カテゴリー別アーカイブ: 行政

行政

新しい仕事41

月刊「ESP」3月号が発行されました。再チャレンジ支援が特集されています。再チャレンジ室の職員も、大勢執筆しています。私が参加した座談会も載っています。大沢真知子日本女子大学教授、樋口美雄慶應義塾大学教授、山岸秀雄NPOサポートセンター理事長で、私は司会です。
政府の再チャレンジ支援策が、簡潔に紹介されています。ご関心ある方は、ご覧ください。各自治体には、1冊はあると思います。

教育委員会制度

明治以来の日本の学校教育が大成功したことは、多くの人が認めます。効率的に、これだけの質の高い国民をつくったのですから。世界に例を見ないでしょう。この成果は、評価されるべきす。
しかし、それは発展途上国の時代に、欧米に追いつく、そのために中央集権型・画一的に行うという形で成功したのです。帝国大学が輸入し、文部省が企画し、県庁に示達し、市町村が実行する。これは、明治から戦前まででなく、戦後も同じでした。教える目標が、「富国強兵」から「経済成長」に変わっただけでした。
日本が成熟国になり、複線型=各人が自由に発想し、自己実現をするという社会には、不適合な仕組みでした。発展途上国時代には最適だった教育システムが、成熟国には不適合になったのです。日本の教育が悪くなったのではなく、環境が変わり、使命が変わったのです。これについては、先日書きました(2月24日の項)。
日本が欧米に追いついたのは、経済から見ると1970年代でしょう。しかし、社会の仕組みは、転換に遅れました。行政も、その一つです。それが顕在化したのが、1990年代です。金融行政、薬務行政、公共事業など、順次国民の前に失敗・時代遅れを露呈しました。成功したが故に、転換に遅れたのでしょう。
私が専門にしている地方行財政制度も、いくつかの部分においてそれが当てはまります。効率的な発展途上国システムを支えたのが、国庫補助金と地方交付税です。そして効率的に日本の行政水準を引き上げました。しかし、それは負担と責任を問う自治とは、違ったものです。これが、「新地方自治入門」の主題でした。
いつの時代でも、お金を持っている、そしてお金を配る、人と組織が権威・権力を持ちます。行政でいうと、補助金を配る、予算を配ることです。しかし、社会が変化するとき、その既存権威が転換に遅れるのです。それは既得権益であり、今風にいえば「守旧派」になるからです。
でも、社会で最も力を持つのは、知識であり、新しいことを考える人と組織です。特に、社会が変化するときには、知識と改革する力が求められるのです。その時に、お金を配っている組織は現状に安住し、時代の変化を考えよう、先取りしようと考えません。
私が三位一体改革で主張したのは、文科官僚は日本中の小中学校の先生70万人の給料の2分の1(現在では3分の1)を計算することに労力を使うのではなく、教育の内容を考えて欲しかったのです。それは、その他の補助金を配っている省・官僚も同じです。かつては、日本にないモノ(道路、教育、衛生、産業・・)を日本に広めるために、補助金を配ることは意味がありました。しかし、それがある程度行き渡ったときに、まだ補助金配りに能力を使っているようでは、国民は評価してくれません。それは、最先端の仕事・有能な人がする仕事ではないのです。

