カテゴリー別アーカイブ: 歴史

歴史家は長生きしなければならない。

西村貞二著『マイネッケ』(1981年、清水書院)に、次のような話が書かれています。

大歴史家に、長命な人が多い。必然性はないが、次のように言えるのではないか。芸術家は早死にしても、よい作品を残せばよい。しかし歴史家は、世のこと、国のことについて、さまざまな体験を積む必要がある。歴史家として成熟するには、どうしてもある程度、長生きしなければならない。

さまざまな体験には、3つのものがある。個人的、社会的、時代的の3つである。まず個人的な体験をする。幼い時期に家庭や身の回りに起きる出来事である。成人して社会に出ると、社会的経験を積む。自分で運命を切り拓かなければならない場合もでてくる。そうした社会的経験は、大局から見れば。時代的体験の一部だろう。戦争や歴史の転換といった大きな変動に会うと、個人は木の葉のように翻弄される。

歴史家も一般人も、この体験は異ならない。違うのは、歴史家がこれらすべての体験に基づいて歴史を書くということである。すると、20歳くらいの若さでは、社会的体験や時代的体験を積むことはできない。世の有為転変を知るには、ある程度長生きしなければならない。

 

シェークスピアは聞き、狂言は観る

8月3日の朝日新聞オピニオン欄、野村萬斎さんの「シェークスピアは冗舌マシンガン」から。

・・・実は、狂言とシェークスピア劇にはいくつも共通点があります。狂言は中世にさかのぼり、シェークスピアも中世から近世にまたがった劇作家と認識しています。どちらも、普段の会話を口語体でしゃべる一方、韻を踏むなど様式的な文章を口にする。そういう文体に対応する「謡う」とか「語る」という技術が、狂言師の我々にはあります。

ただ、シェークスピア劇は文字数が多い。冗舌ですね。日本ではお客様のことを「観客」といい「見る」お客様ですが、英語ではオーディエンスといって「聴衆」、つまり「聴く」ことにウェートがあるためでしょう。だからシェークスピア劇を演じる時は、口、舌の回転数をあげる必要があります。
狂言の場合は、息継ぎをしながらも大きく抑揚をとって短い言葉を発していくのに対し、シェークスピア劇は、特に訳された日本語だと、マシンガンのように矢継ぎ早に話さないとダレてしまいます。口跡の回転率をあげ、腹の底からというより、少し胸高にしゃべる印象があります。

発声も違います。たとえば「ハムレット」の名セリフ。狂言式に話すと
(腹から出し朗々と)生きるべきか、死ぬべきか、それが問題でござる
とやります。一方で、現代の英国のシェークスピア劇では
(小声で、ささやくように)トゥビー…オアナットトゥビー…ザットイズザクエスチョン
という感じでしょうか。

シェークスピアの時代、自我が確立し、近代的な苦悩というものが劇中に登場しはじめた。自分のあり方を内向的に追求する表現は、ささやくような声のほうが現代の観客とは共有しやすいのかもしれません。悩みやストレスの多い時代になったので・・・

東京オリンピックの位置づけ

8月3日の朝日新聞オピニオン欄、吉見俊哉・東京大学大学院情報学環教授へのインタビュー「東京五輪、国家の思惑」から。

・・・五輪選手たちの健闘をよそに、新型コロナ感染拡大が日本の首都を脅かしている。もしコロナ禍に見舞われていなかったら、五輪は日本に益をもたらしたのか。今回の五輪を「敗戦処理」と表現する社会学者の吉見俊哉さんは、東京という都市の実相を研究し続けてきた。これからの東京はどこへ向かうべきなのかを尋ねた・・・

――開催前から、今回の東京五輪を批判していました。
「多くの意味で、1964年の東京五輪の『神話』から抜け出せていないことが最大の問題です。根本的な価値観の転換もなく、前回の延長線上で、2020年東京五輪を迎えてしまいました。6月の党首討論で五輪の意義を問われた菅義偉首相が、女子バレーの『東洋の魔女』などを挙げて前回の東京五輪の思い出を長々と語ったことがその象徴です。一国の首相ですら、半世紀以上前の成功体験しか語ることがない。なぜ東京で再び五輪をするのか、誰も分からないまま突っ走ってしまった。開会前から、敗戦処理をしているようでした」

