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未来予測の限界

2026年10月7日   岡本全勝

人工知能の負の面が見えてきました。嘘をつくだけでなく、ほかの人工知能の成果を盗んだり、不法にほかのサイトに侵入したりしています。人の制御を超えて暴走すると、世界中のコンピュータシステムが停止したり、破壊されたりするでしょう。悪いことをする点でも、人間らしくなったといえます。

技術的特異点、technological singularity、シンギュラリティという言葉があります。ウィキペディアによると「未来学の用語で、科学技術が急速に「進化」・変化することで人間の生活も決定的に変化する「未来」を指す言葉」とのこと。特に、人工知能が人を超えることを指して使われていたようです。

これまでの未来予測は、科学技術が発展し人類の生活が便利になることが多かったようです。しかし、1972年にローマクラブが「成長の限界」を発表して、手放しでは喜べないことが認識されました。その前に、原爆や化学兵器、公害なども、技術発展の負の面を明らかにしていました。ただし、人類はこれらの技術を制御することで、危機を回避してきました。
ところが、これまでの危機は人間が作っていたので、人間が制御できました。しかし、人工知能が自分で(人の関与なく)暴走すると、人間の制御が及びません。これまでの危機とは違った危険です。

人は未来に夢を持って、社会がよくなることを想像してきたのですが、負の面を想像することはおろそかになっていたようです。そんなこと、想像したくないですからね。
科学技術の未来予測ではありませんが、産業経済分野でも予想は当たりませんね。何が売れるか予測できたら、大もうけするでしょう。経済学者や金融関係者は、世界金融危機を予測できませんでしたし。

曲解された「国富論」2

2026年10月7日   岡本全勝

「曲解された「国富論」」の続きです。

・・・ところで、今日の経済学がスミスからの継承を怠ったもうひとつの論点がある。スミスは、18世紀英国では、経済学者というよりもむしろ「道徳哲学者」として高名であった。
「道徳感情論」というもうひとつの主著においてスミスが述べるのは、ある人のある行動の是非を判断するものは、中立的な観察者がどのぐらい共感できるかにあるという。この他者からの共感こそが、道徳的判断の基礎となる。
そのとき、社会はそれなりの共通の価値観を持っており、そこに公正な秩序も形成される。スミスの市場経済論が、直接的ではないにしても、「道徳感情論」を背後に持っていることは間違いない。

彼は、しばしば「私益は公益なり」と訴えたといわれ、人は自己利益を追求すればよい、後は市場の「見えざる手」が適切な秩序を実現してくれる、という。だが、これも無条件の「利己心」を称賛したものではない。経済活動も、「中立的な観察者」による共感に依存するのである。それは、社会的に是認されるような、ある種の「公正さ」を必要とするのだ。

現代の米国流の経済学は、経済行為を、道徳的判断などという価値観から引き離した。経済活動にも、社会的に是認できるものと是認しがたいものがある、という当然の価値判断をいっさい拒絶した。その結果、利益や収益の比較、効率性や成長率への寄与だけが判断の基準になったが、しかし、それもまた、ひとつの価値判断なのである。その結果として失ったものは、経済活動の「公正さ」や「社会の安定」といったもうひとつの価値判断なのである・・・

連載「平成の地方制度改正をひもとく」

2026年10月6日   岡本全勝

月刊『地方自治』9月号に、山﨑重孝・元自治行政局長、元内閣府次官の「「平成の地方制度改正をひもとく」を終えて」が載りました。「平成の地方制度改正をひもとく」は、月刊『地方自治』に連載されていた座談会です。山﨑君が座長になり、自治行政局の幹部が、平成時代に行われた地方自治法など地方制度改正を振り返るものです。合計42回、3年半にわたる長期連載になりました。

法改正を担当した官僚がそのいきさつを書いて残すことは、これまでもありました。この連載の特筆すべき所は、1度の法改正を扱うのではなく、平成3年から29年までの約30年間(準備期間を入れるともっと長くなります)を振り返っていることです。
地方自治制度は、自治体の有り様を規定するだけでなく、国家統治の一部をなしています。基本法中の基本法です。他方で、住民や地域に関することなので、社会の変化を強く受けます。
各回の法改正を追うだけではその位置づけは理解できず、このような通時的な分析が重要なのです。なぜそのような改正が必要になったのか、何を意図して改正したか。日本社会の変化と、この国のかたちをどのように作るか。その重要性を理解していただけると思います。

