カテゴリーアーカイブ:体験談

人生4分の計

2026年4月18日   岡本全勝

「天下三分の計」は、中国の三国志で有名です。諸葛孔明が劉備に進言した策で、曹操(魏)・孫権(呉)・劉備(蜀)の3人で中国を3分割して支配しようとするものです。

「人生4分の計」は、人生を20年ずつに区切って、自分の生き方を考えてみようという勧めです。『明るい公務員講座 仕事の達人編』第16講でも、書きました。
20歳頃までは、学生でした。一人前になるための勉強の期間です。
20歳前後で就職して40歳ごろまでは、仕事を覚え、社会人として成長します。家庭を持つ人も多いでしょう。
40歳から60歳頃までが、責任を持って活躍する時期です。
そして、60歳(最近は65歳)で退職して、80歳頃までが「第二の人生」です。

先日の職員研修で、40歳くらいの人が多かったので、この話をしました。毎日忙しく暮らしていると、それだけで時間は過ぎるのですが。時間に流されるのではなく、自らの人生を企画しようと勧めました。人生を悔いないもの、実り多いものとするためです。
これまでは、就職すると定年まで勤めるのが標準でした。しかし、転職が比較的自由になりました。他方で会社が倒産したり業績が悪くなることもあります。そうでなくても、希望した仕事ができるとは限りません。会社任せにしていると、それは気楽ではあるのですが、残念な人生に終わることもあります。
これからの職業人生を人事課任せにせず、自分で考えましょうということです。その組織にいるとしても、あるいは転職をするにしても、これからどのような職を選んでいくのかを考えるのです。挑戦のないところに、満足はありません。もちろん思った通りに行くとは限りません。

もう一つは、定年後の人生をも考えようということです。定年までは、人事課が面倒を見てくれます。しかし、退職後は自分で考えなければなりません。どのような職に就くのか、趣味に生きるのか。20年は長いです。

間違ったら反省する

2026年4月13日   岡本全勝

3月11日のNHKスペシャル「わたしたちの“復興” 震災15年・当事者たちの告白」を見たよ、と言ってくださる人がたくさんおられます。ありがたいことです。「NHKスペシャルに出ました
その人たちがおっしゃるのは、「間違ったと、自ら反省するのは珍しい」です。3月14日の朝日新聞社説「津波被災地の復興 一人ひとりの歩みをより前へ」などでも、うまくいかなかった点を説明しました。「失敗」を正直に伝えることも、責任者の務めだと思っています。

私が官僚になったころ、「行政の無謬性」「官僚の無謬性」という言葉を聞きました。行政は間違わないということのようです。その後わかったのは、間違わないのではなく、間違っても認めないということでした。かつて、「行政の無謬性神話」に書いたことがあります。

特に良くないのが、国会での質疑です。官僚は、現行制度や政策が正しいとして答弁を書きます。担当者も、問題点を認識しています。でも、「現行制度は時代の変化に遅れていて、変える必要があります」と答弁すると、「現行法令がおかしいというのか」とお叱りを受け、審議が止まるおそれもあります。なので、「今やっていることは正しい」と言うのです。
しかし、これでは進歩はありません。官僚の役割は、新しい社会の課題に対応することです。それは、現在の問題を認めることから始まります。たとえ、それが自分がやったことであっても。
自分や組織の間違いを認めるのは楽しくありませんが、官僚がそれを続けていると、国民の信頼を失います。それは、官僚だけに限りません。

クレジットカードのポイントに苦闘

2026年4月4日   岡本全勝

笑いながら読んでください。
クレジットカードを使うと、ポイントが貯まります。うれしいのですが、それを使うのが面倒なので、「それなら商品を安くしてくれよ」と思います。

今回は、東京地下鉄メトロカードです。
全日空との提携カードで、マイルが貯まっているとの知らせが来ました。2000ポイント=2000円分では、商品にも代えることができず、メトロカードに移してパスモで使おうとしました。かつて、やったことがあるので。
地下鉄の駅の券売機で操作しようとしたら、「お客様番号を入れろ、駅パスワードを入れろ」と表示されます。「そんなもの、覚えてないわ」。
パソコンで、東京メトロのホームページに入り、自分のカード情報を知ろうとしました。お客様番号はわからないので、メールアドレスを入れ、パスワードを入れますが、何度やってもダメ。パスワードを再発行してもらえるので、生年月日を入れたら、「違う」と表示されました。「自分の誕生日を間違うはずがないわ」と文句を言いましたが、どうしようもありません。数日、イライラが募りました。

駅に行って、駅員さんに相談したら、駅では扱えないとのこと。相談の電話窓口を教えてくれました。
そこで、窓口に電話したら、親切に対応してくれました。私のお客様番号を教えてもらい、駅パスワードも再発行してもらいました。
2000円もらうのに、こんな苦労をするとは・・・。

中学校の同窓会

2026年3月8日   岡本全勝

今日3月8日は、中学校の同窓会に出席してきました。橿原市立八木中学校を卒業したのは、昭和45年(1970年)、大阪万博が開かれた年です。

私は明日香村に住んでいたのですが、住民票を橿原市に移して、越境入学していました。当時はそれが珍しいことではなく、近所の兄さんたちも多くが通っていました。その後は厳しくなって、私の弟は村の中学校に通いました。
当時の八木中は、近鉄八木駅の隣にありました。現在、近鉄デパートのあるところです。バスで30分の通学でした。木造2階建ての校舎、一学年8組ありました。学校はその後、耳成山の麓に移転しました。

