年別アーカイブ:2013年

被災地への応援職員

2013年10月11日   岡本全勝

今日10月11日の読売新聞に、「復興を支える応援職員」が特集されていました。
・・被災3県の自治体に派遣され、行政事務に取り組む「応援職員」は約2000人。応援の警察官も約700人に上る。震災から2年7か月。人手不足が続く中、彼らの頑張りが、被災地復興の重要なカギを握っている・・として、何人かの方が、実名、写真付きで紹介されています。
土日返上で用地買収のために地権者を訪ね歩く職員、仮設住宅で避難者の健康相談に乗る保健師さん、放射性物質の除染作業を進めている職員・・・。このように仕事ぶりを紹介してもらうと、実情が分かります。人数を公表しているだけでは、イメージがわきませんよね。
応援職員には、慣れない土地で、慣れない仕事をしてもらうケースも多いです。ありがとうございます。
なお、応援職員の仕組みは、「人手不足対策の図」の上の欄です。クリックすると、詳しい説明がでます。この図も、優れものでしょ。職員が工夫してくれました。

官僚の先輩。昭和の軍事官僚の仕事ぶり、4

2013年10月11日   岡本全勝

(仕事の進め方、上司への説明、責任)
昭和12年、支那事変勃発後の予算要求です。著者は、軍事課予算班長(注:予算担当課長補佐でしょうか)になったばかりです。
・・既に廟議は一応不拡大方針を一擲してしまったが、なお果たしてどれだけの規模においてこの事変を遂行していくべきやということについては、陸軍部内においても何ら決定されていなかった。
私は参謀本部の堀場少佐と相談して、使用兵力の枠を大体15個師団と概定し、これから所要経費を大体私自身誰にも相談せずいろいろ大当たりをしてみて、3月末まで19億円を概算した。当時の陸軍予算の年額はせいぜい10億円前後であったから、当時としては一躍3倍になることであった。それでこれを極めて素人わかりするように両面罫紙1枚に図解したものをつくり、私はまず当時の整備局の資材班長真田穣一郎少佐のところへ持っていって相談した。真田少佐はニヤニヤ笑いながら「これだけとれれば結構ですがねえ」と―あまり桁外れなので問題にしないようであった・・
そこでこの案をつくって上司に意見を具申した。上の方は結局この通りに採用した。詳しい説明をしてもわからず、後宮軍務局長のごときは、右の両面罫紙の図解が一番いいと言って、大臣、その他内閣へもこの紙切れをもって説明していた。結局、この案で支那事変の本格的経費ができあがった、軍需動員もいよいよ大規模に発足することになった・・
・・この予算を、いよいよ本式に大蔵省に提出する前の晩は、一晩中眠られず床の中で考え明かした。いろいろの議論はあるが、この予算が通過すればいよいよ本格的に国内での仕事が始まる。いよいよ、財政も経済も戦時的に変貌していくのである・・上司は全面的にこれに同意している。しかしその内容もよくわからず、またあまりわかろうともしない。自分の責任は重大である。一応大臣の決裁まですんだものの、私はかれこれとその重大さを考えて、少なくとも今後は事、予算に関する限り、またこの守成というか台所の仕事については、自分が全責任を痛感して所信に邁進せねばならない。上司をいたずらに頼っていてはならない、と深く決心した・・(p110)
まだまだ興味深い記述がありますが、それは本を読んでください。当時の陸軍用語がでてきて、若い人たちにはわかりにくい言葉もあります。例えば、天保銭(陸大卒業組)、無天(それ以外)、連帯(協議という意味でしょうか)。