2007.03.07

教育委員会制度の問題点は、「新地方自治入門」p72で指摘しました。これは、市民に選ばれた市町村長が、教育に責任を持てない制度です。中立性確保のためと説明されますが、国では委員会制度でなく、文部科学大臣です。そして大臣は、多くの場合、政党員です。
一方で、地方の学校教育が、国(文部科学省)の強い規制の下にあります。教科書、学習指導要領、学級編成と、現場の責任に任せられたことはほとんどありません。そのような中で、昨今の学校教育の問題の責任を、学校と教育委員会に押しつけるのは、いかがなものでしょうか。
これまでの日本の学校教育の成功は、教育制度が優れていたからだといわれてきました。だとすると、その問題も同様に、まずは国が作った制度に帰すべきではないでしょうか。問われるべきは、教育委員会の前に、日本の教育制度とそれを作ってきた国でしょう(もっとも、私は教育委員会が「無罪」だとはいいません)。
また、教育委員会が不十分というのならば、国はいままでどのような指導をしてきたのでしょうか。文科省はこれまで、地方の教育委員会に対しどのような是正を指導したのでしょうか、国民に「××県の教育委員会はこのように問題がある」と公表したのでしょうか。これまでの運用を反省することなく、また十分な助言をすることなく、法律で国の監督権限を強化しようとするのは、理解に苦しみます。
例えば、市の福祉部長が十分責任を果たしていないとき、厚生労働省がその部長を指導するとか、任命するのは変だと思うでしょう。市長部局ですらそうです。教育が市長部局でなく委員会であり、その制度が民主的コントロールのためというのなら、その任命を国が行うという発想が、どうして出てくるのでしょうか。ここに、国が地方の教育委員会を、どのように位置づけているかが見えています。
教育委員会制度は、中立性とか専門性という名の下に、責任の所在が不明確な制度です。そして、文科省の下請け機関でしかありませんでした。市民の方を向いていません。あなたは、自分の町の教育委員を知っていますか。委員の名前を言えますか。民主的統制にするなら、公選制にすべきでしょう。
私は、学校教育の事務と責任は、市町村長に移すべきだと考えています。地域の教育に責任を持つべきは、国ではなく、市民です。教育委員会は、お目付機関とすればいいと思います。

新しい仕事40

6日の読売新聞「社会保障・安心」は、ワーク・ライフ・バランス=仕事と生活の調和を取り上げていました。日本は世界でも有数の長時間労働大国です(これは、自慢できたことではありません)。1週間に50時間以上働く労働者が、28%とダントツです。それでいて、というかそれだからこそなのか、労働生産性はOECD加盟30か国の19番です。残業を禁止した企業の取り組みも紹介しています。「締め切り効果」による生産性向上を目指しています。
この点、霞ヶ関は「最低」ですね。長時間労働のひどさと、生産性の低さとです。

2007.03.02

2月16日の諮問会議での、市場化テストについての議論を紹介します。
八代議員が民間委員ペーパーに基づき、次のように主張しておられます(議事要旨p15)。
「落合委員長から説明があったように、市場化テストは、本来英語のマーケット・テスティングの直訳であり、決して市場原理だけに基づくものではない。市場という道具を使って、独占的な官の事業を競争にさらすということがポイントである。その結果、質の高い公共サービスをより安いコストで提供するものを選定する制度であり、民営化とは実は違うものである。
市場化テストは、他国の例を見ても官民の勝敗は五分五分。官が競争入札で選ばれた場合には、官の効率性が証明される。民が選ばれた場合には、官の下で民に包括的に委託され、事業運営に民間の創意工夫が活かされるわけであるから、いずれにしても官の責任で事業を行うことは変わらない。その意味でこれは民営化をすべきかどうかをテストするものではなく、あくまでもそれは別のところで判断していただくもの。官の責任でやるビジネスについて、実際の運用まで官とするか、それとも民に委ねるかをテストするものである。
したがって、各府省にこのようなテストを拒否する正当な理由はない。官業として続ける必要性を示すためにも、原則としてテストを受けるべきだ」
落合官民競争入札等監理委員会委員長は、公権力の行使とテストの対象範囲について、次のように主張しておられます(議事要旨p14)
「公権力の行使を伴う業務についても、これは対象になるんだと法律上も明らかであり、これを公権力だから云々という形で抵抗するというようなことはやめて、これも積極的に対象に含めていくべきであると考えている。「例えば」というところにあるが、不動産登記簿等の登記事項の証明という業務は公権力の行使であるが、これを全部市場化テストの対象にして行うということを法務省で決め、監理委員会としても大いに評価(アプリシエイト)した。そういうことも行われているので、公権力だからという仕分けは、是非やらないようにしていただきたい。
 また、民間の創意と工夫が活かせるような形で対象事業が定められないと、コストの節約も非常に難しい。つまり対象業務が非常に狭いと創意と工夫を働かせる範囲も狭くなり、市場化テストを導入した意味が余り出てこないということがありますので、対象事業の範囲は極力創意と工夫が活かせるような広い範囲にするということを考慮していかなければいけない。契約も単年度ではなく、複数年という形で創意と工夫が実際に活かせるような形のものにすべき」
これについて、八代議員も次のように話しておられます。
「駐車違反の取り締まりのように警官自らがやっていた警察署の業務についても、これは事実行為として民間に委託された場合もあるわけだから、必ずしも現業部門に別に特化することはない」