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行政-災害復興

被災地での手仕事

12月17日の朝日新聞第2東京面に、「被災地の手仕事、どう継続 復興支援の機運薄れ岐路」が載っていました。
・・・東日本大震災の被災地では、住まいや仕事場を失った人々が外からの支援を受けて手がける「手仕事」が生まれた。新たな名産として定着したものもあるが、時とともに「復興支援」の機運が薄れる中で同事業を続けていくか、支援者たちは模索している・・・

小物つくりや、刺繍、セーターの編み物などです。
当初は、仮設住宅で、することがない被災者が、集まって話をする、手を動かすために始まりました。心の支援という意味があったのです。
事業として黒字にならなかったものも多いようです。しかし、心の支援、孤立防止としては、大きな意味がありました。
漁業が復活して、手仕事をしていた人たちが本来の漁業に戻って、手仕事が終わったという例もあります。
事業として継続が困難な場合、どのように続けるかは、難しい問題です。

オリンピック聖火リレー

12月17日に、オリンピック聖火リレーの行程が発表されました。皆さんご存じの通りです。
出発点は、福島県のJヴィレッジです。日本サッカーのナショナルトレーニングセンターであり、大震災の際には、第1原発事故対応の前線基地となりました。芝生のグラウンドには鉄板がしかれ、駐車場になりました。その後、役割を終えて、トレーニング施設として再出発しています。
そして、第1日目は浜通り、原発の被災市町村を巡ります。被災地の復興を、全国の方に見てもらうことができます。

最初、「聖火が日本を回る、原発被災地も回るらしい」と聞いたとき、いろいろと考えました。どのコースを走るのか。これは、難しいです。
関係者に聞いたら、「トーチを持って走るのはその一部分であり、その間は車で運ぶ」と聞いて、問題の大半は解決しました。
「リオデジャネイロ・オリンピックでは、あの広いブラジル内を、飛行機で聖火を運んだ」と聞いて、納得。でなければ、走者をつないでも、人が1日で走ることができる距離って、そんなに長くありません。

新春の箱根駅伝でも、全速で走って、東京大手町から隣県の箱根までです。与えられた日数で、県内を、それどころか浜通りを巡ることは不可能です。福島県沿岸は、南北で約100キロメートルあります。また、沿道の人が楽しみにしている聖火が、全速で駆け抜けては困ります。

被災市町村で、それぞれ印象に残る場所が、選ばれています。地元の人たちとともに、聖火が走る日を、期待と共に待っています。あと、3か月です。

次の10年の復興基本方針

今日19日は、総理官邸で、復興推進会議を開きました。
「復興・創生期間後における東日本大震災からの復興の基本方針」を決定しました。発災から10年(1年3か月後)の、次の方針です。資料

津波被災地は、次の5年間で、残った復興事業を完成させます。心のケアなど5年以内に終了しないものは、その後の方針を改めて決めます。
私の考えでは、一般施策に移行し、必要な分を上乗せするのが良いと思います。毎年、大災害が起きています。東日本大震災だけが特別なのではなく、それらの災害での被災者も、同様の支援を行うべきです。被災者の多さの違いは、政府にとって対応の大きさが異なりますが、一人一人の被災者にとっては、関係ありません。

これまでの災害復旧政策は、地方自治体の公共施設災害復旧を念頭に置いていたので、自治体ごとの被害額によって、支援の程度を変えていました。東日本大震災から、公共施設の復旧より、被災者支援に力を入れるようになりました。すると、判断基準(物差し)が異なるのです。自治体支援なら被害額の大きさです。しかし、被災者にあっては、その人の被害の大きさが物差しです。このあたりは、関係法令の組み立てを見直す必要があります。

原子力被災地は、復興はまだこれからです。当面、次の10年間、復興を進めます。そして、5年後に状況を見て、事業の見直しを行います。
これまでに、避難指示解除ができるところは、ほぼ解除できました。帰還困難区域の一部に、復興拠点をつくっています。5年後には、違った状況になっているはずです。
復興庁も、存続することになりました。

官邸の会議室で、議事の進行を見ながら、「ここまで来たな」と感慨にふけっていました。出席者のうち、たぶん私だけが、発災以来一貫してこの仕事に携わりました。他に「伴走者」がいたら、一緒に振り返りをしたのですが。
これについては、別途書きましょう。何が、予想通りだったか、何が、予想通りでなかったかです。

宮城県被災地視察、その2

宮城県被災地視察」の続きです。追悼記念施設も、各地でできつつあります。
石巻市の南浜津波復興祈念公園は、中心となる建物が建ち上がりました。まだ、完成までには時間がかかります。写真で赤線で囲った地域全体が公園です。ここに町があったのです。危険なので、住宅の建築を禁止し、公園にします。

気仙沼市の東日本大震災遺構・伝承館は、被災した高校の建物を保存したものです。
当日、生徒たちは高台に避難し、それも指定場所では危ないと考えて、2キロ内陸まで逃げました。残っていた先生たちは、屋上のさらに塔に上って助かりました。
校舎に入ることができます。窓や天井は津波によって破壊され、机などが流され、代わりによその家の部材が入っています。3階に、津波で流されてきた自動車が残っています。
市民から提供された津波の映像は、迫力があります。13分間なのですが、見終わると30分くらい経ったような気がします。
当時を知っている人も、だんだん記憶が薄れているでしょう。また、若い人たちには、知らない人も増えてきます。ぜひ、ご覧ください。

宮城県被災地視察

9日、10日と、宮城県の被災地を視察してきました。毎年行っています。岩手県は10月に行ったのですが、宮城県は秋の台風災害もあり、この時期になりました。
今回は、東松島市、石巻市、女川町、南三陸町、気仙沼市を見てきました。首長さんたちは、12月議会の最中ですが、忙しい中、説明をしてくださいました。旧知の方々です。皆さん、苦労しておられるのですが、街の復興が完成に近づき、円満な表情です。

住宅の復興はほぼ完成に近づき、仮設住宅に入っている人は少なくなりました。この人たちも、住宅の完成を待っておられるので、来年度中には移ってもらいます。
ほとんどの町で、市街地の復興土木工事は終わっています。もう少し残っている町もあります。あと1年あまりで、街の復興は完成する予定です。しかし、地元調整が長引いた場所での防潮堤を含んだ工事などは、もう少しかかるところもあるようです。

また、市街地ではないのですが、集団移転した元地の活用が残っているところがあります。各町とも、住民の住宅や市街地の復興を優先したので、それら以外は後回しにしたのです。さらに、集団移転した元地は、そもそも住宅を建てることができない場所です。活用には、制約があります。
それぞれの町で工夫を凝らして、活用しています。産業団地、公園、パークゴルフ場などなど。

首長さんたちに、課題や悩みを聞くと、残った工事の完成、戻らない産業の復旧、そして人口減少を上げられます。工事はこのまま進めば、あと2年で完成するでしょう。
産業は、いくつかの課題があります。まず、魚が捕れないことです。この地域の主たる産業は漁業です。ところが、サンマや鮭が捕れないのです。これは、短期的には手の打ちようがありません。
人口減少は、止まりません。少子高齢化で、生まれる数より亡くなる人の数の方が、はるかに多いのです。被災地だけの問題ではありません。日本の多くの地方で進んでいる現実です。この項続く