「ものの見方」カテゴリーアーカイブ

社会はブラウン運動1 人類の進化は偶然の積み重ね

歴史を見る時、「単線的思考では視野が狭い」という議論を続けてきました。その続きです。しばらく、放ってありました。この分野「ものの見方」は不定期連載です。

今回は、歴史はある法則に従って進んでいるのではなく、ジグザクに動くという話です。その基礎には、人の動きはブラウン運動的であることがあります。
ブラウン運動は、微粒子が不規則に動き回ります。人の動きは、このブラウン運動に似ています。各自の考えや好き嫌いで、各々が思う方向に動きます。もっともブラウン運動は、微粒子は自分の考えて動いているのではなく、液体の方が動いていて、その上に浮かんでいる微粒子が動いているのが観察されるのですが。
この反対は、指導者の指示を受け入れて、各個体が一定の方向に動きます。あるいは、歴史の法則に沿って、社会が発展します。しかし、実際はそうではないのです。

この考えを説明する前に、人類の進化について触れます。
人類の進化の解説書を読んでいると、人類も神様が作ってくださったのでもなく、一定の法則や道筋で進化したものでもないようです。
アフリカの森に暮らしていたサルの一種族が、森を追い出されました。暮らしやすい森を追い出されたのは、弱かったからでしょう。競争相手に負けたのです。
弱い動物ですから、肉食獣に食べられたものも、たくさんいました。その過程でたくさん死んでいます。死に絶えた種もあります。
彼らが、生きていくために、いろんなことに挑戦しました。二本足になったり、手を使ったり。家族で協力したりと。幸運に、生き残ったのが私たち人類です。

人類に限らず、生物の進化は、偶然の積み重ねです。進化は、ある目的を持って進んではいません。突然変異が繰り返され、その中で生き延びたものが、生き残っていく。さらに変化が繰り返され、うまく適合したものが生き延びます。
法則があるとするなら、これが法則でしょう。

脱線すると、人類は強いが故に生物の頂点に立ったのではなく、弱いが故に強くなったようです。道具を使うようになり、智恵を使うようになってです。人類もまた、偶然の中からできたのです。森の中で苦労せず、おいしい木の実を食べていた強いサルたちは、そこから進化はしませんでした。しなくても、暮らしていけたのです。
その後の社会の発展も、同じです。故郷を追われた(弱い)人たちが、新天地で新しい生活を始めます。例えば、イングランドを出て、アメリカ大陸でニューイングランドをつくった人たちです。もちろん、全員がうまくいったわけではなく、冬を越せなかった人たち、失敗した人たちも多かったのですが。
この項続く

単線、系統樹、網の目5

単線的見方の続きです。直線的時間と円環的時間について。

時間や社会の進み方を見る際に、2つの見方があります。直線的時間と円環的時間です。直線的時間は、過去から現在そして未来へと、一方向に進みます。
それに対して、円環的時間は、繰り返されます。1日の太陽の動き、1か月の月の満ち欠け、1年の季節の移り変わり。朝起きて顔を洗い・・・、春が来て種をまきという農作業・・毎日の日常生活が繰り返されます。時間が経っても、変わることはありません。

直線的思考では、原因があって結果があります。円環的思考では、原因の後に結果が出ますが、その結果は次の原因になり、それが次の結果を生みます。そして一巡します。
直線的時間では、キリスト教のように、社会は終末に向かって進みます。ある目的があるのです。仏教では、輪廻転生で、終末や目的はなく、繰り返されます。

二つの思考の合成は、円環的時間が直線的に進むことです。自動車のタイヤがそうです。タイヤは一回転して元の位置に戻りますが、地面についていると、タイヤ自身が前進します。スタンドを立てた自転車なら、ペダルをこいでもタイヤは回転するだけで、前に進みません。

夕方に「やれやれ、今日も一日仕事が済んだか」と思い、朝に「今日もまた仕事か」と考えるのが、円環的思考。「今週中には、これだけ片付けるぞ」とか「今年1年、これだけのことができた」と考えるのが直線的思考です。
後者について「それでも、また次の週や来年には、次の仕事があるじゃないですか」という人が出てくるでしょうが、その間に、あなたは能力を上げているはずです。『明るい公務員講座 仕事の達人編』をお読みください。

