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「イスラーム世界とは何か」

羽田正著『〈イスラーム世界〉とは何か 「新しい世界史」を描く』(2021年、講談社学術文庫)を読みました。単行本が出たときに読みたいと思いましたが、そのままになり、文庫本になっても手をつけず。知人が読んでいるとのことで、読みました。
宣伝文には、次のように書かれています。
・・・ジャーナリズムで、また学問の世界でも普通に使われる用語、「イスラーム世界」とは何のことで、一体どこのことを指しているのだろうか? ムスリムが多い地域のことだろうか、それとも、支配者がムスリムである国々、あるいはイスラーム法が社会を律している地域のことだろうか。ただ単に、アラビア半島やシリア、パレスチナなどの「中東地域」のことを指しているのだろうか? 
本書は、高校世界史にも出てくるこの「イスラーム世界」という単語の歴史的背景を検証し、この用語を無批判に用いて世界史を描くことの問題性を明らかにしていく。
前近代のムスリムによる「イスラーム世界」の認識、19世紀のヨーロッパで「イスラーム世界」という概念が生み出されてきた過程、さらに日本における「イスラーム世界」という捉え方の誕生と、それが現代日本人の世界観に及ぼした影響などを明らかにする中で、著者は、「イスラーム世界」という概念は一種のイデオロギーであって地理的空間としては存在せず、この語は歴史学の用語として「使用すべきではない」という・・・

なるほど。「イスラーム世界」という言葉、概念は、近代ヨーロッパが作ったものなのですね。私は子どもの頃「中近東」や「極東」(こちらは最近聞かなくなりました)という言葉を聞いて、「なんでだろう」と疑問に思いました。ヨーロッパから見て、近いか遠いかだったのです。
しかし、「では、イスラーム世界に変わる言葉、概念は何か」と考えると、この本はそこまでは書いていません。
・・・地球環境と人類史的視点から「新しい世界史」を構想し叙述する方法の模索が始まる・・・と書かれているのですが、そこで止まっています。

歴史も地理も、それ自体は連続した事実に、何らかの視点から区切りを入れる作業です。視点によって、いくつもの区切り方があるでしょう。その一つは、住民の暮らし、生活文化です。その点では、イスラームは、有力な切り口だと思います。
これまでの歴史学は、政治権力によって区切ることが多かったです。日本史でも、奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山と。でも、この切り口では、日本列島人の暮らしの変化は見えません。私は、昭和後期・昭和末が、「戦後の終わり」「長い明治の終わり」「長い弥生時代の終わり」と説明しています。

戦争の証言と戦争の実像

6月27日の読売新聞夕刊、井上寿一・学習院大学教授の「昭和史の「なぜ」考えて学んで」から。詳しくは記事をお読みください。

「記憶が風化 戦争抑止力が弱くならないか × 悲惨な記憶継承だけで戦争回避 楽観にすぎる」
戦前・戦中の日本政治外交史を研究する政治学者、井上寿一さん(68)は「昭和を知ると〈いま〉がわかる」と語る。その昭和の戦争体験を語る生存者が少なくなっている。戦争への道に進んだ歴史からどう学んだらよいのだろうか。

――記憶が風化し、戦争への抑止力が弱くならないか、心配です。
井上 悲惨な戦争の記憶を継承しさえすれば戦争を回避できるかといえば、それは楽観にすぎます。
歴史上初めての総力戦となった第1次大戦を終え、ヨーロッパの人びとは「二度と戦争は嫌だ」と思った。それなのに、戦争の記憶が生々しかった20年後、もう一回大戦争をやったじゃないですか。

――確かにそうですね。
井上 第2次大戦の直接のきっかけは、ナチス・ドイツのポーランド侵攻(1939年)です。あの時、「戦争はいけない」「ヒトラーに降伏しよう」と侵略されたポーランドの人々に言えたでしょうか。それでは侵略に加担することになります。
戦争の全体像は多面的で複雑です。照明の当て方によって、戦争像は異なります。戦争は被害の過酷さだけでは語りきれません。

――確かに日本人の戦死者は44年以降の戦争後期に集中し、45年3月の東京大空襲からは民間人の犠牲者が急増する。敗色が濃くなっても「一撃講和」にこだわったことが一因とされています。
井上 どこかで一度、戦果を上げ、有利な条件で終戦交渉に臨もうとする考えが「一撃講和」論です。ところが「一撃」の機会は訪れず、その結果、全国各地に空襲が広がり、沖縄戦では民間人も多く犠牲になり、8月には広島・長崎に原爆が投下されました。

