官僚の先輩。昭和の軍事官僚の仕事ぶり、4

(仕事の進め方、上司への説明、責任)
昭和12年、支那事変勃発後の予算要求です。著者は、軍事課予算班長(注:予算担当課長補佐でしょうか)になったばかりです。
・・既に廟議は一応不拡大方針を一擲してしまったが、なお果たしてどれだけの規模においてこの事変を遂行していくべきやということについては、陸軍部内においても何ら決定されていなかった。
私は参謀本部の堀場少佐と相談して、使用兵力の枠を大体15個師団と概定し、これから所要経費を大体私自身誰にも相談せずいろいろ大当たりをしてみて、3月末まで19億円を概算した。当時の陸軍予算の年額はせいぜい10億円前後であったから、当時としては一躍3倍になることであった。それでこれを極めて素人わかりするように両面罫紙1枚に図解したものをつくり、私はまず当時の整備局の資材班長真田穣一郎少佐のところへ持っていって相談した。真田少佐はニヤニヤ笑いながら「これだけとれれば結構ですがねえ」と―あまり桁外れなので問題にしないようであった・・
そこでこの案をつくって上司に意見を具申した。上の方は結局この通りに採用した。詳しい説明をしてもわからず、後宮軍務局長のごときは、右の両面罫紙の図解が一番いいと言って、大臣、その他内閣へもこの紙切れをもって説明していた。結局、この案で支那事変の本格的経費ができあがった、軍需動員もいよいよ大規模に発足することになった・・
・・この予算を、いよいよ本式に大蔵省に提出する前の晩は、一晩中眠られず床の中で考え明かした。いろいろの議論はあるが、この予算が通過すればいよいよ本格的に国内での仕事が始まる。いよいよ、財政も経済も戦時的に変貌していくのである・・上司は全面的にこれに同意している。しかしその内容もよくわからず、またあまりわかろうともしない。自分の責任は重大である。一応大臣の決裁まですんだものの、私はかれこれとその重大さを考えて、少なくとも今後は事、予算に関する限り、またこの守成というか台所の仕事については、自分が全責任を痛感して所信に邁進せねばならない。上司をいたずらに頼っていてはならない、と深く決心した・・(p110)
まだまだ興味深い記述がありますが、それは本を読んでください。当時の陸軍用語がでてきて、若い人たちにはわかりにくい言葉もあります。例えば、天保銭(陸大卒業組)、無天(それ以外)、連帯(協議という意味でしょうか)。