カテゴリー別アーカイブ: 政治の役割

行政-政治の役割

出口を考える総理と政治家

朝日新聞ウエッブニュース、アナザーノート、「麻生太郎が頼ったあの男 コロナ対策と出口戦略」(7月4日掲載)

・・・13年前の12月、麻生政権を党側から支えていた園田さんの地元に、麻生首相が足を運びました。現職首相として、極めて異例の訪問です。市内のホテルで予定の日程をこなす合間、麻生首相は一室に園田さんを招き入れます。そそくさと後を追おうとする秘書官を追い払い、政治家同士だけの場を作る首相。私はその瞬間を目撃し、一体何が起きているのだろうと思いました。

のちに園田さん本人から聞いてわかったのですが、ここで麻生首相は、雇用対策を含む緊急経済対策をとりまとめるよう指示したのです。リーマン直後に首相の座に就いた麻生さんにとって、この経済対策の成否は政権の命運を左右しかねないものでした。
ただ、園田さんは党幹部とはいえ、いわゆる三役の一人である政調会長ではありません。格下の部下の地元までわざわざ行って指示を出す。そんな麻生首相の熱意に奮起した園田さんは早速、盟友の与謝野馨経済財政相(のち財務相も兼務)と連携し、「タマ込め」を始めます。そして翌年、巨額の新規国債発行を含む大型補正などの経済対策へとつながりました・・・

・・・実は麻生、園田コンビの政策づくりの話は、これだけで終わりませんでした。この年の12月、もうひとつ山場がありました。社会保障政策の財源をめぐる自民党と公明党のつばぜり合いです。当時、社会保障と税財政改革の全体像を示す「中期プログラム」の閣議決定を、政府・与党はめざしていました。少子高齢化が進んで社会保障政策にかかる経費は増大し、財源をどうするかは今も頭の痛い問題です。
麻生内閣は中期プログラムで、消費税を含む税制の抜本改革を11年度から実施できるよう取り組むと明記。衆院議員の任期が1年を切るなか、消費増税時期を明記するのに難色を示した公明を、麻生首相の意向で押し切り、「増税感」を強くにじませました。これは公明との交渉の前面に立った園田さんが、着地点を探った結果でもありました。
私は当時、園田さんに尋ねました。「リーマン・ショックで財政出動が必要なのに、増税の道筋も示したらブレーキを踏むことになりませんか」。園田さんはこう答えました。「馬鹿だなあ。出口を考えるのが政治ってもんだ」・・・

ぜひ原文を全てお読みください。ところで、ここに出てくる秘書官は、私でしょうね。

大きな政府、小さな政府

6月26日の日経新聞コラム「大機小機」は「大きな政府 日本の事情」でした。

・・・1980年ごろから続く「小さな政府」への世界の流れは、大きな転換点を迎えつつある。新型コロナウイルス禍を機に政府の役割は飛躍的に高まった。バイデン米政権は米国救済計画に加え、雇用計画、家族計画といった大型財政政策を立て続けに打ち出して「大きな政府」へと明確にかじを切っている。
欧州はもともと日米に比べ「大きな政府」だったが、英国の欧州連合(EU)離脱でその色彩を一段と明確にした。政府は今後、気候変動対策を軸に経済社会への関与をさらに強めていくだろう。

それでは日本も「大きな政府」に向かうのかと考えてみると、事情はかなり違いそうである。その根本には、国民の政府実態への認識の問題がある。財政赤字の大きさから日本政府は大きすぎると思っている人も少なくないようだが、実態は全く異なる。
公務員の数は国際比較でみて圧倒的に少ない。財政支出の国内総生産(GDP)比が極端に低いとはいえないが、世界に冠たる高齢社会で社会保障支出が多いからにすぎない。これを除けば、日本は極めて「小さな政府」だ。新型コロナウイルス禍への対応の失敗にも、デジタル化の遅れといった要素はあるが、自治体や保健所などの人員や権限の不足に起因するところが少なくなかった・・・

・・・それでも消費税増税への反発の強さなどを考えれば、国民の間に政府の役割強化への合意が存在するとは思えない。日本が「大きな政府」に向かうとすれば、それは財政規律喪失の結果である可能性が高い。超低金利に安住して巨額の予備費が設けられるなど、財政規律は一段と緩んでいるように思われるからだ・・・

ここには、いくつかの論点があります。一つは、歳出は大きな政府なのに、負担は小さな政府だと言うことです。その差は、借金で子孫に負担を先送りしています。もう一つは、福祉など政策経費と、人件費などの業務費のどれをもって、大きさを比べるかです。
「小さな政府」という言葉は、有権者に向かっては、心地よい宣伝文句でしょう。その内実を検証せずに、宣伝文句を繰り返しているようです。

作為の失敗、不作為の失敗2

作為の失敗、不作為の失敗」の続きです。
不作為の失敗の一つに、改革の遅れがあります。環境が変化しているときに、それへの対応に失敗するするのです。改革が必要なのに、それを先送りするのです。
「茹で蛙」(ゆでガエル)といわれるように、徐々に起きる変化は気がつきにくく、対応に失敗することが多いようです。

バブル経済崩壊後の日本の改革の遅れは、これに該当するでしょう。いくつもの行政改革が行われましたが、まだまだ十分ではありません。
また、政府予算も地方財政も、毎年大きな赤字を積み重ねています。歴史的にも諸外国比較でも、突出しています。しかし、歳出はいろいろな理由でふくれあがり、他方で消費税をはじめ税負担は先進国では最低水準です。後世に子や孫からは、恨まれるでしょうね。

