ウィンストン・チャーチル著『第二次世界大戦2―彼らの最良のとき』(みすず書房)が出版されました。
いよいよチャーチルが首相になって、劣勢で困難なイギリスを率います。
昨年8月に『第二次世界大戦1―湧き起こる戦雲』が出版され、今年が第2巻です。それぞれに約900ページの分厚さです。チャーチルは、よくこれだけのものを、しかも晩年に書けたものですね。
ウィンストン・チャーチル著『第二次世界大戦2―彼らの最良のとき』(みすず書房)が出版されました。
いよいよチャーチルが首相になって、劣勢で困難なイギリスを率います。
昨年8月に『第二次世界大戦1―湧き起こる戦雲』が出版され、今年が第2巻です。それぞれに約900ページの分厚さです。チャーチルは、よくこれだけのものを、しかも晩年に書けたものですね。
小野寺拓也・田野大輔著『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(2023年、岩波ブックレット)を、積ん読の山に見つけて読みました。
宣伝文には、次のように書かれています。
「「ナチスは良いこともした」という言説は、国内外で定期的に議論の的になり続けている。アウトバーンを建設した、失業率を低下させた、福祉政策を行った――功績とされがちな事象をとりあげ、ナチズム研究の蓄積をもとに事実性や文脈を検証。歴史修正主義が影響力を持つなか、多角的な視点で歴史を考察することの大切さを訴える」
本書では、それらの「俗説」を取り上げ、「その政策がナチスのオリジナルな政策だったのか」「その政策がナチ体制においてどのような目的を持っていたのが」「その政策が「肯定的な」結果を生んだのか」という3つの視点から検討します。
どの政策も、ナチス独自で考えたものではなく、既にドイツや他国で試みられていたものであること。各政策が、それぞれに適切な目的を持っていたこともあるが、次第に戦争へと利用されること。フォルクスワーゲンも、国民には1台もわたらなかったように、かけ声倒れが多かったことを、説明します。
ヒットラーと側近も、国民の支持を獲得するために、様々な国民向けの政策を、大胆に実施します。もっとも、それが持続し、成果を出すところまで行っていないのです。
誤解を恐れずに言うと、その目的や結果を別にして「既にドイツや他国で試みられていたものを、ナチスが大々的に実行した」ことは、評価されてもよいと思います。それができないのが、通常の政治ですから。「だから独裁政治が良い」とは言いません。
ブックレットなので、100ページあまりで、読みやすく、お勧めします。
8月11日の日経新聞別刷りNIKKEI The STYLE「文化時評」に「ラジオ放送100年 試練を受けた先端メディアの盛衰」が載っていました。
・・・来年は、日本でラジオ放送が始まってから1世紀の節目である。「まだ?」と思われるか、「そんなものか」と感じるか。人により、受け止めは、さまざまだろう。少し早いが、これを機に、新しいメディアの誕生や、その役割の変化について考えを巡らせてみたい・・・
1925年3月22日に、日本放送協会の前身である東京放送局が初めてのラジオ放送を開始したのだそうです。世界初のアメリカに遅れること4年です。
1933年に政権を握ったドイツのヒットラーがラジオを活用し、対するアメリカのルーズベルト大統領も「炉辺談話」で有名です。
でも、まだ100年なのですね。私は1955年生まれで来年で70歳。ラジオは30歳しか年上ではありません。私の父は1921年、母は1926年生まれですから、同世代なのですね。
日本でのテレビ放送開始は1953年。私と同世代でした。インターネットが普及したのは2000年以降です。私の子ども(より下)の世代です。
記事では、この間のラジオの盛衰と、社会での役割変化を考察しています。お読みください。
ロドニー・スターク著『キリスト教とローマ帝国』(2014年、新教出版社)を読みました。新聞の書評欄で見かけたので。その通りに、勉強になる内容でした。
古代ローマ帝国のはずれで起こったよくわからない小さな宗教運動が、どのようにしてそれまで支配的だった多神教を駆逐し、西洋の支配的信仰になったのか。この本は、「キリストの偉大さ」ではなく、数学的、社会科学的に分析します。
キリストが磔にあった数ヶ月後、キリスト教徒の数は120人ほどでした。著者は紀元40年に1,000人と見積もり、そこから推計します。そして、1年で3.42%、10年間で40%という増加率を導きます。すると、紀元100年には7,530人、200年には217,795人、300年には6,299,832人になります。
キリスト教は、初期にはユダヤ人に広まります。既存のユダヤ教に反発する人、エルサレムを追放されたり流れたりして異邦で暮らす人に受け入れられます。
