「政治の役割」カテゴリーアーカイブ

行政-政治の役割

不作為の失敗、ワクチン開発

6月1日の読売新聞連載「政治の現場 ワクチン」、「国産の開発「周回遅れ」」から。

・・・4月16日、東京・霞が関で開かれた会合。長机に感染予防のアクリル板が並ぶ会議室で、参考人として出席した東京大学医科学研究所教授(ワクチン科学)の石井健は、こう問いかけた。石井の問いに、厚生労働省の官僚など、参加者は黙ってうつむくだけだった。
「日本のワクチン開発は周回遅れだ。10年おきに同じ議論を繰り返す反省を、どう今後に生かすのか」
石井の問いに、厚生労働省の官僚など、参加者は黙ってうつむくだけだった。

政府は、これまでも国産ワクチン開発の提言を繰り返し受けてきた。2010年6月には「新型インフルエンザ対策総括会議」が、国家の安全保障の観点から、ワクチン製造業者への支援や開発の推進、生産体制の強化などを求めていた。
結びは、こんな一節だ。
「発生前の段階からの準備、とりわけ人員体制や予算の充実なくして、抜本的な改善は実現不可能だ。今回こそ、体制強化の実現を強く要望する」
こうした提言は、この間、顧みられてこなかった・・・

・・・1980年代まで、日本は世界に先駆けて水痘や百日ぜきなどに取り組むワクチン先進国だった。だが、効果より副反応の問題が目立ち始め、状況は変化した。
92年、予防接種の副反応をめぐる訴訟で国が賠償責任を問われると、94年の予防接種法改正で接種が国民の「義務」から「努力義務」へと変わった。国主導から個人の判断に委ねる形になり、接種率も下がっていく。国も製薬会社もワクチン開発に及び腰となり、研究開発の基盤は弱まっていった・・・

・・・だが、時の政権与党や厚労省は、ワクチン接種に慎重な日本人の国民性を強調するあまり、「国産ワクチンが出来ても、世界に先駆け日本が承認するのは難しい」「海外で使用後の方が、安全性を見極められる」と開発に後ろ向きだった。
まさに、政官の不作為が露呈したと言える・・・

コロナ対応に見る日本政治の問題

5月31日の日経新聞、芹川洋一・論説フェローの「なぜコロナに敗れたのか」から。

・・・思えば日本という国家の劣化をあらわしているのではないのだろうか。1945年の敗戦、90年代の経済敗戦、そしてこんどが3度目のコロナ敗戦だ。
第一の「緩い」のは制度である。法体系がそうなっている。欧州型は厳しい人権の制約がある。同時に厳しい統制もある。日本は個人への規制も行政への統制も緩やかだ。
憲法には私権を制限する緊急事態条項がない。改正後のコロナ対策の特別措置法も強い罰則はない。個人をしばるのは空気という無言の同調圧力である。法律しばりではなく世間しばりだ。
個人の権利を優先する考え方の背景には、政府が個人情報を管理することへの強いアレルギーがある。国家に対する抜きがたい不信感によるものだ。それが行政のデジタル化をおしとどめている要因でもある。
行政の対応も緩い。ワクチン接種予約の受け付けでも差をつければよいものを、それはしない。平等にやろうとして電話回線がパンクして、混乱を助長する・・・

・・・第二の「ばらばら」は運用の問題だ。90年代からの政治改革と省庁再編・内閣機能の強化をつうじて、政府と自民党による二元体制をあらため、首相官邸に権力を集中するかたちを整えた。しかしコロナの対応では、やはりうまく回らない・・・
一義的には厚労省の対応のまずさによるものだが、官邸が全体と流れをつかんでチームとしてまとまって手を打つことができないでいる。
国と地方の関係もギクシャクしどおしだ。とくに国と東京都の意思疎通の悪さは目をおおわんばかりである。
割拠主義はある意味で、どこの組織にもある話だが、それを乗りこえて権力を一元化し、統一的な運用をめざす政治の運びが道半ばだということを今回、いやというほど思い知らされた・・・

・・・第三の「呑気」は人の問題だ。政治家の危機意識の欠如である。特措法の改正などにしても国会がなかなか動かなかった。安倍内閣で安保法制をまとめ防衛上の危機への備えは一応進めたものの、感染症にはまったく備えがなかった。
準備がないから対応はどうしても場当たり的になる。最悪の状態を想定しそこから危機をいかに最小化し管理していくかに失敗する・・・

対話の必要性

対話の技法」の続きです。納富信留教授は、次のようにも発言しておられます。

・・・変化の激しい現代は、権威主義体制の方が素早い決断ができるので、民主主義体制の側が負けてしまうとの危機感があります。「1時間議論して得られた決定と10時間議論して得られた決定が同じなら、1時間で決まった方が効率的じゃないか」という、時間と効率の発想があります。しかし、これはまずいんじゃないか。
皆が意見を出し合い、一緒に考えることは、仮に自分とは反対の意見が最後に通ったとしても、自分も一員として参加したという意識を生みます。その決定について「自分に責任がある」という自覚をもたらします。これは、少数者の勝手な決断によって皆が納得できずに不満がたまり、かえって後始末が大変になるより、長期的には効率的ではないでしょうか。
格差問題を考え、社会的弱者を救済するといった議論でも、専門家任せにするのではなく、皆が参加することが、社会を大きく変える力になります。皆を巻き込んで議論すること自体、共感や「気づき」を生む。それが弱者にとって励みになることもあります・・・

