朝日新聞は13日の夕刊から「戦後60年の投資図、第2部・イメージ空間」の連載を始めています。13日は「歌謡曲」でした。
「歌謡曲史を振り返ると不思議なことに気がつく。曲のタイトルから東京に限らず、町や土地の名前が消えていくことだ。『長崎ブルース』『京都の恋』『よこはま・たそがれ』。70年前後には、個性的なイメージを競いあう各地の町をうたう多くの流行歌が生まれた」「しかし、町の名前をタイトルに含む歌は、70年代の途中から姿を消していく」
「 『背景には、日本中が均質な消費空間におおわれ、歴史をもつ地域の風土が崩壊した変化がある』と消費社会研究科の三浦展氏は見る」「日本中が画一的な郊外の風景になってしまった。その結果、地域の固有の記憶は失われ、土地が匿名化した」
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社会と政治
人生の表現
「服装はその人の生き方だ」と書いてから、「住宅は住む人の思想だ」ということを思い出しました。建築家の渡辺武信さんが「住まい方の思想-私の場をいかにつくるか」(中公新書、1983年。中公新書にはあと数冊書いておられます)で主張しておられました。そこには、住宅がハードウエアでなく、住む人と家族の生き方を反映すべき、あるいは反映するものであることなど、考えさせられることが書いてあります。
もっとも、住宅の設計は、私たちの人生にとって、そう何度もあることではありませんが、服装は毎朝選ばなければならないので、よりつらいですね。
また、「生き方の選択」という点では、自由時間の過ごし方も、そうでしょう。麻雀をする、ゴルフに行く、パチンコをする、本を読む、ごろごろしている。それぞれが、その人の生き方の表現です。でも、服装の選択は、衆人に評価されることが、自由時間の過ごし方よりつらいです。
(周りが変わると)
「で、おまえは何を着て行っているのか」という質問があります。5月には、「岡本さんは、6月から何を着るのですか」という問いも、たくさんありました。「ふだんでも、変わった服装をしているので、軽装になったら、どんなとんでもない服装になるのか」という期待だそうです(笑い)。また中には、「おまえはへそが曲がっているから、みんなが軽装になったら、普通の服装になるのではないか」とおっしゃる方もおられました。
申し訳ありません、期待を裏切って。これまで通りの服装で行ってます。スーツの日もあれば、色が違う上着の日もあり、ネクタイは基本的にしています。何が変わったかというと、これまでこの服装(+クレリックシャツ)は、紺のスーツ軍団の中で目だったのに、今はちっとも目立たなくなりました(笑い)。もう少し暑くなったら、半袖ノーネクタイにしようと思っています。
続・夏服騒動
前回書いた「夏服騒動」は、たくさんの反響がありました。その続きです。
(霞が関の社会学)
霞が関・永田町では、夏服騒動が続いています。「逮捕されるまで、俺はネクタイを外さないぞ」と言った官僚がいるとか(逮捕された人が、自殺防止にネクタイを外され連行される姿がテレビで映ります。そのことを指しています)、奥さんと久しぶりにシャツを選びに行ったとか、話題には事欠きません。「毎日、着ていく服を選ぶのが大変だ」という声が多いです。
ネクタイを締めていると、「どうしてネクタイをしているんですか」と聞かれる「アカ狩り=非同調者捜し」があります。外していればいるで、「あの服装はださいよね」といった「品評会」もあり、社会学の良い研究対象になっています。
(ネクタイ外せば、クールビズ?)
「上着脱ぎ、ネクタイ外せば、クールビズ」と思っていたら、そうではなさそうだ。ということがわかったのが、この10日間の学習効果でしょうか。ふだん着ているシャツは、ネクタイを外しただけでは、かっこよくないのです。
みんな、あらためて、ネクタイの効用を認識しています。その1は、ネクタイをしていると、視線が顔でなく、ネクタイに注がれること。そして、「ぼやけた顔への注目が低くなる」ことです。ところが、ネクタイを外すと、視線はすべて顔に行ってしまいます。その2は、太ったお腹が、そのまま見えてしまうこと、です。これが、昨日、野田聖子議員と議論した結論です(笑い)。
ネクタイは、実用の面ではほとんど機能がない布きれです。それが、これだけ長期間、また世界中の男たちに採用されてきたのは、単なる慣習でなく、それだけの機能があるのですね。
(服装の思想)
ノーネクタイ運動が日本の社会を変えるということを、前回書きました。「個性を殺して回りに同調すること、自分で考えずに指示を待つこと。この二つに慣れた男たちに、革命を迫っているのです」と。10日の朝日新聞「三者三論、クールビズ定着するか」での、成実弘至助教授の主張も参考になります。
「ネクタイを外しただけでは、かっこよくない」となると、これからはどのような服装を選ぶか、各人の「服装に関する考え方」=「服装の思想」が問われることになります。「人は外見で評価してはいけない」という警句があるのは、しばしば、「人は外見で評価される」からです(拙著「明るい係長講座」)。
「紺のスーツにネクタイ」は、サラリーマンの制服であり、これを着ている分には安心でした。「スーツとネクタイ」という制服がなくなって、各自が服装を考えなければならなくなりました。そして、その服装は、周囲の人から評価されます。大げさに言えば、その人の「生き方」としてです。