集団改宗が起きたこと、奴隷たちから広がったことも否定されます。改宗は、宗教者による説得より、家族や知り合いからの勧誘の方が効果が高いのです。
子どもの間引きが横行した時代に、キリスト教はそれを禁止します。そして、病気が流行した際も、助け合うことを勧めます。これもまた、キリスト教人口の増加を進めます。
ローマ帝国支配者層とキリスト教徒が対立し、残虐な死刑が行われたという通説も、否定されます。確かにキリスト教指導者は死刑にあったのですが、多くの信徒はそんな目に遭っていません。
これ以外にも、興味深い事実が明らかにされます。お勧めです。
8月8日の朝日新聞オピニオン欄に、山田朗・明治大学教授の「昭和天皇の戦争関与」が載っていました。記事では「戦争責任」ではなく「戦争関与」という見出しです。詳しくは記事をお読みください。
・・・「昭和天皇は戦争への主体的な関与をしなかった」「最後まで対米英戦を回避しようとした」。こうした昭和天皇像に、実証的な研究を通じて見直しを迫ってきた歴史学者がいる。明治大学教授の山田朗さんだ。「天皇の戦争指導」の実態はどうだったのか。その歴史を直視してこなかった戦後日本社会とは・・・
――日本が米英に対する戦争を始めたのは41年12月でしたね。「昭和天皇は最後まで日米開戦を避けようとしていた」という話が広く信じられていますが、事実でしょうか。
「違います。41年9月6日に開かれた御前会議の時点までは、確かに天皇は開戦を躊躇していました。しかし側近の日記や軍の記録などから見えてきたのは、そのあと天皇が戦争への覚悟を決めていく姿でした」
「10月には宣戦布告の詔書の作り方を側近に相談しており、11月には軍の説く主戦論に説得されています。最終的には天皇は開戦を決断したのです」
――昭和天皇は戦争に主体的に関与することがなかった、という理解も広がっていますね。
「事実ではありません。大日本帝国憲法では天皇は大元帥、つまり日本軍の総司令官でした。形式的発言をするだけだったというイメージが広がっていますが、記録によれば、大元帥として出席した大本営御前会議では活発に発言しています。軍幹部への質問や注意を通じて作戦に影響を与えていた実態も、史料から見えてきました」
――昭和天皇が具体的に変えた事例を挙げてください。
「42年のガダルカナル島(南太平洋ソロモン諸島)攻防戦で、航空部隊を現地へ送るよう天皇は3回にわたって、出撃をしぶる陸軍に督促していました。3度目の督促の翌日、陸軍は派遣を決めています」
「45年の沖縄戦では『現地軍は何故攻勢に出ぬか』と言って、積極的な攻撃に出るよう要求しました。現地軍は持久戦でいくと決めていたのですが、天皇の意思が現地まで伝わったため中途半端な攻勢が行われ、無用な出血につながりました」
「天皇の言葉が作戦を左右する影響を与えた事例は、満州事変から敗戦までの間に少なくとも17件確認できます。国家意思に影響を与えていた形です」
――昭和天皇はなぜ作戦指導や戦争指導をしたのでしょう。
「大日本帝国という国家の抱えていた構造的な問題が背景にあってのことだったと思います。天皇を好戦的な指導者だったとみなすのは間違いです」
――構造的な問題とは?
「ガダルカナル戦で天皇が指導に踏み込んだのは、どちらが航空機を出すかでもめていた陸軍と海軍の対立を解くためでした。大日本帝国では陸軍も海軍も天皇に直属していて、両者を統合して指揮する統合幕僚長のような指導役が不在でした。陸・海軍の対立を調整できるのは当時、天皇だけだったのです」
「軍事戦略と外交戦略の双方を統括しえたのも天皇だけでした。軍の最高指揮権にあたる『統帥権』は天皇にあり、統帥権は行政から独立していました。首相ですら軍事行動の詳細を知ることはできない構造です。外交や予算をつかさどる行政が軍部と分立していた中で、両者を架橋しえたのは実質的に天皇だけだったのです」
――「昭和天皇は戦争指導をしたのか否か」と問う以前に、「そもそも戦争指導をできる指導者は当時いたのだろうか」と考えさせられる話です。
「ええ。戦況の悪化に直面したことで昭和天皇は大日本帝国が抱えた構造的欠陥の深刻さに気づき、自らが動くしかないと考えた可能性があります。陸軍と海軍が持つそれぞれの経験値では解決できない事態があり、政治が軍事を制御できる仕組みも見当たらない。そんな状況下での戦争指導だったのです」
――昭和天皇に戦争責任はあった、と主張していますね。
「実態を踏まえれば、昭和天皇には戦争責任があったと考えるべきだと思います。あれだけの悲惨な結果を招いた戦争において、大日本帝国の軍事と政治の双方を統括できる国家指導者だったのであり、すべての重要な政策決定の場にいたのですから、およそ責任がなかったと言えるものではありません」