同窓会は3年前から始まったそうです。同級生が私のことを覚えていてくれて、連絡をくれました。一度は顔を出そうと思い、出席しました。
会場は橿原市のホテルで、約30人が出席しました。ほとどが、56年ぶりに会う人です。15歳で別れて、今は71歳です。顔かたちがすっかり変わっていて、しばらく話さないと、名札を見ても思い出せない人もいました。目元には、面影が残っていました。

私は当時から目立つ生徒で、生徒会の役員もしたので、みんなが覚えていてくれました。私が忘れていた出来事なども。恥ずかしいですね。幹事が配慮してくれて、経験談を話せとのことで、総理秘書官の経験を少し話しました。みんな、喜んでくれました。ありがとうございました。

前日に実家に泊まり、弟の車で故郷を見てきました。本家の再活用は、さらに整備が進んでいました。8日は、飛鳥ハーフマラソンで、村内に車が入ることができませんでした。

「官邸の怪人、「民」と出会った衝撃 復興の現場で」抄3

2026年2月1日   岡本全勝

「官邸の怪人、「民」と出会った衝撃 復興の現場で」抄2の続きです。

「私の意識が間違っていた」
岡本氏が被災者対応で絶対に言わないと決めていた言葉があった。「それは私の仕事ではありません」だ。「私の役割はいわば電話交換手。支援を必要としている人を、適切な部署へとつなぐこと」
そんなふうに、官として政と付き合いながら仕事をしてきた岡本氏に、復興の現場で新たな出会いがあった。
それは「民」だ。
がれきの片付けから炊き出しといった緊急支援に始まり、商店街再興や地域のにぎわいづくりなど中長期の復興に至るまで、災害時にはさまざまなボランティアやNPOが活躍する。今や彼ら抜きでは復興はできないといってもいいだろう。「公」の役割を担うのは、公務員だけではないのだ。
岡本氏はそれまで、NPOと深く付き合ったことはなかった。彼らとの出会いは「衝撃だった」という。
「市民運動なんていう言葉もあって、霞が関の敵だと思っていた。でもこんなに志があって、仕事のできる人たちがいるなんて、と驚いた。復興の現場はNPOにまさにおんぶにだっこだった」

岡本氏はNPOの立場で現場で活躍していた田村太郎氏と藤沢烈氏を、被災地の実態調査をしてもらうべく、非常勤の国家公務員である復興庁の調査官に起用した。田村氏は阪神大震災の時に外国人支援をしたことがきっかけでこの世界に入った、災害対応の専門家だ。藤沢氏はコンサル会社勤務や社会起業家支援を経て、東日本大震災で復興支援を始めた。
岡本氏は2人を任命するときにこう言った。
「あんたら、私に使われてもいいのか。(NPOからすれば)裏切り者かもしれないよ。NPOが行政の下請けになる、と批判されるかもしれない」
すると2人はこう答えた。
「違います。我々のほうがやりたいことのために岡本さんを使うんです」
岡本氏にとってこの言葉もまた衝撃的だったという。「私の意識が間違っていた。行政がNPOを『使う』のではない。あくまでも対等で、社会を共に支える存在なんだとわかった」

彼ら2人には避難所の実態調査をしてもらった。公務員が相手だと遠慮したり警戒したりして本音を話さない住民も、民間が相手だと安心して打ち明けられることもある。
避難所の環境が劣悪だとわかり改善につなげた。復興庁では復興支援についてのさまざまな事業と予算で、NPOが利用できるものを一覧表にして示した。
NPOが担った役割に、たとえば仮設住宅の見守りがある。被災者の孤立を防ぐためには、ふだんからの見守りやこまめな声かけが重要だ。自治体職員にはそこまでの余裕はなく、ノウハウもない。そこでNPOに委託をした。これで失業した被災者に雇用も生み出すことができた。
田村氏は「これまで多くの公務員と仕事をしたことがあるが、岡本さんは、公務員とか民間といった立場をまったく気にしない数少ない人。理想と現実のバランス感覚も絶妙で、できないことも率直に話してくれた」という。

2015年、岡本氏は復興庁の次官となる。退任後は福島復興再生総局の事務局長に就任した。原発事故からの復興という前例のない難しい仕事で、政府と与党、地元の調整役を担った。
「復興の仕事に一発回答はない。とにかく少しずつ、今回はここまで、というのを水面下で瀬踏みしながら繰り返してきた」
週の半分は2泊3日で福島に通った。何度も何度も足を運び、根気強くていねいに交渉や説明を繰り返した。「震災発生直後からずっと復興に関わってきた岡本がやってここまでなら、しゃあない、と思われるのが理想だった」
そうやって10年近くがたった。
「退任が報じられると、多くの人から、『今やめるなんて』とおしかりを受けた。全部が全部、皆さんの期待に応えられなかったけれども、長年公務員として働いてきた自分だからこそできたことがあったのではないかと思います」

「政」と向き合い、時に翻弄された「官」の人生は、終盤に「民」と出会ってさらに豊かに深くなった。
岡本さん、おつかれさまでした。