単線、系統樹、網の目4

単線、系統樹、網の目3の続きです。今回は、網の目的見方の拡大です。

生物学の考えを参考にして、単線・系統樹・網の目という思考では視野が狭いという例を挙げます。生物はたくさんの相互関係の中で生きているということです。
その代表例が、「マイクロバイオーム」です。
人間の体内や皮膚に、何兆もの微生物が住んでいるのだそうです。体にある細胞の9割が微生物で、体重の3パーセントを占めているそうです。常在菌とか細菌相と呼ばれています。
いくつもの本が出版されていますが、私は、ロブ・デサールほか著『マイクロバイオームの世界――あなたの中と表面と周りにいる何兆もの微生物たち』(2016年、紀伊国屋書店)を読みました。
細菌は皮膚や内臓などに群集で生息し、特有の生態系を形成しています。この群集は、消化や免疫など人間の生存に不可欠な機能を提供し、遺伝子にも影響を与えているのです。「細菌は病気の元、手をよく洗いましょう」と教えられましたが、これらの細菌群を滅菌してしまうと、逆に健康を損ねることがあるのです。すなわち、単純に細菌=悪玉ではなく、共生しているのです。
「主体は環境に影響される」ということですが、環境同士が依存関係にあるということです。

マイクロバイオームまで行かなくとも、生物多様性はこのような考えを示しています。
かつて、ウィルソン著『生命の多様性』(1995年、岩波書店)を出版直後に読んで、感銘を受けました。
様々な生物が、ほかの生物と競争しつつ、また隙間を見つけて生息しています。それらは、単純に生物Aが生物Bを食べるだけでなく、様々な食物連鎖と天敵・共存関係にあります。ある害虫を駆除したら、ほかのところで影響が出てくるのです。奄美諸島でハブを駆除するためにマングースを放ったら、マングースはハブを食べずに、もっと弱いアマミノクロウサギを食べたとか。

人間の社会もそうです。人たちの間に、さまざまな関係が成り立っています。その際に、ある部分だけを「改革」しても、想定したとおりの結果になるとは限りません。大多くの場合、「副作用」があるのです。それらを想定に入れた上で、改革を議論しなければなりません。そして、私たちが考える関係以外の「意外なつながり」がたくさんあって、思ってもいない余波が出るのです。
共産主義にしたら、人は平等になると考えた人がいました。結果は、働いても働かなくても同じなら、人は働かなくなり、効率が落ちるとともに、発展が遅れました(少し論理が飛躍していますね)。

単線、系統樹、網の目3

単線、系統樹、網の目2の続きです。系統樹的な見方の問題点についてです。
問題は、もう一つあります。系統樹は通常、下に行くほど枝分かれしますが、これは現実を表していません。前回述べた「行き止まりの枝」と別の観点です。

あなたも私も、父親と母親から生まれました。ところが系図は、通常は父親の方で遡ります。「岡本家第何代目」です。母親側を遡ることは、めったにないでしょう。
多くの家で、母親の母親のそのまた母親と、3代・4代以上遡るのは難しいのです。
ミトコンドリアは、女性を通して子孫に引き継がれるのですが、多くの社会では男系で家の歴史を作ってきました。

一度、あなたを起点に、母親を含めてご先祖様を遡る「逆系統図」を作ってみてください。いろんな家の血が入っていることがわかります。1世代ごとに、母と父2人が必ずいます。
大きな川を想像してください。河口では一つになりますが、源はたくさんあります。通常は最も長いところが「源流」とされ、そこからが本流になります。でも、ほかの山々からも、たくさんの支流が流れ込みます。

これを社会に例えれば、今を終点とするなら、それらに入り込んだ要素は、とてつもなくたくさんなのです。系統樹をひっくり返したような図になります。

単線、系統樹、網の目2

単線的思考の続きです。ものごとの発展・進化の見方を、単線と系統樹と網の目に分けて議論しています(しばらく放ってあって、すみません)。今回は、系統樹的見方の限界について。

系統樹は、複数の路線に別れます。生物の進化の図が、わかりやすいですね。ある時点でも、複数の種が共存します。それぞれに、住む場所や食べ物を争いつつ確保するのです。
ところが、実際には、系統樹は枝分かれするとともに、行き止まりになる枝もあります。今につながるものたちだけが生き残り、ほかは死に絶えます。恐竜、マンモス、エディアカラ生物群などなど。
ヒト属(属名 Homo )も、現在生き残っているホモ・サピエンス以外にも、ネアンデルタール人などいろいろな種類がいたようです。でも、サピエンスだけが生き残ったのです。
ネアンデルタール人とサピエンスが共存していた時代があります。しかしその時点では、その後にネアンデルタール人が死に絶えることは想像できなかったでしょう。体つきは、ネアンデルタール人の方が頑丈だったらしいのです。

この話を、強引に拡大しましょう。
複数のものが同時に存在するとき、その先にどの枝が主になるか。その時点ではわかりません。「みんな仲良く暮らしました」とはならず、「勝ち残ったものだけが生き残りました」となります。そして、どれが勝ち残るかは、その時点ではわかりません。
すると、同時代の歴史、近過去の歴史を書くことは難しいのです。私たちが読む歴史は、済んでしまってから遡る歴史です。結果がわかってから書かれたものです。