「社会と政治」カテゴリーアーカイブ

社会と政治

リスク再論・政府が取り組む課題

10月22日の日経新聞経済教室に、林良造先生の「政府、リスク管理手法磨け」が載っていました。政府が、リスクに取り組むべき方法について、参考になりました。しかし、私は、少し違った考えを持っています。
先日も書きましたが、リスクを分類し、狭いリスクと広いリスクを区別すべきだと思います。
先生も、「政府の役割とは、自然や人為的な大規模な破壊による被害を予防・軽減し・・」と書いておられます。私が言う狭いリスクは、これです。
一方、先生が議論を展開しておられる、財政赤字、規制改革の遅れ、不明朗な政策の優先付け、行政機関の様々な不祥事などは、狭い意味でのリスクではありません。これらは、確かに将来、政府に被害を与えます。しかし、自然や人為的な破壊では、ないのです。
リスクは発生が他律的であり、いつ起こるかわからない、発生時刻と規模が予想できないといった特徴で区分すべきです。
政府の政策の遅れや、内部の不祥事は、破壊による被害には該当しません。さらに、リスク管理として、立法プロセスや官僚機構の問題までを視野に入れると、「政府の課題」がすべて、リスク管理に含まれます。確かに、官邸が対処しなければならない問題は、すべてリスクになります。しかしそれでは、政治学がすべてリスク学になってしまいます。

組織のリスク、加害者と被害者

昨日、「個人や社会のリスクと組織のリスクは別だ」と書きました。質問があったので、補足します。
リスクとは通常、危険や被害を受ける可能性を指します。すると、会社や自治体(市役所組織)にとってのリスクも、本来どのような被害を受けるかという可能性です。取引先の倒産や、仕入れた原料の欠陥は、このようなリスクでしょう。会社のビルが災害にあうかもしれない、職員の多くがインフルエンザにかかり仕事が続けられなくなるかもしれない、というような場合も、リスクです。
しかし、職員が事故や不祥事をしでかした、作った製品が事故を起こしたといった事案は、会社は被害者でなく、加害者なのです。
このような場合に、おわびの仕方、記者会見の方法も重要ですが、それは、住民や地域が被害を受ける場合のリスクとは別物です。
「リスク」「リスク管理」といった言葉を、あいまいに使いすぎていると思います。これらもリスクに含めるなら、「加害者になるリスク」と「被害者になるリスク」に区別して議論すべきでしょう。

リスク総論

今日は、大学校で、火災調査科の入校式。2か月間の課程が多く、また同時並行でいくつもの科が進行するので、次々と入校式と卒業式があります。
今日の校長講話は、「現代社会のリスク-私たちの暮らしと政府」をお話ししました。リスク総論といったものです。近年は、リスク学が大流行です。私もこれまで、県の総務部長としての実務経験や、行政の課題として、勉強してきました。さらに、総理秘書官として、広く社会のリスク、災害・事故対策を考えました。
いくつかの切り口がありますが、「個人・家庭のリスク」「地域・国家・世界のリスク」と分けることできます。そして、「人為によるもの」と「自然・偶然によるもの」という分類ができます。また、損なわれる安全安心という観点から、身体・精神、財産、人の自立・人間関係、社会の仕組み・機能などという分類もできます。
次に、個別のリスクを、この分類に当てはめます。それは、災害や事故、テロや戦争といった、よく取り上げられるものだけではありません。病気のほか、貧困、失業、引きこもり、離婚、家庭内暴力といった人生でのリスクも、近年社会問題となっているリスクです。プライバシーの侵害は、新しい被害です。毒物入食品や製品の欠陥などは、消費者庁をつくるまでになりました。
テロも、薬物によるものやサイバーテロなど、一昔前には想定していなかったものにも、備えなければなりません。金融危機やパンデミックも、最近のものです。少し変わったもので、じわりと来るものに、環境問題があります。
目に見えないやっかいなものが、増えています。そして、かつては個人や家庭の責任だったものが、政府の責任になっています。国民保護や製品安全などは、これまでもあったリスクを、新たに政府が取り上げるようになったものです。
このほかに、企業や自治体で関心を持たれている「リスク」に、組織の不祥事、加害者になった場合のリスク管理があります。これは、上に述べた個人や政府のリスクとは、別のものです。

世界の経済規模の比率

世界各国の経済規模のシェア(構成比)を調べた、興味深い数字があります。アンガス・マディソンという、世界の経済成長の歴史を調べている学者がおられます。その人が行っているGDP推計です。以下の数字は、田中明彦著「ポスト・クライシスの世界」(2009年、日本経済新聞出版社)からの引用です。
1820年では、中国33%、西欧23%、インド16%、アメリカ2%、日本3%です。1973年では、中国5%、西欧26%、インド3%、アメリカ22%、日本8%でした。かつて、中国とインドが、はるかに大きかったことがわかります。
ここまでは、歴史です。将来推計では、2030年に、中国24%、西欧13%、インド10%、アメリカ17%、日本4%です。中国やインドが復活し、西欧や日本が低下します。
もちろん、その間に人口が変動していますから、一人当たりGDPも比べてみる必要があります。
ところで、最近の数字では、日本・韓国・中国3か国のGDP合計は、イギリス・フランス・ドイツ3か国の合計を、上回っています。意外でしょ。そしてこれは、日中韓東アジア3か国が、英仏独西欧3か国と比べ、世界にどれだけの貢献をしているか、という私の議論(国際社会での位置と自覚)につながります。

お金で買えない感覚資源

昨日の続きです。原研哉さんは、次のようにも言っておられます。
・・日本は、石油や鉄鉱石のような天然資源に乏しい・・しかし、今日においては、天然資源の確保に汲々としてきたことが、むしろプラスに転じはじめている。もしも日本に石油が豊富に湧き出していたら、おそらくは環境や省エネルギーに対する意識は、今日ほどには高まってはいなかったはずだ・・
マネーという富はもっと巨大にこの国に蓄えられ、医療も、教育も、通信も、すべて無料にで国が提供するような裕福な国になっていたかもしれないが、その豊かさは、やがて訪れる次の時代に対応できず、悲惨な衰退を運命づけられていたかもしれない。
幸いなことに、日本には天然資源がない。そしてこの国を繁栄させてきた資源は、別のところにある。それは繊細、丁寧、緻密、簡潔にものや環境をしつらえる知恵であり感性である。
天然資源は今日、その流動性が保障されている世界においては買うことができる。オーストラリアのアルミニウムも、ロシアの石油も、お金を払えば買えるのだ。しかし文化の根底で育まれてきた感覚資源は、お金で買うことはできない。求められても、輸出できない価値なのである・・
私は、拙著「新地方自治入門」で、地域の財産として、自然環境、公共施設、制度資本のほかに、関係資本や文化資本を取り上げました。