夏向きの素材、値段という制約、TPOの制約のなかで、どれだけかっこよくできるか。社会に調和しつつ、個性を出すこと。とんでもない服装は、社会からの逸脱になります。ホテルなどには、入れてもらえないでしょう。ダサイ服装は、センスが疑われます。「たかが服」と、バカにはできないのです。奥さんたちのセンスも問われます。
夏服・クールビズ騒動
今、霞が関と永田町をにぎわしている最大の話題は、郵政民営化でも、財政再建でもありません。それは、男の夏の服装です(笑い)。しかし、この問題は、日本の政治と社会にとって、本当に大きな問題なのです。
事の起こりは、省エネのため環境大臣が、ノーネクタイ・ノー上着を提唱したことです。官房長官も同意してモデルをかってで、総理も「よいことだ」として、閣僚の申し合わせになりました。6月から9月の間、軽装で良いこととなりました。各省に、お達しがでました。一方、国会においても、衆参両院で少し違いがありますが、本会議以外はノーネクタイ・ノー上着を認めることとなりました。
あくまでも「軽装でも良い」なのですが、あたかも「軽装にしなければならない」かのように、受け止められています。ネクタイをしていると、「なぜしているんですか」と質問されるくらいです。官僚の間には、パニックに近い「衝撃」を与えています(笑い)。これは、日本の文化、官僚文化を知る良い事例です。論点はいくつかあります。
1 問題はノーネクタイ。着ていくシャツがない。
多くの官僚は、ノー上着に悩んでいるのではありません。執務室ではほとんどの人が、脱いでいます。外出時でも、手に持っていますし。問題は、ノーネクタイです。
簡単に言うと、白いワイシャツ、特に長袖の場合、ネクタイを外すとかっこわるいのです。半袖シャツの場合は、ノーネクタイでも、かっこわるくありません。カラーシャツなら、十分かっこいいです。
しかし、これまで上着を着るときは、半袖だと上着の袖に汗で腕がくっつくので、大概は長袖シャツを着ていました。
ノーネクタイに似合うシャツと上着を、持っていないのです。持っているのは、ゴルフシャツをはじめとするポロシャツです。ところが、これはスポーツウエア、くつろぐ服装であって、仕事服ではありません。また、内規で、「ポロシャツは認めない」となっています(私は、こんなことまで規定するのはおかしいと思いますが)。
ネクタイ無しでも、襟元がかっこよく見えるシャツが、売りに出されています。これが定着するには、もう少し時間がかかるでしょう。もっとも、多くのサラリーマンは持っていないので、これから買いそろえると、一時的な消費拡大にはなります。
2 何を着ていいか、わからない。
実は、多くの人は、シャツを持っていないことを悩んでいる以上に、何を選ぶかを悩んでいます。
これまでの服装、即ち、紺のスーツに白いワイシャツは、官僚の制服でした。悩まなくてよかったのです。これが20世紀の会社至上主義、中央集権の表れであることは、拙著「新地方自治入門」のp322、p57に書きました。
制服=言われたことを守る=自分で考えない=楽、です。これに対し、服装が自由=毎朝悩む=自分で考えなければならない=大変、です。「制服=指示と従属」に対し、「服装自由=自律」なのです。今回の騒動は、夏服が問題なのではなく、「制服廃止」が問題なのです。
3 社会のありかた
となると、ノーネクタイ運動は、日本の社会のありよう、官僚文化のありようを、変える可能性があります。個性を殺して回りに同調すること、自分で考えずに指示を待つこと。この二つに慣れた男たちに、革命を迫っているのです。かつての省エネ服は失敗に終わりましたが、今回のノーネクタイ運動が成功することを、私は期待しています。
①生活面
なんと言っても、亜熱帯の日本で、夏にネクタイと革靴は無理だと思います。「脱亜入欧」の象徴ですね。フィリピンやインドネシアのような、かっこいいのが定着すると良いですね。
②意識面
思考停止人間や過同調人間を、作らないようになる。ようやく、日本に自律した人間が育つのです。
③社会面
女性は既に、このようなことを経験しています。もちろん、個性を消してリクルートスーツの人もいますが。男だけが、「会社人間で自己満足している社会」を変えることにもつながるでしょう。
④文化面
しばらくは「とんでもない服装」も、出現するでしょう。しかしそのうち、収斂すると思います。それはデザインの面と、色のコーディネイトの面においてです。これは訓練するしかないのです。
4 政治の役割
そうすると、今回の内閣によるノーネクタイ運動は、日本の社会を変えることにつながるのです。「内閣が、個人の服装まで口を挟むのか」という疑問がありますが、これも大きな政治の仕事でしょう。
明治の初めに、時の政府が官僚の服装を、和服から洋服に変えました。今回の「閣僚申し合わせ」は、「第2の開国」になるかも知れません。すると、ノーネクタイ運動は、地方分権と同じ次元、同じベクトルにあります。個人(特に官僚)の自律と地域の自律です。私のように日本の社会と政治を考える者にとっては、今回の運動は、このように見えます。だから、ぜひ成功してほしいのです。
日本の社会
29日の朝日新聞連載「幸せ大国をめざして-未来を選ぶ」第9回は、「似たような景色ばかり、街から個性が消えた」を取り上げていました。拙著「新地方自治入門」では、「第6章地方行政がなすべきこと」の中で、地域の悩みとして取り上げました(p167~)