――64年の東京五輪では、「お祭りドクトリン」によって何が行われたのでしょうか。
「東京をより速く、高く、強い都市にすることが前面に打ち出されました。川や運河にふたをして首都高速道路が造られ、路面電車のネットワークが廃止されました。当時、都民の多くは反対していましたが、住民の暮らしよりも経済発展が重視された。開発の結果、東京という都市は著しく効率的になった半面、無味無臭の街になってしまいました」
「東京が、明治時代から続く『軍都』だったことも再開発には好都合でした。明治維新で薩長が江戸を占領し、中心部から離れた現在の港区、渋谷区のような西南部に軍事施設が集中しました。敗戦後は米軍に接収されて、代々木のワシントンハイツなど米軍施設になります。しかし、反米意識を抑えたい米国の意向で、こうした施設は徐々に返還され、国立代々木競技場などの五輪施設に生まれ変わりました。六本木や原宿は流行の先端を行く街となり、東京五輪神話へとつながっていきます」

「今回の『敗戦』で日本ではもう誰も五輪をやりたいとは思わなくなるでしょう。政治家がいくら開催を唱えても、国民の支持は得られない。お祭りドクトリンの化けの皮はすでに剥がれています」

民間戦災被害者への補償

8月2日の朝日新聞オピニオン欄、伊藤智章・編集委員の「戦災救済、民間置き去り 根底に「受忍論」、いびつさ見直しを」から。

・今の日本は原爆、沖縄戦などを除き、民間の戦争被害を救済する制度がない
・第1次大戦後から欧米は民間被害も補償した。戦時中の日本ですら制度があった
・国による慰霊や被害調査も不十分。当事者が存命のうちに救済立法を急ぐべきだ

・・・救済法は3月の参院予算委員会でも取り上げられた。政府は「すべての国民が何らかの戦争の犠牲を負った」(菅義偉首相)としたうえで、「政府は、雇用関係にあった軍人軍属らに補償の対応をしてきた」(田村憲久厚生労働相)と答えた。裏返せば、雇用関係のない一般国民の被害を補償する義務は国にはない、ということだ。
根底には、戦争という非常事態下、身体や財産の被害は、国民が等しく我慢しなければいけない、という「受忍論」がある。最高裁が68年の判決で打ち出した理屈だ。

実は戦争中の政府は、こんな非情は言えなかった。42年に戦時災害保護法を制定し、民間被害者に給付した。
「戦災者の栞 みなさん御存じですか こんな温い手があります」
45年6月8日付の朝日新聞記事が同法を紹介している。持ち家全焼は千円以内、遺族500円、救助中の死亡に千円を支給、とある。41年の国民学校(小学校)教諭の初任給が50~60円だった時代にそれなりの支給をした。
45年度支給額は7億8600万円。傷病軍人や遺族向けの軍事扶助法による支給額2億2800万円の3倍だ。
ところが戦後の46年、民間人の救済は生活保護などで対応するとして占領軍の指示で廃止され、それっきりだ・・・

・・・ 旧西ドイツは独立回復後に連邦援護法を制定し、軍民差別のない救済を進めた。英仏も同様だ。現地調査をした国立国会図書館元調査員の宍戸伴久さん(72)によると、欧州は国家総力戦になった第1次大戦を契機に、民間被害への支援を始めた。日本の多くの援護制度と違い、外国籍も救済する・・・

ドルショックから半世紀

8月2日の日経新聞オピニオン欄、藤井彰夫・論説委員長の「1971年真夏の衝撃 米中とドル、教訓今も」が勉強になります。若い人には歴史でしょう。一読をお勧めします。

・・・新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言下の東京五輪大会の開催。2021年の夏は日本人にとって忘れられない夏になるだろう。
今から50年前の1971年の夏もそうだった。キッシンジャー米大統領補佐官(国家安全保障担当)が極秘に中国を訪れ周恩来首相と会談。それを受けて7月15日にニクソン大統領は翌年の訪中を電撃発表した。1カ月後の8月15日、ニクソン氏は日曜夜の緊急テレビ演説で金・ドル交換の停止を宣言した・・・

あれからもう半世紀も経つのですね。私は高校生でした。キッシンジャー補佐官の極秘交渉で、ニクソン大統領が訪中することは、それなりの衝撃を持って受け止めました。
しかし、ドルショックの方は、それがもつ意味はわかりませんでした。まず為替相場の意味がわからず、「円高になると、1ドル360円が例えば200円になる」と聞いて、「なぜ円「高」といって、下がるの」という程度の認識でした。

この記事にもあるように、日本政府の関係者も何が起きるのか、よくわからなかったようです。
1ドル=360円で守られていた輸出産業が、変動相場の波に洗われることになりました。一つの経済的「開国」だったのですね。
現在では、定時のニュースで、円ドル相場と株式市場の動向が伝えられます。しかし、それまでは、1ドル=360円に固定されていましたから、円ドル相場のニュースはありませんでした。
日経平均株価を定時のニュースが伝えるようになったのは、いつからでしょうか。かつて気になって、NHKに問い合わせたのですが、「いつから報道するようになったかは、わからない」との回答でした。