「官僚論」カテゴリーアーカイブ

行政-官僚論

黒江・元防衛次官の回顧談6

「黒江・元防衛次官の回顧談5」の続きです。失敗だらけの役人人生、追補9は「信念岩をも通す(下)有事法制と平和安全法制」です。内容は本文を読んでいただくとして。政治主導と官僚の役割の実例が語られています。

基本的な政策で国内に意見対立がある、しかし差し迫った必要性がある、これまでの政策の方向を変える。このような場合には、官僚では結論を出すことはできません。準備をしつつも、政府与党で方針を決める必要があります。そして方向が定まったら、それに従い官僚が法案を用意し、与党の了解を得る。

さて、非常に興味深く勉強になった黒江・元防衛次官の回顧談。今回で終わりのようです。官僚の役割としても、重要な記録です。この連載が本になること、そしてまた続きが書かれることを期待しています。

・・・たまたま今年は、私が防衛庁に勤め始めてからちょうど40年の節目に当たるのですが、この間に我が国を取り巻く安全保障環境が大きく変化してきたことは追補版で紹介した通りです。特に昨今は、従来のようなOn o∬がはっきりした活動ではなく、誤解を恐れずに言えば「常在戦場」的な活動が要求されているように思います。これは、例えば尖閣諸島をめぐってグレーゾーン状態が常態化していることや防衛省のHPや各種システムが日常的にサイバー攻撃の脅威にさらされていることからも明らかです。「平素は部隊の練成に努め、一朝事ある時に即応する」という考え方ではもう情勢に対応出来ないのではないかと感じます。このような難しい状況に対応するためには、常に情報収集・分析を怠らず、政策決定権者と状況認識を共有し、適切なタイミングで選択肢を提供し、必要な命令を即座に得ることが必要不可欠です。不断の改善は必須だとしても、これらの業務に必要な制度や組織などの基本的なインフラは既に整備されています。これかりま、こうしたインフラを最大限に活用して日々の事態に対応して行くことが求められているのです。運用部門での仕事について紹介した際に「結果を出す」ことの重要性を強調しましたが、今はさらに「スピーディに」結果を出さなければなりません。若い皆さんがこなさねばならない仕事は、私の現役時代よりもはるかに複雑で難しくなっていますが、結果を恐れずにスピード感をもつて取り組んで頂くことを切に祈念します・・・

黒江・元防衛次官の回顧談5

黒江・元防衛次官の回顧談4」の続きです。
失敗だらけの役人人生、追補7は「信念岩をも通す(上) 情報本部の設立」、追補8は「信念岩をも通す(中) 防衛庁の省移行」です。

それぞれ、大きな組織改革についてです。役人だけではできない改革を、与党や官邸を巻き込んでどのように実現していくか。
部外者にはわからない、実態の一端を知ることができます。これも、貴重な証言です。

黒江・元防衛次官の回顧談4

黒江・元防衛次官の回顧談3」の続きです。
失敗だらけの役人人生(追補5)」「失敗だらけの役人人生(追補6)」は、平成以降のわが国を取り巻く国際安全保障環境の変化と、国内の政治経済状況が極めて流動化したことを、体験として書いています。それまでの通念、常識が通用しなくなったのです。

北朝鮮工作船との銃撃戦、北朝鮮のミサイル発射、中国の挑発、自衛隊のイラク派遣撤退といった事案への対処とともに、総理官邸、安全保障・危機管理室の様子、イラク現場の緊張感が書かれています。
日本の安全保障環境と防衛省の仕事が、急速に変化したことがよくわかります。また、政府内部でどのように対応されているかも。これらも余り活字になっていません。貴重な証言です。

黒江・元防衛次官の回顧談3

黒江・元防衛次官の回顧談2」の続きです。「失敗だらけの役人人生(追補4)」(7月13日)は、「911米国同時多発テロとその後の対応」です。
当時の衝撃を読んでください。
今回、紹介したいのは、その本論のほかに、官邸連絡室についてです。3ページ目から出てきます。

小泉内閣になって、総理秘書官を出していない5つの省から、課長級の職員が秘書官を補佐する役割で常駐することになりました。
総理秘書官の実態も語られること、書かれることが少ないですが、この官邸連絡室の実態も語られることは少ないです。もちろん、秘書官たちは黒子に徹することを義務づけられていますが、どのような実態にあるのかはもう少し書かれても良いと思います。
官邸内や内閣官房についても研究書が少ないのですが、これもその一つです。

代替案を考える、考えない

7月13日の朝日新聞オピニオン欄「プランBが見えない」から

兪炳匡さん(神奈川県立保健福祉大学教授)の発言「失敗想定せず閉鎖的ゆえ」
・・・日本の官僚や政治家には、そもそも政策が失敗しうるという前提がないから「プランB」がないのです。法案を作る、法律を実施する、事後評価するという三つの段階は、民主国家ではそれぞれ別の組織が行います。しかし、官僚は単独でこの「3役」を事実上、担っています。このシステムでは、失敗が存在しえないのです。科学的なエビデンスによって失敗を発見・修正する需要も生まれません。

これに対して欧米社会では「人間のすることだから必ず失敗を起こす」と考えます。失敗、とりわけ最悪の事態を予想して、それを予防・回避するようなシステムの策定に知性の大部分を使います。
常に失敗を想定し、プランBを起動できるようにしておくことが重要ですが、日本ではそれを無駄とみなす傾向があります。プランBの策定を却下するという知的怠慢を正当化する理由も、不透明なものが多い。戦前なら「天皇が却下したから」、戦後なら「米国が却下したから」が典型です。無批判にそれを信じる国民にも問題があります・・・

ヤマザキマリさん(漫画家・随筆家)の発言「私たちはイワシの群れか」
・・・東京五輪をパンデミック(世界的大流行)の中でもやらなければならない具体的な理由を知りたいし、説明の内容次第では「仕方がないか」と納得がいくかもしれない。ただただ「うまくやりますから」では、バカにされているような気がするだけです。
疫病が蔓延している最中に人間が一斉に集まるなんて、古代の人ですら誰もしていませんよ。イワシの群れみたいに一斉に一緒に動いて、そのうち何匹かは食われてしまうけど、それでも大半が生き残るからいいでしょう、という感覚なのでしょうか。
為政者が簡単に統括できるのは、人があまり深く物事を考えない社会です。様々な意見を生み出す知性や教養は邪魔になります。長いものには巻かれてしまう社会的傾向には抗えないにせよ、その状態を離れた位置から俯瞰できるようになるべきではないか。世間体に従わなければいけない状況でも、違和感は持つべきです。それが日本人がこれから進むべき次の段階ではないかと感じています。
「場合によっては五輪ができない場合もある」と最初から頭の片隅で思っているべきなんです。災害が起きた時もプランBやプランCを持つ人の方が冷静です・・・

・・・イタリア人は人の話も聞かず、列をつくれば横入りするような人たちが少なくありませんが、最初のロックダウン(都市封鎖)の時は、なぜか一斉に規律を守りました。いざという時にどうすべきか、自分で考える訓練ができていた結果だと思います。
理想の形は、オーケストラのようなイメージです。それぞれの楽器でソリストとして素晴らしい音楽を演奏することもできるけれど、そんな彼らの特性をよく理解した指揮者にあたれば、統括した時に素晴らしい交響楽になる。
それこそがアリやイワシとはまた違う、人間という精神性を持った生き物にふさわしい群衆社会のあり方なのではないかと。難しそうですが、お互いの異質性を認めつつも共存できるのが理想的な人間社会ではないかと思います・・・