大震災後の町の移転復旧の際にも、これを考えました。「政府が、移転先を決めれば、早くてよい案ができる」との意見がありました。しかしそれでは、住民が満足しないでしょう。全員の意見が一致する移転案は難しいです。そして、他人から与えられた案だと、文句だけを言っておればすむのです。それは、民主主義の思想に反します。

対話の技法

5月30日の読売新聞、納富信留・東大教授の「なぜ言葉を交わすのか 対話 生き方に関わる技法」から。
・・・人と人とが自由に言葉を交わし、意見をぶつけ合い、相互理解を図ることは、民主主義社会の根幹をなす。コロナ禍にありながらも、ツイッターなどのSNSやオンライン会議の普及は、人々が言葉を交わすのを容易にしている。だが現代の日本で、本当に対話といえるものは、どれほど成立しているだろうか。一見、対話しているようで、実際は対話になっていないケースも少なくないのではないか・・・

・・・対話が大切であると、よく言われます。政治の場でも教育現場でも市民社会の集会でも、しばしば強調されます。現代は誰もが自由に発言できて、対話のしやすい時代になったように見えます。けれども、いま増えているのは、むしろ「対話嫌い」「言論嫌い」ではないでしょうか。
対話をすれば問題がすべて解決するとは限りません。また対話が成立するには、心構えが必要になる。なのに準備や技法を持たないまま、対話をしようと掛け声ばかりかけられるので、結局うまくいかない。かえって「対話しても仕方ない」という風潮が生まれているように思います・・・

・・・では、対話が成り立つには、何が必要になるでしょうか。
まず、対話者が特定の少数者であること。通信ネットワークの広がりで不特定多数ないし匿名の相手に向かって話す文化が広がっていますが、これは本来の対話ではないと私は考えます。語る相手が一人の人間、人格として扱われないからです。ソクラテスは「魂に配慮する」、魂と魂が向き合うのが対話であると考えています。
次に、対話者同士は対等でなければなりません。人が言葉を交わす時は、親と子、上司と部下、先生と生徒というように、立場やステータスに基づいて行われることが多い。そうすると力関係が入り込んでしまい、対話というよりも説教や指示になりがちです。言葉遣いも攻撃的になったり忖度そんたくや迎合になったりする。そうではなく、立場を超えた「私」というものがあり、裸の人間同士として向き合い、「相互に」言葉を交わすということが求められるのです。
もう一つ必要なのは、共通のテーマを立てるということ。共通の主題を掲げて、お互いに考えていることをぶつけ合う。それが対話の基本です。そこでは、必ずしも問題の解決が図られるわけではない。同じ問題に対話者がともに向き合うというのかな。そういう場が重要なのではないか・・・
この項続く

学校での政治教育

5月29日の朝日新聞読書欄、阿古智子さんによる「教室における政治的中立性」について。
・・・ 対立や問題からこそ、学びが生まれる。より多くのことを知り、理解できるようになるというのに。
人々が均質的な共同体に移行し、政治的対立に反対する傾向は、アメリカでも顕著だという。分裂した社会では、政治が二極化しやすく、重大な問題への解決策を生み出せなくなる。
著者は社会に「適合する」ことを示唆する「公民教育」と学校の外の政治的世界に真っ向から取り組む「民主主義教育」を区別し、横断的な学びを模索する。
イデオロギーが「左」または「右」に傾く学校でも、生徒たちは多くの問題への態度を決めきれず、そこに論争的な問題の議論の余地を見いだしていた。日本の多くの学校現場では、政治的中立性維持のため、教師は意見を伝えるべきでないとされるが、本書は、教師の意見表明が生徒の学びに及ぼす影響や効果を実証的に明らかにした・・・

・・・生徒全員が同性婚の合法化に反対というキリスト教の高校の教師は、卒業後の世俗的な環境(大学など)に向けて、生徒が自分で考える力を育てようとした。重要な問題を、他人任せにしてはならないからだ。
学校が論争的な政治問題を教えることをためらうならば、民主主義の担い手が育たない。公共の課題に対する熟議が進まないことは言うまでもない・・・

政治をできあがった制度として教えるだけでは、民主主義を教えることはできません。「無菌培養」で育てた生徒を、「細菌」がいっぱいある社会に放り出すことは、罪です。「細菌」には、善玉菌も悪玉菌も、無害なものもあります。しかも、その「細菌」は避けることはできない、いえ避けずに参加して、判断しなければならないのです。