――一撃のために戦場に散った特攻隊員も数多い。そして、終戦の遅れはソ連軍の侵攻も招き、大きな被害が出ました。
井上 いたずらに戦争を続けた原因の一つは、戦争目的が不明確だったことです。そもそも37年7月7日に起きた偶発的な軍事衝突は、4日後に現地で停戦協定が結ばれたのに、気が付いたら全面戦争に拡大していました。陸軍の仮想敵国はソ連、海軍の仮想敵国はアメリカなのに、なぜ中国と戦争するのか? その理由もあいまいで、戦争目的は変遷しました。
最初は「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」。荒れ狂う支那(中国)を懲らしめるためでした。それが途中からは「東亜新秩序の建設」となり、米英との戦争が始まると「大東亜共栄圏の建設」「アジアの解放」と言い出す。

襲われた?遣唐使船

肝冷斎日誌、6月15日は「夜尽殺之(「牛氏紀聞」)」でした。

・・・唐の時代のことでございます。
「日本国使至海州、凡五百人、載国信、有十船、珍貨直数百万」
(日本国からの使者が江蘇の海州に到達した。一行はおよそ五百人、国家の公式の手紙を載せており、十隻の船団であった。持ってきた珍奇は貨物は、数百万金に当たると思われた)

時の海州知事は湖北・江夏の李邕(り・よう)、文人としても名高い人でした。李邕はその貨物を確認すると、日本国使を宿舎に収容してその出入りを監視した上で、
「夜中、尽取所載而沈其船」
(夜中に、すべての貨物を盗んだ上で、使者が乗ってきた船をすべて沈めてしまった)

そうして、
「既明、諷所管人白云、昨夜海潮大至、日本国船尽漂失、不知所在。於是以其事奏之」
(朝になってから、港を掌る役人を教唆して「昨晩、高潮が起こりまして、だと思いますが、日本国の船はすべてどこかに流れ去り、発見できておりません」と報告させた。そうしておいて、「そういう報告がありました」と中央官庁に報告したのである)・・・

ひどい話です。でも、肝冷斎に確認したところ、次のように教えてくれました。
・・・この話は、おそらくガセです。天宝年間の日本からの派遣は一回(もう一回計画がありますがこれは日本国内で中止)、752年のは有名な藤原清河大使で、玄宗皇帝の前で新羅使と席次を争ったときです。帰りは清河・安倍仲麻呂の船は安南漂着、二番船が鑑真乗り組みで薩摩坊津、そのほか紀州に行ったり対馬に行ったりしてます。いずれにしろこのころの遣唐船は四隻なので、十隻は無いです・・・
でも、このような話が書かれるのは、何か「事案」があったと思うのですが。

荻外荘

先日の休日、孫の相手をしない日に、思い立って、荻外荘に行ってきました。私の散歩道なのですが、ここのところ孫と公園に行くので、久しぶりでした。

荻外荘は、近衛文麿が首相の時に要人と面談をし、最後には自決した邸宅です。大学時代のゼミで、西園寺公望を研究したことがあり、関心を持っていました。
杉並区が、移築されていた半分を買い戻し、かつての姿に復元しました。ほとんど新築に近い作業です。かなりの費用と労力を使ったようです。詳しくは、ビデオで見てください。
家からは、一段下に庭が見え、さらにその向こうに、田圃と善福寺川が見えたようです。庭には大きな池がありましたが、地下鉄丸ノ内線の工事の際に出た残土で、埋めてしまったとのこと。そうでしょうね、あんな広く芝生広場にしていたとは思えません。

自決した書斎も見ることができます。戦後に住んだ吉田茂は、その部屋で寝たとのこと。
食堂で、ほかにもさまざまなビデオを、見ることができます。これは必見です。荻窪駅から歩いて行けます。近くの大田黒公園もよいですよ。
と書いたら、6月17日の朝日新聞東京版に「荻窪 三庭園に息づく歴史と文化」で紹介されていました。

福井ひとし氏の公文書徘徊3

『アジア時報』6月号に、福井ひとし氏の「連載 一片の冰心、玉壺にありや?―公文書界隈を徘徊する」の第3回「官僚たちの「メルヘン」」が載りました。ウェッブで読むことができます。
今回は、城山三郎著『官僚たちの夏』(1975年、新潮社)の主人公、風越信吾のモデルとされる、佐橋滋・通産事務次官を、残された公文書からたどってみるという企画です。私もこの小説を読んで、官僚に憧れました。

へえと思うことが、いくつも書かれています。経済産業省が、旧会計検査院の建物に間借りしていた、経産省の場所には防衛庁があった。閣議に、課長が出席したことがあるらしい。通産省の決裁文書は、はんこや署名が下から上へ職位が上がっていくのではなく、上から下へ下がっていったこと。

佐橋さんの名前を高めた、小説にも取り上げられた(と記憶しています)、特定産業振興臨時措置法(特振法)の決裁文書も残っています。ところが、閣議決定文書の法案に紙が貼られて、修正されているのです。その経緯を、この記事では推測しています。ちなみに、この法案は成立せず、風越(佐橋)さんは「破れた」のです。小説は通産官僚の活躍ぶりを書いているのですが、結論は負けでした。
興味ある方は、お読みください。「福井ひとし氏の公文書徘徊2