官僚の先輩。昭和の軍事官僚の仕事ぶり、3

2013年10月10日   岡本全勝

昨日に引き続き、一部を紹介します。
(幹部の不勉強)
・・陸軍省の各局長の集まってやる当時の重要行事たる予算省議における局長級の不勉強ぶり・・・何も仕事を知らない・・・のには、私もこれに列席して一驚を喫した次第で、自分の局の仕事とは知らず、他の局の担任と思って予算削減を強硬に主張し、後でこれを取り消す等驚いたものであったが・・(p43。引用文中の・・・は、原文のままです。たぶん活字になると問題となる、赤裸々なことが書いてあったのでしょうね)。
・・時々大臣について方々へ行った。陣頭指揮はまず上長の部下掌握に始まる。師団長、旅団長級の指揮官で、幕僚のつくった報告をもっともらしく読み上げるが部下将兵の数を知らないものの多いのには一驚した。細部はともかく、大体部下が1万5千なのか、2万なのかもはっきりつかんでいない将軍が少なくないのには本当に驚かされた・・(p197)。
読んでいて、私も驚きます。ここは実名ではありませんが、随所に出てくる実名幹部の人物評は、歯に衣を着せず、おもしろいです。笑っていられない場面もあります。
(人事)
・・補任課(注:人事課です)は以前は各方面の人が入れ替わっていたが、近頃は一種の人事屋なるものができあがり、しかも狭い視野で独善的に人事を決める癖があった。いわゆる人事の一元化で無理をした結果、歩兵の将校でせいぜい士官学校の区隊長くらいの経験しかないものが、各方面の人事の専権をふるうようになった。軍の能率をこれがために阻害したことは幾ばくなるかを知らない。
また人事屋が一連の閥をつくり、ひとたびこの人事屋からにらまれると永久に浮かばれない。―実際有用の人物で、埋もれた人も多くあった・・(p70)。
・・日本の将校、特に中央部勤務将校が、戦術を錬磨し兵学を勉強する機会の少なかったのは、なんといっても大きな欠陥であった。陸大卒業以来、事務に没頭して、いきなり高級指揮官となるという変則的人事が、かえって満州事変後の常則的人事となっていた。やむを得なかったとはいえ遺憾なことであった・・(p103)。
有名な統制派対皇道派の対立も書かれています。露骨な人事に驚きます。

興福寺仏頭展

2013年10月10日   岡本全勝

東京芸術大学美術館で、「興福寺仏頭展」が開かれています。私は、この仏頭が好きで、5月に奈良に行った時も、見てきました(5月19日の記事)。元は、山田寺にあったのですが、山田寺跡は私の生まれた里の近くです。
この仏像は、見る角度によって、表情が変わります。前にも書きましたが、私は、向かって左斜めからの角度が好きです。白鳳の貴公子という命名は、秀逸ですね。
今回の東京芸大での展示は、高い位置にある仏頭を下から見上げます。これが本来の位置なのでしょうが。同じ高さからは、見ることができません。
東大寺戒壇堂の四天王「広目天」(飛鳥園の写真)も好きで(2012年5月27日)、職場に写真を置いてあります。その厳しいお顔を見て、気を引き締めるためです。

官僚の先輩。昭和の軍事官僚の仕事ぶり、2

2013年10月9日   岡本全勝

前回の続きです。この本は、「日本陸軍終焉の真実」という副題がついています。
日本と日本陸軍が道を誤ったことについて、失敗の原因を分析する際には、政治指導者、統治機構、世論、現場の軍隊の行動、戦略や作戦、兵器と補給など、さまざまな視点があります。そして、これらに関して、たくさんの本が出ています。しかし、この本のように、軍事官僚が陸軍省内部から見た記録は、そうはないでしょう。
また、作戦を立て遂行するためには、部隊(大量の兵士)を養い動かすこと、武器弾薬を補給すること、その経費をどう見積もり手当てするかなど、その背後に膨大な事務作業があります。それを、官僚たちはどのように処理したか。興味深いです。
平時は、毎年の定例作業なのでしょう。前年の実績を元に、増分と減分を調整すればすみます。しかし、戦時になると、変更部分がとてつもなく多くなり(本文中に、一挙に3倍になるとあります)、また不確定要素が増えます。作戦の進行や変更によって、どんどん変わってきます。それをどう裁いたかです。
順次、興味深い記述を紹介します(引用する際には、一部書き換えてあります。また、注は私が入れたものです)。
まず、登場する軍人の名前には全て、陸軍士官学校の第何期生であるかが、記されています。年次が重要だったことがわかります。これは、現在も同じ。
また、頻繁に人事異動があります。官僚機構ですから、当然ですが。例えば軍務局長は、昭和6年当時は小磯国昭、その後10年の間、昭和16年の武藤章まで、12人です。一人で3度勤めた人もいますが。
(行革について)
・・人馬の減少、官衙の改廃等はなかなか細かいものであった。後年の軍備充実の大まかなやり方は、当時としては全く夢にも考えられない有様だった。鈴木宗作中佐の指導を受けて、本当に文字通り一兵一馬の予算をはじきながら、毎日コツコツと、火事場のような課の中で仕事を進めていた・・
・・判任官(注:現在では常勤職員でしょうか)一名の削減がどうしてもできず、ついに省内の各課を歴訪してどこでもけんもほろろの有様、ついに(広島県)宇品の運輸部の小蒸気船の機関長が判任文官だということを知って、防備課に三拝九拝、やっとこれを嘱託か雇員かに直して、ようやくつじつまを合わしたこともある・・(p37)。
この後に、馬を削った際の、著者の作戦と現場からの反発が書かれていますが、これは本文をお読みください。おもしろいです(失礼)。
この項、続く。