代替案を考える、考えない

7月13日の朝日新聞オピニオン欄「プランBが見えない」から

兪炳匡さん(神奈川県立保健福祉大学教授)の発言「失敗想定せず閉鎖的ゆえ」
・・・日本の官僚や政治家には、そもそも政策が失敗しうるという前提がないから「プランB」がないのです。法案を作る、法律を実施する、事後評価するという三つの段階は、民主国家ではそれぞれ別の組織が行います。しかし、官僚は単独でこの「3役」を事実上、担っています。このシステムでは、失敗が存在しえないのです。科学的なエビデンスによって失敗を発見・修正する需要も生まれません。

これに対して欧米社会では「人間のすることだから必ず失敗を起こす」と考えます。失敗、とりわけ最悪の事態を予想して、それを予防・回避するようなシステムの策定に知性の大部分を使います。
常に失敗を想定し、プランBを起動できるようにしておくことが重要ですが、日本ではそれを無駄とみなす傾向があります。プランBの策定を却下するという知的怠慢を正当化する理由も、不透明なものが多い。戦前なら「天皇が却下したから」、戦後なら「米国が却下したから」が典型です。無批判にそれを信じる国民にも問題があります・・・

ヤマザキマリさん(漫画家・随筆家)の発言「私たちはイワシの群れか」
・・・東京五輪をパンデミック(世界的大流行)の中でもやらなければならない具体的な理由を知りたいし、説明の内容次第では「仕方がないか」と納得がいくかもしれない。ただただ「うまくやりますから」では、バカにされているような気がするだけです。
疫病が蔓延している最中に人間が一斉に集まるなんて、古代の人ですら誰もしていませんよ。イワシの群れみたいに一斉に一緒に動いて、そのうち何匹かは食われてしまうけど、それでも大半が生き残るからいいでしょう、という感覚なのでしょうか。
為政者が簡単に統括できるのは、人があまり深く物事を考えない社会です。様々な意見を生み出す知性や教養は邪魔になります。長いものには巻かれてしまう社会的傾向には抗えないにせよ、その状態を離れた位置から俯瞰できるようになるべきではないか。世間体に従わなければいけない状況でも、違和感は持つべきです。それが日本人がこれから進むべき次の段階ではないかと感じています。
「場合によっては五輪ができない場合もある」と最初から頭の片隅で思っているべきなんです。災害が起きた時もプランBやプランCを持つ人の方が冷静です・・・

・・・イタリア人は人の話も聞かず、列をつくれば横入りするような人たちが少なくありませんが、最初のロックダウン(都市封鎖)の時は、なぜか一斉に規律を守りました。いざという時にどうすべきか、自分で考える訓練ができていた結果だと思います。
理想の形は、オーケストラのようなイメージです。それぞれの楽器でソリストとして素晴らしい音楽を演奏することもできるけれど、そんな彼らの特性をよく理解した指揮者にあたれば、統括した時に素晴らしい交響楽になる。
それこそがアリやイワシとはまた違う、人間という精神性を持った生き物にふさわしい群衆社会のあり方なのではないかと。難しそうですが、お互いの異質性を認めつつも共存できるのが理想的な人間社会ではないかと思います・・・