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生き様-体験談

ぎっくり腰顛末記その2

ぎっくり腰顛末記」の続きです。経験してみると、ふだん見えないことが見えてきます。

初期の歩くのが困難なときは、外出先でキョーコさんに手を握ってもらって、杖代わりになってもらったり。こんなに強く手を握ったのは、いつのことでしょうか。ひょっとして初めてかも(笑)。
壺坂霊験記を思い出しました。盲人の沢市が、妻のお里に手を引かれます。浪曲で「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ~」というくだりです。壺阪寺は、明日香村の隣の高取町にあります。西国三十三所第6番札所で、私の実家の近所の岡寺は第7番です。子どもの頃、この台詞を聞いて覚えたのでしょうね。

休日に1歳の孫を乗せた乳母車を押して、散歩をしています。1時間半、6キロメートルです。ぎっくり腰で娘の家まで500メートルを歩くのがやっとの時に、これは無理かなと思いましたが、押してみたらできました。痛みがなく、楽なのです。そうです、高齢者が手押し車を押しているのと同じです。

手すりとエレベーターとエスカレーターは、ありがたかったです。でもエスカレーターでは、嫌な思いをしました。
左手が不自由、右足が痛いので、右手で手すりを持って乗りました。東京のエスカレーターは、みんな左側に並んで、右側は空いていたり駆け上る人がいます。「立ち止まって手すりを持ちましょう」と放送しているのですが。2度、駅のエスカレーターで、後ろからせかされたり、すり抜けて追い抜かれたりしました。
「何で右側で立っているのだ」と言わんばかりの表情です。「急いでいるんです」という人もいました。「左手が不自由なのです」と言ったのですが、聞こえなかったでしょうね。自分が不自由になって、そのような人の困りごとが分かります。そのような目で見ると、杖をついている人、必ずしも高齢者出ない人も少なからずおられますね。

これから歳を取ってさらに体力が落ちたときの、予行演習でした。反対に、こんなに調子が悪くなったのは、いつ以来かと考えました。子どもの頃は、しょっちゅう熱を出す弱い体でした。ところが就職してからは、大きな病気をすることなく(少しはありました)、健康に仕事を続けることができました。キョーコさんの健康管理によるものですが、元気な体をくれた両親に感謝します。
実はこの前段に、40肩、正確には67肩があったのです。それは次の機会に。

ぎっくり腰顛末記

恥ずかしながら、体の不具合とそれが治った報告です。人様にさらすような話ではないのですが、記録の意味で書いておきます。私以外にもたくさんの方が経験していて、珍しくないようですが。

11月10日朝に突然、ぎっくり腰になりました。講演の旅先のホテルでです。ベッドから起きようとしたら、腰に激痛が走りました。座ったり立ったりは問題ないのですが、歩くのに難渋しました、足を引きずり、ゆっくり歩くのですが、右の腰と太ももが痛いです。
最初の頃は、寝返りを打つのも無理なときがありました。朝起きると筋肉が固まっていて、歩くと痛みが走ります。しばらく歩くと、痛みが小さくなります。じっと座っていると、筋肉が固まります。
講演や旅行もたくさん入れていたので、足を引きずりながら出かけました。その姿を見た人からは「どうしたのですか」と聞かれ、かくかくしかじかと説明しました。毎晩のように意見交換会を入れていたのですが、食事の途中で屈伸運動をして、固まらないようにしたり。

近年は軽い腰痛が出たりしたので、知人の薦めで、朝起きたときの屈伸運動、職場でのテレビ体操と昼休みの散歩、そして休日の散歩をしていたのですが。この程度ではダメだったと言うことでしょう。右腰とともに左肩が痛かったので、筋肉の平衡が崩れてもいたのでしょう。

24歳と39歳の時に、軽いぎっくり腰もどきを経験しました。1度目は徳島県財政課で、交付税の算定で毎日座りっぱなしで仕事をしたときです。2度目は富山県総務部長になって車がつき、高級なソファーに座ったときです。2度とも、歩くことで1週間ほどで治りました。今回も1週間ほどで治ると思っていたのですが、徐々に良くなったものの、なかなか完治しませんでした。

周囲の人にいろいろ聞きました。ほとんどの人は原因不明、痛み止めはあるが治療薬はなし、運動でいつの間にか治ったとのことでした。整体師に4日間で治してもらった人もいましたが、治療は痛くてたまらなかったそうです。で、その治療法は採用せず。
意識的に体を動かすことで徐々に回復し、3週間で9割方治り、4週間でほぼ完治しました。なので、こんなことを書いていられます。この項続く。

共に苦労した人、福島

昨日18日から、福島県双葉町と大熊町に行ってきました。原発災害からの復興で、苦労をかけた町長さんとの懇談会です。数年前に退職なさって、慰労会をすることになっていたのですが、コロナ拡大もあり延期していました。今回、別の町長さんと一緒に、実行することになりました。元町長の慰労会なのに、おうちに呼んでもらい、奥さまの手料理です。我ながら、厚かましい奴です。

いくつも難しい判断をしていただきました。住民の間に意見の対立がある中で、方向を出さなければならなかったのです。
例えば中間貯蔵施設の設置の受け入れです。県内各地で除染のため、はぎ取った土や解体した家屋を、ひとまず合成樹脂の大きな袋に入れました。県内各地に、それらの袋が積み上がりました。そのままでは、各地の復興に支障を生じます。それを1か所に集めて保管しようとしたのです。搬出される各地はうれしいことですが、受け入れる地域はさらに負担が増えます。加害者の国が被害者の町にお願いする交渉です。
あのときの町長たちの決断がなければ、福島の復興は大きく遅れたでしょう。時間が経って、多くの方はそれを覚えていませんし、知らない人も多いです。

いろんな局面で、相談に乗りました。お二人からは、「あのとき、全勝さんは、ああ言った」とか「厳しいことも言われた」という話が出てきました。私が覚えていないこともありました。信頼関係ができていた(と私は思っていました)ので、本音の議論をしたのです。
時には町長に、厳しいことも言ったようです。でも、実現できないような約束をする方が、あとで困ったことになります。その先の交渉を進める、住民を納得させるためには、役に立ったようです。国側の職員なのに、地元の立場で考える。自治省での地方勤務の経験が役に立ちました。

奥様方を含め皆さんお元気で、うれしかったです。
行きと帰りの常磐線から見える景色は、大きく変わりました。しかし、双葉町と大熊町の復興は、始まったばかりです。まだ、帰還できない地域もあります。事故を引き起こした東電と政府が、これからも責任を持って復興を進めなければなりません。

小学校同窓生の現在

10月に参加した「小学校の同窓会」。
もらった名簿を見ると、男子23人、亡くなった人を除くと19人の内、13人が村内に居住しています。結構多くの友人が残っているのです。
女子は20人、亡くなった人を除くと17人の内、4人が村内に居住しています。多くは姓も変わり、村外に出たようです。