違いでしょうか。

仏典はどう漢訳されたのか』(2013年、岩波書店)を読んで、このホームページでも紹介したはずなのですが、見つかりません。

酒票、その2

威徳輝宇宙」(2月24日)で、清酒瓶に貼ってあるラベルを「酒票」と呼ぶと書きました。知人が、雑誌「dancyu」3月号「王道の日本酒」に「クラッシック酒ラベルの来た道」が載っていると教えてくれました。
読んでみると、明治編、大正・昭和(戦前)編、昭和(戦後)編、平成・令和編の4つに分けて、それぞれの時期の代表的な酒票の写真と、その傾向が説明されています。石田信夫・比治山大学名誉教授の説明です。40年にわたってコツコツ集めて、コレクションは2万点とのこと。

明治期は、木樽に貼ったB5ほどの大きさでした。戦後になってガラスの一升瓶がほとんどになると、ラベルは小さくなります。写真を見ると墨一色のものから、色刷りの絵もきれいな鮮やかなものへと進化しています。そして、平成になると、銘柄だけの簡素なものへと変化します。
世の中は、さまざまなものに歴史があり、それを研究する人がいるのですね。

スイス、傭兵と中立

本の山から発掘され、気が向いたので、森田安一 著『「ハイジ」が見たヨーロッパ 』(2019年、河出書房新社)を読みました。

「アルプスの少女ハイジ」は、原作は読んでいなくても、テレビ漫画を見た人も多いのではありませんか。正しい発音は、ハイジでなく、ハイディだそうです。
宣伝文には、次のように書かれています。
「おんじはスイス傭兵だった――。白パンと黒パン、干し草のベッド、チーズ料理、フランクフルトへの旅、クララの病――子供の頃に夢中になったアルプスの物語には、意外な真実が隠されていた。原作に潜む19世紀ヨーロッパの光と影を読み解く」
このように、この童話を通して、19世紀のスイス社会を解説しています。原作は1880年、まだ100年あまり前のことですが、社会が大きく変わったことがわかります。日本も同じですが。

第2章は「おじいさんの履歴――スイス傭兵制」で、スイスの傭兵の歴史が書かれています。中世から、スイスはヨーロッパ各国への傭兵の供給源でした。たぶん山岳で働く場所が少なかったことが特殊な出稼ぎに向かわせ、山岳育ちで屈強だったことが各国に重宝されたのでしょう。戦前の日本軍でも、田舎の出身の兵隊が強かったとのことです。

そこに、スイスの中立国の成り立ちが説明されています。簡単に言うと、傭兵を要求する各国からの要望に応えるのですが、新教と旧教双方から味方につくようにとの要請を受けて困ります。そこで提案したのが、「スイス国内でそれぞれが傭兵募集をすることは妨げない。しかし国(当時はまだ邦の連合)としては、どちらにも味方しない中立を取りたい」です。各国がこの条件をのんだことから、スイスが中立国になります。なるほど、そのような経緯があったのですね。

百人一首、編纂者は定家ではない

田渕句美子著『百人一首─編纂がひらく小宇宙』 (2024年、岩波新書)を読みました。
「小倉百人一首」として知られていて、カルタ取りでもおなじみです。皆さんも、いくつかは覚えておられるでしょう。全部言えるという人もおられるでしょうね。ところが、「百人一首」は定家の作ではない。小倉山荘のふすまに貼ったのは嘘。最近の研究では、そうなっているとのことでした。

「百人秀歌」という、百人一首に似た歌集があり、それが定家の作ったものだそうです。定家の日記「明月記」の記述も符合します。百人秀歌は1951年に発見されました。101歌、百人一首と97歌が共通です。
小倉山荘で作ったということも日記からは否定され、ふすまに百首の色紙を貼ったというのも、間違いのようです。当時そのような風習がなかったようです。百枚も色紙を貼ろうとすると、かなりの面積のふすまが必要ですよね。
百人一首が広まったのは、はるか後世の室町時代以降だそうです。和歌の模範となり、定家が神格化されます。百首という簡便な形が、広く広がった理由の一つでしょう。余り多くて専門的な難しい歌集だと、覚えられませんから。

定家が日記を残したこと、それが現在まで伝わったことが、このような考証を成り立たせています。藤原道長の日記「御堂関白記」といい、よくまあ千年や八百年前の和紙に毛筆で書かれた直筆が残っているものです。
詳しい謎解きは、本を読んでください。一種の推理小説です。

春すぎて夏来にけらし白たへのころもほすてふあまの香具山 持統天皇
田子の浦にうちいでて見れば白たへの富士の高嶺に雪は降りつつ 山部赤人
あまの原ふりさけ見ればかすがなる三笠の山にいでし月かも 安倍仲麻呂
花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 小野小町
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則
あひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思はざりけり 中納言敦忠