「私の読んだ本」カテゴリーアーカイブ

「私の読んだ本」という表題ですが、いま書いているのは蔵書の整理です。本の内容については、手が及んでいません。

(蔵書の引っ越し)
2006年春に、実家から蔵書を引き取りました。その顛末記です。なお、進行中。

講談社学術文庫、オンデマンド

最近は、文庫本や新書版しか読まないと書きました。「アンリ・ピレンヌ著『中世都市』
新書は新しい動きを見る際に、役立ちます。先日紹介した「サイバーセキュリティ」はそうです。
他方で、講談社学術文庫ちくま学芸文庫は、専門的な本、古典や古典になるであろう本を手軽に読むことができて、ありがたいです。専門家は、原著に当たるのでしょうか、素人が入門するには、そして知的好奇心を満たすには、文庫本は重宝します。

2月4日の日経新聞夕刊が「1冊から注文OK PODで絶版学術書も手軽に再刊」を伝えていました。講談社学術文庫のオンデマンド出版が紹介されています。これは、ありがたいですね。

希少価値と過剰と、書物の変化2

希少価値と過剰と、書物の変化」の続きです。図書館に行けば読むことができる本を、手元に置いておく。しかも、高い代金を払って購入します。なぜか。

「読みたいときにすぐに読むことができるように、手元に置いておきたい」というのが一つの理由でしょう。「読んだ本を並べておきたい」という理由もあります。
でも、私のように、たくさん買ったけど山積みになっている状態では、お目当ての本をすぐに探し出すことは不可能です。大きな書庫を持っている人は別ですが。そのたくさんの本を、いつか読むことも不可能でしょう。

本が希少価値だった時代は、蔵書とは高級な趣味でした。
しかし、私の場合は、稀覯本とか高価な本を持っているわけではありません。アマゾンで発注すれば、買えるような本ばかりです。
女性がたくさんの着物を、あるいは余裕のある男性がスーツをため込むのと同じですかね。一生かかっても、袖を通すことは不可能。「タンスの肥やし」と呼ばれるものです。

機能だけを考えれば、すぐに探し出せない蔵書は意味がありません。読んだ本と読みたい本の書名を分野別に分類して、パソコンに記録しておく方が使い勝手がよいでしょう。
そして、本の実物は持たず、アマゾンにリンクを張っておけば、目次や概要はわかります。注文すれば、1週間も経たずに届きます。しかも世界中からです。手元に置くのは、必要最小限にするのです。
もっとも、昭和の人間、紙で育った私は、なかなかそうは踏み切れません。
肝冷斎も、読み切れないほどの、冥土に持って行けないほどの漢籍をため込んでいるようです。

これからは、読書ノートも、パソコンを使って、機能的に記録できるのでしょうね。
私も、パソコンとホームページがあるから、読んだ本の感想文を書き残しています。これが、紙のノートにペンだと、記録しても二度と読まないので、書くこともなかったでしょう。10年ほど前までは、読書ノートはつけていませんでしたから。

希少価値と過剰と、書物の変化

新聞の読書欄には、興味深い本が紹介されています。本屋に行くと、これまた面白そうな本が並んでいます。ついつい買ってしまいます。
しかし、1週間に読むことのできる量は限られていて、読まない本がたまっていきます。どうもいけません。
読むことのできる量だけ本を買えば、こんなことにはならないのです。でも、思ったときに買っておかないと、次いつ巡り会うかわからないし。何かの拍子に、読みたくなるのですよね。

子供の頃は、身近に本が無くて、それは貴重でした。弟と一緒に、学校や村の図書館の本を読みました。学生時代は読みたい本がたくさんあっても、財布と相談して、そんなにたくさんは買うことができませんでした。
社会人になって、そして給料が上がって、少々の値段なら悩まずに買うことができるようになりました。
他方で、出版される本の量が急増しました。新書版でも、岩波と中公と、講談社現代新書くらいだったのに。今や、数え切れないほどの出版社が新書版を出しています。

