カテゴリー別アーカイブ: 災害復興

行政-災害復興

井上義久・公明党副代表、復興にかける意気込み

10月13日の公明新聞に、井上義久・公明党副代表、大震災復興加速化本部長のインタビューが載っていました。
井上先生は、政権復帰後から引き続き、公明党の復興加速化本部長を勤めておられます。大震災復興については、自民党と公明党による提言が毎年なされ(初期の頃はもっと頻繁に)、復興の方向性を示してもらっています。
この仕組みを作られたのは、大島理森・自民党復興加速化本部長(当時。現衆議院議長)と井上先生です。毎年被災地を訪問して現状を把握される他、各省の官僚が、時には被災地の関係者が呼ばれ問題点を議論します。ここまで復興が進んだのは、この与党提言の要素も大きかったのです。政治主導の一つの形だと、私は考えています。

・・・被災地では、インフラの整備や街づくりが着実に進められてきました。住民の足となるJR常磐線が全線開通し、復興道路として仙台市から青森県八戸市までをつなぐ三陸沿岸道路も完成しつつあります。津波で壊滅的な被害を受けた地域も、かさ上げが進んで住宅や商業施設などが建ち並ぶようになり、徐々に活気が戻ってきました。
ただ、東京電力福島第1原発事故で被災した地域と地震・津波の被災地域とでは、復興の進捗にばらつきがあるのが実情です。「第2期復興・創生期間」では、そうした地域ごとの課題と引き続き向き合い、解決に取り組む必要があります。
(今年9月の)提言では、被災地全体の課題として「心の復興」を明記しました。被災者一人一人が希望を持って人生を歩んでいけるよう、心のケア事業などの継続を訴えています・・・

・・・どんな災害であっても、復興するという意志があれば、またその意志を継続できれば、復興できるというのが私の確信です。
しかし、担う人も変わります。政治にとって大事なことは、強い意志を持続するための、「法律と組織」を整備することです。
その意味では、公明党の提案で復興庁を設置し、復興基本法、復興特区法、福島復興再生特別措置法などの法律を作ってきたことは復興の大きな原動力となりました。今年の通常国会でも、復興庁の設置期限を10年間延長させる改正法などが成立しています。
福島の再生をはじめ、復興には長い時間がかかります。法律と組織をしっかりと作り、これらに、どう魂を入れていくのかが重要です・・・

桜井勝延・前南相馬市長「避難指示、連絡なかった」


10月5日の福島民友新聞に、桜井勝延・前南相馬市長の原発事故直後の証言が載っていました。「避難指示、連絡なかった」。原文をお読み下さい。

・・・翌12日、第1原発1号機の建屋が水素爆発で吹き飛び、政府は原発から半径20キロ圏内に避難指示を出した。「20キロ圏内ってどこまでだ」。テレビで知った桜井や市職員は地図を広げて見当をつけ、避難所などに身を寄せていた20キロ圏内の小高区の住民の再避難を始めた・・・
・・・ 政府は15日、3号機の爆発を受け半径20~30キロ圏内に屋内退避を指示した。避難を本格化させようとしていた矢先に物流が止まった。鹿島区は30キロ圏外だったが、すでに市内全域で市民生活が困難な状況となっていた。桜井は全市での避難を決断し、16日に新潟県への緊急避難計画を策定した・・・
・・・その後、桜井は政府文書を開示請求する。桜井が目にした「20キロ避難指示」の文書には南相馬と書かれておらず「屋内退避指示」の文書に、その文字を見つけた。「いずれにせよ、(政府からは避難の)連絡なんてなかった」。桜井はつぶやいた・・・ 

浪江町で稲刈り

原発被災地の浪江町沿岸部で、初めての稲刈りが行われたことを、NHKニュースが伝えています。英語のニュースもあります。浪江漁港近くの南棚塩地区です。田植えについても、このホームページで紹介しました。

