「体験談」カテゴリーアーカイブ

生き様-体験談

建て替えられる建物、3

建て替えられる建物」、今回は住んだ住宅です。

生まれ育った明日香村大字岡の住宅(岡本寺の隣。日経新聞夕刊コラム「明日への話題」第21回に出てきたお堂です)は、木造2階建てでした。戦前に建てられたようです。お堂は江戸時代でしょうか。30年以上前に、父が別の場所に新築し引っ越したので、近くのお坊さんに岡本寺ごと譲りました。住宅はその後、寺とともに建て替えられました。

子供の頃は、この家よりも、近くにある本家(父は次男)で遊んでいました。本家は広い敷地で、屋号の「さなんだ」は、敷地が三反田あったことから付いたとのことでした。2階建ての門屋は、立派でかなり古いです。家の中を水路が通り、水車が回っていました。裏は森で、飛鳥川に面していました。庭とともに、そこは子どもには格好の遊び場でした。その森は切り拓かれ、今は道路が通っています。川べりも、コンクリート護岸になってしまいました。
これは、折口信夫(釈迢空)の履歴(祖父の里)で出てくる岡寺前の家です。「祖父の造酒ノ介はもと、大和の明日香村岡寺前の岡本善右衛門の八男であったが、同地の古社飛鳥坐(あすかにいます)神社の累代の神主家飛鳥助信の養子となった上で、折口家に養子として入り、医を本業として従来の家業を兼ねた」。

昭和48年(1973年)、大学に進学して最初に住んだのは、東大駒場寮です。鉄筋コンクリート造り、3階建てでしたか。それぞれ大きな部屋で、戦前(第一高等学校時代)は、廊下の北側の部屋で6人寝泊まりし、南側の部屋で勉強したとのことでした。
私の時代は、1室を区切って4人が机とベッドを持っていました。学校の敷地内にあるので便利、歴史ある建物でしたが、汚いものでした。その後、壊されました。
3年生からは、本郷の正門前(本郷郵便局裏)に下宿しました。木造2階建ての6畳間でした。これも結構古かったです。最近まで残っていたのですが、数年前に鉄筋コンクリートの学生マンションに建て替えられました。
この項続く

建て替えられる建物、2

建て替えられる建物」、第2回は学んだ学校です。

明日香村立の高市幼稚園と高市小学校は、木造平屋建てでした。その後早い時期に統合され、建物も壊されました。石舞台古墳の隣にあったのですが、跡地は広場と駐車場になっています。
6年生の6月から、橿原市立晩成小学校に通いました。木造2階建てでしたが、これも建て替えられています。
中学は、近鉄八木駅となりにあった、橿原市立八木中学校です。これも木造2階建てでした。移転新築されました。跡地は、近鉄デパートになっています。

高校は、国立奈良女子大附属高校です。1年生の1学期に鉄筋コンクリート3階建ての新校舎が完成し、生徒が旧校舎から自分の机を運びました。この建物は健在です。

大学は、まずは東大教養学部(駒場)です。多くの教室は現役のようです。東大法学部(本郷)も、建物は変わっていないようです。この項続く

朝日新聞夕刊に出ました

3月25日の朝日新聞夕刊「3・11を振り返る」に出ました。

・・・暮らし再建支援、行政哲学転換した
東日本大震災からの復興では、「国土の復旧」から「暮らしの再建」へと、政府の災害対応の守備範囲が大きく広がりました。行政哲学の大転換でした・・・

・・・単純計算で住民1人あたり数千万円~1億円の公費を投じ、高台やかさ上げの新市街地が各地にできた。ふるさとを取り戻したいという思いに、国がそれだけ支援したということです。
ただ次に南海トラフ地震が起きたとき、あれだけの街を広大な沿岸各地につくれるか。それだけの国力はあるか。インフラ整備は絞り、なりわい再生やコミュニティー再建を優先することになるのではないでしょうか。
私たちは走りながら復興を進めざるをえませんでした。そもそも住宅や道路、防潮堤の整備、なりわい再生、コミュニティー支援などの費用対効果を、同じハカリに載せて比較評価はできません。同じ財布の中でどう優先順位をつけ、どれを落とすか。それは政治の仕事でしょう・・・

この記事は、朝日新聞ウエッブサイトや、東北の地方版に載った記事の、縮小版のようです。

河北新報に出ました

3月17日の河北新報1面「東日本大震災10年 語る」に、私のインタビュー「エース級集結 自腹で現地に」が載りました。

・・・震災当日から初動対応に当たっていた内閣府防災の職員に「被災地で起きている問題点を整理してくれ」と頼んだ。警察や自衛隊、自治体が持っている情報と、避難所で必要な物資の把握を急いだ。「おむつが足りない」というから赤ちゃん用かと思ったら、高齢者用だった。現場の声を拾うことは何より重要だった。
被災3県ごとに担当者を置き、意思決定プロセスを明確化した。定刻に会議を開いて論点整理し、宿題は翌朝に解決するルールを作った。「遺体袋が足りない」「人工透析患者がいる」。課題は刻々と変化した・・・
→情報集約と意思決定過程・仕事の進め方の明確化は、これまでにない課題に対し新しい組織を作って「戦う」際に、最も気を遣ったことです。

・・・当時はまだ組織の体をなしておらず、被災地とを往復する旅費が支給されずに個々が立て替えていた。若手は月3、4回新幹線で通い、宿泊費も入れると給料が消えた。何万人も犠牲になった重い現実が職員を鼓舞した。途中で離脱した職員もいたと思うが、みんなよく耐えてくれた・・・
→これも大変だったのです。組織運営担当者(省庁で言うと官房)が、旅費担当職員を増員してくれました(各省から借りてきました)。仕事をする際、組織を動かす際には、施策担当(前線)だけでなく、それを支える後方部隊が必要なのです。ところが、多くの役所で、後方部隊とそれを担う職員の重要性が忘れられています。

・・・復興庁は省庁縦割りを排せたのかとよく聞かれるが、横串を刺す一定の役割は担えたと思う。被災地の要望をたらい回しにせず、省庁とつなぐ「電話交換手」となった。館を設けず「○○本部」のままでは窓口がどこか分からず、責任を果たせなかっただろう・・・
→これも、復興庁の大きな成果だと思います。当初あれだけ批判を受けた復興庁ですが、今ではそのような批判を聞かなくなりました。職員たちが頑張ってくれたからです。

記事を紹介するのが遅くなりました。ウエッブサイトに載るのを待っていたので。このようにウエッブサイトに載って、リンクを張ることができると便利ですよね。ありがとうございます。

北日本新聞に載りました。「被災地支え続けた岡本全勝さん」

3月5日の北日本新聞(富山県地方紙)に、1面を使って、「被災地支え続けた岡本全勝さん」が載りました。共同通信の取材による配信記事です。3回分とのことでしたが、北日本新聞は一挙に載せてくださったようです。
3回それぞれの見出しは、「まるで戦場や」天を仰ぐ、「できない」絶対言わない、「しょい続けていかな」です。

富山県には、平成6年から10年まで4年間、総務部長として勤務しました。当時お世話になった方から、「見たよ」との連絡がありました。ありがたいことです。