希少価値だった本が、有り余るようになって、消化しきれなくなりました。
最近は、考えを変えました。「買った本を、すべて読むことはあきらめよう」「こんな本もあるんだと、目次を見ただけでも満足しよう」「手元に置いておくことで満足することにしよう」とです。
辞書を全部読もうという人は、いません。何か知りたいときに、調べるためにあるのですから。それと同じと、割り切りますわ。目次を読めば良しとしましょう。
この項続く

減るより増える本

昨日、「本を捨て始めました」と書きました。しかし、話はそう簡単には、進みません(笑い)。
今月は休日も仕事などが入り、休みがありませんでした。23日に久しぶり休みが取れたので、紀伊國屋書店に散歩に行きました。「読まない本は買わないぞ」と決意しながらです。

そうはいきませんねえ。たくさん、興味深い本が並んでいました。
佐々木毅編著『民主政とポピュリズム』(2018年、筑摩選書)は、当代一流の政治・経済学者が、世界と日本の最近のポピュリズムを論じた本です。読まないわけには、いきません。
ホブスボーム著『20世紀の歴史 両極端の時代』(2018年、ちくま学芸文庫)が、文庫本になっていました。翻訳がでた際に、「読まなければ」と思いつつ、分厚いので買わないでいました。「文庫本なら、寝転がっても読めるなあ」と思い、買いました。とはいえ、上巻だけで560ページ、1700円の文庫本です。
その隣に、フィリップ・マティザック著『古代ローマ旅行ガイド』(2018年、ちくま学芸文庫)が、並んでいます。これも面白そうです。

新書では、玉木俊明著『ヨーロッパ 繁栄の19世紀史」 (2018年、ちくま新書) は、玉木先生の本はいつも切れ味鋭いので、逃すわけには生きません。牧野成一著『日本語を翻訳するということ』(2018年、中公新書)、久保田哲著『帝国議会』(2018年、中公新書)、長谷川宏著『幸福とは何か』(2018年、中公新書)、森本 公誠著『東大寺のなりたち』(2018年、岩波新書)、見田 宗介著『現代社会はどこに向かうか』 (2018年、岩波新書)など。読まずに(正確には買わずにおられない)本がたくさん並んでいます。

で、「これは、買っても、きっとたどり着かないだろうな」と思い、数冊は棚に返して、残りを買ってきました。
いま読みかけの本も、たくさんたまっています。先月、先々月に買った新書や文庫も、まだ読み終えていないのに、どうするの。他に気になっていた本を、アマゾンの中古で見つけて注文してあるし・・・。

今日も、つまらない漫談にお付き合いいただき、すみません。

本を捨てる、思い出を捨てる

少しずつ、本を捨てることを始めました。
書斎の本棚は、とっくの昔に満杯になっています。少しずつ床に積み上げたのが、山のようになっています。パソコンにたどり着くには、その山並みの間の、けもの道を歩くのです(笑い)。階段、寝室にも増殖中です。反省。

ほとんどの本は、もう二度と読むことはないとわかりつつ、なかなか捨てることができず。決断力のない男です。とはいえ、このままでは、日常生活に支障が出そうです。新しい本を買ってきても、置く場所もなく。
去年春に、近くのブックオフに98冊持って行きました(2017年5月9日)。しかし、改善は見られません。それどころか、ますます増殖します。

そこで、少しずつ職場に持って行って、職員に引き取ってもらっています。職員にとっては、迷惑な話かもしれません。でも、中に1冊でも「読もう」と思ってもらう本があれば。
「これは誰も読まないなあ」と思う本は、古紙回収日に出しています。まだ始めたばかりで、目に見える成果は出ていません。

本の山を崩したり、本棚から本を抜くと、「こんな本も読んだなあ」という本が発掘されます。あることすら忘れている本ですから、捨てても何の支障もありません。でも、なぜ捨てにくいか。
わかったことは、本という物ではなく、「読んだ本」「買った本」という思い出が捨てがたいのですね。