避難している農家から、農業生産法人が土地を借りて稲作をしています。私も、田植えから、成長期、そして9月にと、成長を見てきました。この田んぼは、除染作業はしましたが、昨年まで荒れ地でした。そこに田植えがされ、青々と稲が育ち、黄金色の稲穂が実る姿は、感動的です。荒れ地と稲穂では、景色が大違いです。地域の人たちにも、勇気を与えてくれます。しかも大規模なので、見渡す限りこの景色が続きます。去年と今年が比較できる写真があれば、理解してもらえるのですが。

この法人を、アイリスオーヤマの子会社である舞台ファームが、支援してくれています。舞台ファームのホームページでも、稲刈りが紹介されています。他の地域や町でも、応援してもらっています。高齢化した農家は、稲作を再開しないことも多く、このような法人が入ることが有効です。ありがとうございます。実は、ここに至るまでは、いろいろと苦労もあるのですが、それはまた別の機会に書きましょう。

双葉町産業交流センター開所

10月1日に、福島県双葉町の産業交流センターが開所しました。県の東日本大震災・原子力災害伝承館に隣接しています。
この地区は産業拠点として開発を進めていて、周囲には企業団地もできています。この施設には、企業に貸し出す部屋とともに、町民が立ち寄って休憩する部屋や、食堂が併設されています。

双葉町は、原発避難指示が出た市町村の中で、唯一まだ住民が住めない町です。この食堂も、町で初めてできた食堂です。
町長の判断で、まず産業から再開する方針をとりました。この地区は放射線量は比較的低いのですが、海岸に近く、住宅は建てることができません。
概要は、読売新聞10月1日夕刊「双葉復興 拠点できた…町産業交流センター」がわかりやすいです。

復興特区制度

東日本大震災から10年が近づいてきて、報道機関が特集を始めたり、準備を始めています。私にも、相談やら取材が来ています。先日、河北新報に、復興特区が載りました。

・・・「特区さえあれば何でもできるわけではない」「何をするかを明確にする必要がある」。政府の復興構想会議では、特区そのものの狙いや定義が議論になった。
具体的なテーマに挙がったのは、復興促進のため被災地を区切って各種特例を設ける手法や、医療介護など先進モデルを被災地で実現し、いち早く国内課題に対処する手法だ。
2011年12月に成立した復興特区法は、一定の被害があった北海道から長野県まで11道県227市町村を対象区域に設定。規制緩和や手続きの簡素化、復興交付金などの特例メニューを用意し、県や市町村の申請を認可する形式とした。
元復興庁事務次官の内閣官房参与岡本全勝(65)は「新しいことをするというより、幾つかの行政手法を組み合わせて自治体を支援するのが主な狙いだ」と解説する・・・

大震災で町が流され、復興の過程で、新しい町をつくろうという機運が高まりました。復興特区制度も、そのための手法の一つでした。制度作成の中心になってくれたのは、青木由行参事官(当時。現在、国土交通省不動産・建設経済局長)でした。

「白地に絵を描く」ことで、何でも自由にできると、私も当初は思いました。しかし、進めていくうちに、そんなことはできないと気づきました。
・まず、被災地は、膨大な数の被災者の生活支援で精一杯で、新しい町づくりを考える余裕はありませんでした。
・また、市町村には、新しい町づくりをするだけの経験も能力もなく、職員もいませんでした。
・制度や手法を、ゼロから考えることは理論的に可能ですが、とても時間がかかって、現実的ではありません。しかも、現地での具体的課題を取り上げないと、抽象論では話は進みません。

復興交付金も復興特区制度も、既存の制度を参考に、まず使えるものを集めました。そして、それを使いやすいようにしました。
まず、自治体からの申請を、一つの窓口(復興庁)で受けることにしたのです。そして、現地で課題が出てきたら修正する、穴を埋めることにしました。これまでにないことですから、やってみないと誰もわかりません。走りながら考えたのです。
そしてその際は、市町村にはそれを担う職員がいないので、国や他の自治体から職員を送り込みました。さらに、計画の青写真作りや、申請書の下書きも国の職員が行うことも多かったのです。