カテゴリー別アーカイブ: 体験談

生き様-体験談

関西弁ではなく、これが正しい日本語

肝冷斎のページ」を覗いたら、私の悪口を書いていました(9月8日の記事の末尾)。間違いなので、正しておかなければいけません(キッパリ、笑い)。
私が話しているのが、正しい日本語です。東京の人やテレビのニュースで話しているのは、「東京方言」です。使う単語だけでなく、イントネーションとアクセントの位置が違います。と、私は思っています。
(例えば、最後の文を、しゃべり言葉にしてみます。アクセントは、ひとまず無視しましょう。私が言う正しい日本語では、「つこうたはる単語だけやのうて、イントネーションとアクセントの位置が、ちがうのとちゃいますか」です。)
現に私は、その清朝の高官とは違い、日本語の会話で苦労したことがありません。18歳で東京に出てきて以来、もう40年近くになりますが。部下に向かって「それちがうんと、ちゃうか」と言うのと同じように、総理大臣や大臣にも、「ちごうてんのと、ちゃいますか」と申し上げたことがありますが、話は通じています。これまで、お叱りを受けたことはありません。ただし、この文章を話すタイミングは、私なりに気を遣っています(誇張を含んでいるので、笑って読み飛ばしてください)。
もっとも、鹿児島の人や東北地方の人が、地元で友人としゃべるときと、東京でしゃべるときとで、言葉を使い分ける才能は、尊敬しています。

音楽会の続き

先日(17日)、「サントリーホールでフルートを吹き損ねた」と書きました。富山時代のフルートのお師匠さんから、次のようなお叱りが来ました。
「難しいところは笑顔で見守る。これが、魔笛の会のルールじゃないですか!次の機会は、是非吹いてください・・」
その通りでした。「吹けないところは、にこにこ笑いながら息を吸う」でした。反省。そこで、お師匠さんに「練習するので、私向けの楽譜を送ってください」と、お願いしました。

久しぶりの音楽会

今日は放課後、音楽会へ。音楽会に行くのは、いつ以来でしょうか。大震災の際に、津波で楽器を流された中高生に、楽器を送る支援活動がありました。合計で1,600本もの楽器が送られたそうです。今日は、彼らの報告演奏会も兼ねていました。
プログラムの最後に、楽器を持ち込んだ客も、客席から一緒に演奏できるという、仕掛けがありました。ラデツキー行進曲です。案内にその趣旨が書いてあったので、フルートを持って行こうかと思案したのですが。最近ずっと触っていないし、ラデツキーを吹きこなせる自信はないし。忙しいうちに、忘れていました。
幕間に、練習がありました。客席のあちこちで、楽器を抱えた人が立ち上がり、指揮者に合わせて音を出しました。旦那さんに楽譜を持ってもらって、フルートを構える奥さんと思われる方とか。サキソフォン、トロンボーンなど。ものの見事に遅れる人や、どう見ても所々しか音を出していないような人も(失礼)。
惜しかったですね。これなら私も、一音だけでも吹けば、「サントリーホールで、吹いたことがあるのです」と自慢できたのに(笑い)。

被災者生活支援本部、勤務姿の記念

被災者支援本部の勤務姿(平成23年3月)と、復興本部の勤務姿(平成23年7月)を、当時、職員が漫画に書いてくれました。職場の壁に貼ってあります。 記念に、掲載しました。
この表紙に付けてある「フルート中年の似顔絵」と大違いですが、部下職員には、このように見えていたのですね。写真より、状況を伝えているかもしれません(笑い)。(2012年3月31日)

被災者支援本部勤務の頃(2011年3月)、職員が書いてくれた、私の勤務姿です。職場の壁に貼ってありました。大変な頃の思い出です。記念に残しておきます。

次は、復興本部勤務の頃(2011年7月)、同じく職員が書いてくれた、私の勤務姿です。何でもかんでも仕事を引き受け、部下の仕事を増やしていたことを、揶揄したものでもあります。彼らの、ささやかな「抵抗」です(笑い)。
大臣から、「ブラックホール」というあだ名を、頂いていました。「何でも飲み込む」という意味です。さらに、次は何をしなければならないかを、事前に考え取り組んでいました。既存の業務だけでも忙しい職員にとっては、次々と新しい困難な仕事が降ってきて、たまったものではありませんね。ごめん、反省。
でも、被災地の状況を考えると、誰かが対応しなければならないのですから。

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次のような写真もあります。
平成23年7月29日19時15分の職場(復興対策本部事務局)の様子

河野昭さんをしのぶ会

今夜は、故河野昭さんをしのぶ会に、行ってきました。河野さんは、行政管理庁、総務庁、そして省庁改革本部事務局長を経て、初代内閣府事務次官を務められました。故人の意向でお葬式がなかったので、関係者で追悼論文集を出し、それを奥様とお嬢様にお渡しする会という形で、このような会がもたれました。

私は、省庁改革本部で、平成10年7月から13年1月6日の新府省発足まで、2年半にわたりお仕えしました。根は優しい人でしたが、仕事には厳しかったです。でも、あのような難しい改革を成し遂げるためには、必要だったのでしょう。政治家と渡り合い、反対する各省を説き伏せ、各省から集まった100人を超える官僚を束ねて、期限までに進める。今から振り返っても、大変なことでした。仕事以外ではお優しくて、よく飲みに連れて行ってもらいました。時には、ご自宅まで。

今夜は、当時の「しかられ3人組」、岡田秀一企画担当参事官(現・経済産業審議官)、井手憲文独立行政法人担当参事官(現・国土交通省海事局長)と私(減量担当参事官)も、そろって出席しました。もっとも、河野さんにしかられたのではありません。別の政府高官に、しかられました。節目節目に、官邸で顧問会議が開かれ、私たち参事官が進捗状況を説明する時に、いろいろあったのです(今となっては、笑い)。
私の仕事は、1,200ある課を1,000にすること、審議会を整理することなどでした。それは、霞ヶ関の全省庁を相手にするという、めったにできない経験をさせてもらうことであり、どのようにしたら改革が進むかを教えてもらう機会でした。

今夜は、いろんな省の方も出席され、故人の交遊の広さを物語っていました。私も、お世話になりつつ最近お会いしていない方々に、ご挨拶ができました。河野さんは、空の上からこの風景を見て、いつものように「かかか・・」と笑っておられるでしょう。