日本企業も、技術の進歩や国際競争の激化に対応できず、地位を落としています。電機メーカーが代表でしょう。
責任者たちは「私は間違ったことはしていない」と弁明するでしょうが、従来の路線を続け、転換しなかったことが間違いだったのです。しなかったことの失敗です。しかしその時点では間違いは目立たず、後になってからツケが回ってきます。
「だれも悪くなかったのに、組織は衰退した」です。企業なら業績が悪化し、倒産するのでしょう。国家の場合は、子孫にその負担が回ります。

成功した組織ほど、改革は難しいです。それまでの成功を捨てなければなりません。そして組織の長や責任者たちは、旧来の組織の中で出世してきた人たちです。旧来型の発想が身についた、旧来のエリートなのです。

当事者は大局的に物事を見ることができなくなり、部外者の方がその状況をよくわかることもあります。岡目八目です。
政治家や官僚の評価は、10年か20年後にわかるのでしょう。後世の人から「なぜあの時やらなかったのですか」と問われた時に、明確な説明ができるように心がける必要があります。「気がつかなかった」も「仕方なかったんだよ」という言い訳は、無責任です。「そのときの勢いで(進んだ。止めなかった)」とは、責任者の言う言葉ではありません。

作為の失敗、不作為の失敗

「失われた20年」といわれるような、日本の失敗について考えています。特に、やらなかったことの失敗です。

失敗には、2種類あるようです。やったことの失敗「作為の失敗」と、やらなかったことの失敗「不作為の失敗」とです。
やったことの失敗は目に見えますが、やらなかったことの失敗はわかりにくいです。必要なことをせず、やっておかなかったことが、後に悪い結果をもたらすのです。その時点ではわからず、時間が経ってからわかります。「なぜ、あの時にやっておかなかったんだ」とです。

例えば、東京電力福島第一原発の津波対策です。また、今回の新型コロナウイルス感染症についても、日本のワクチン開発能力の低下が指摘されています。かつては「ワクチン先進国」でした。副作用が問題になり、接種に消極的になって、開発も力を入れなくなったとのことです。「行政の決断と責任

やらなかったことの失敗の一つに、中止しなかった失敗があります。例えば、山登りで悪天候になったり道に迷ったりして、遭難する場合です。引き返す判断をしなかった失敗です。

太平洋戦争はやったことの失敗ですが、やらなかったことの失敗とも見ることができます。動き出した事態で「このままだと失敗するな」と思っていながら止めないことは、不作為です。太平洋戦争に突入した際の日本軍幹部と日本政府幹部が、これに当たるでしょう。
「戦争できますか?」と聞かれれば、軍人は「できません」とは言えません。山本五十六・連合艦隊司令長官が「是非やれと言われれば半年や1年は随分暴れて御覧に入れる。2年3年となれば全く確信がない」と答えた話は有名です。
これは冷静に解釈すれば、「負けます」ということです。陸軍も海軍も「見えていた人」は、止めてほしかったのでしょうね。
この項続く

宇野重規教授「民主主義の危機」

6月17日の朝日新聞オピニオン欄、宇野重規・東大教授のインタビュー「民主主義を信じる?」から。
・・・民主主義の危機があちこちで語られている。ポピュリズムの広がり、日本政治の現状、権威主義体制の台頭、巨大プラットフォーム企業の影響の高まり……。背景に様々な動きがある中、政治学者の宇野重規さんに聞いた。危機の本質は何ですか? 本当に危機なのですか? そして、民主主義を信じられますか?・・・

――昨年10月、日本学術会議の会員に推薦されたのに菅義偉首相から任命を拒否されました・・・学問の自由、日本学術会議法の問題として批判されました。民主主義とつながりますか。
「政権が判断の理由を一切説明しなかったことが問題だと考えました。各人が自分の判断や意見の理由を説明するのは、民主主義が機能するための基本的な条件だからです。私個人の任命拒否が妥当かどうかとは別問題です」
「なぜそう考えるか。どんな判断・意見であっても、まずはその理由が示されることで、議論が始まります。今回の問題であれば、政権が理由を明らかにして初めて、世論の側から疑問や批判も生まれる。政権側もさらに応答していく。こうした意見の応酬こそが、民主主義の基盤なのです」
「民主主義は短期的には誤った結論を導き出すこともあります。ただ、多様な意見が示され続ける社会であれば、振り子のように修正がきく。一方今回のように『理由の提示』がない状況では、健全な論争ではなく、臆測と忖度が誘発される。結果的に、言論や学問の自由も損なわれてしまいます」

――ポピュリズムや権威主義体制の台頭も「危機」と言われます。警鐘を鳴らすのは重要ですが、常に「危機だ」と言われると釈然としない部分があります。
「『オオカミ少年』のように見えてしまうということですよね。ただ、私はいま『これまでの危機』とは違う局面にあると考えています。民主主義の基本的な理念の部分が脅かされているのです」
「私たち自身の中に、『平等な個人による参加と責任のシステム』自体を否定する感情が生まれつつある。自分たちが意見を言おうが言うまいが、議論をしようがしなかろうが、答えは決まっている。ならば誰か他の人が決めてくれればそれでいい――そういう諦めの感覚に支配されること。これこそが民主主義の最大の敵であり、脅威だと思います」