私が若い頃は、自治法の改正はなく、あっても根幹ではありませんでした。「不磨の大典」と呼ばれてもいました。時代の変化に適応させるためには、解釈で補っていたのです。ところが、平成の間に14回の改正を行ったとのことです。かつては地方制度調査会が答申を出しても法改正につながらなかったのが、実現するようになったのです。

あまりの大部なものなので、通読は難しいでしょうが、第38回から第42回までで総括がなされています。
そこでは、かつての団体委任事務と機関委任事務の区別の困難さ、戦後改革によってできた地方自治制度が戦前の仕組みを引きずっていたこと、分権改革の効果、マイナンバー制度導入の影響なども言及されています。

曲解された「国富論」

2026年10月6日   岡本全勝

9月26日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「曲解された「国富論」」から。

・・・今年はアダム・スミスの「国富論」(正確には「諸国民の富」)の出版250年である。この書物によって初めて「自由な市場競争が経済発展をもたらす」とされ、さらに、それが善き社会秩序を実現するとされた。これが通説だ。現代の米国中心の経済学はスミスの市場理論を精緻化したもので、その考えに基づいて今日のグローバリズムが出現した。だから、スミスは、「経済学の父」であるだけではなく、現代のグローバリズムの生みの親ということにもなるだろう。
しかし、私見では、これはスミスに対する大いなる誤解(あるいは曲解)であり、それが、今日のグローバル経済の混乱の発端ともなっている、と思う。

スミスが自由な市場競争を説いた時、彼が批判したものは何だったのか。それは、一部の大商人が政府と結合し、世界的規模の投資や貿易によって巨額の商業的富を得るという事態であった。これは「貨幣こそが国富なり」とする重商主義への強烈な批判である。それに対して、自国の、いわば「普通の人々」による「労働と生産こそが国富なり」というのがスミスの主張であった。
とすれば、今日のグローバル経済こそが「新重商主義」とでもいうべきものではなかろうか。スミスなら、間違いなく、今日のグローバリズムを批判したであろう。
表面的に理解してしまえば、スミスの経済論を、自由競争の市場万能主義とみなせなくもない。しかし、スミスがつとに強調しているのは、一国の富は、金融取引ではなく、生産活動によるということである。そのためには、海外との交易による金銀(貿易差額)の獲得を政府が支援するのではなく、国内生産における労働の成果を自由に交換できる市場を形成することこそが国富につながるという・・・

・・・それでは、どうして、そのスミスの市場競争論が、今日のグローバリズムの理論的な支柱になってしまったのだろうか。そこには次のような事情がある。
スミスの市場経済論は、20世紀になって、米国の経済学に引きつがれた。ただそれは、スミスの真意をまったく理解しないものでもあった。
スミスが問題とした、「金融」に対する「物の生産」、「グローバリズム」に対する「国内経済」の重視、つまり経済活動は「確実な基礎」に基づくべきだというような論点は、いっさい排除された。きわめて抽象的、一般的に、自由な市場競争の拡大こそが人々の利益と富の増進をもたらすとされたのである。
かくて、自由な市場競争論によって、グローバリズムが正当化され、市場経済学は一種の「グローバリズム・イデオロギー」とでもいうべきものとなる。

ところが、現実はどうであろうか。ここで私は「市場経済」と「資本主義」を区別しておきたい。これは大事な点だが、ほとんど論じられることはない。
「市場経済」は、人々の自由競争こそが市場の調和を実現するという思想に基づいている。しかし、「資本主義」は違う。それは、あくまで「資本」の増殖をめざす運動で、市場の調和を目的とするわけではない。資本は、金融市場において金融商品へも向かうし、海外へも投下される。将来有望な新たな技術開発や市場開拓へも向かう。期待収益が大きい分野に資本は流れる。
資本を動かすものは、独占的企業でもよいし政府でもよい。投資によって無限の経済成長をめざすのが「資本主義」の原理なのである。だから、「市場経済」が市場の秩序を求めるのに対し、「資本主義」は、むしろ、市場の秩序を破壊してゆくのである。

とするなら、今日のグローバル経済を支配しているのは、「市場経済」ではなく、「資本主義」の原理といわねばならない。そして「資本」が、無限の拡張と成長を求める限り、国家間の経済競争や覇権競争はますます激化するだろう。政府は、覇権を握る上で有利な技術へ向けた投資を支援する。もはや小規模な生産者たちによる自由競争など、昔ののどかな神話に過ぎなくなる。
まさしく、これが今日のわれわれの目の前に広がっているグローバリズムの姿であろう・・・

東武4人死亡事故「意見を述べると怒られる」

2026年10月5日   岡本全勝

10月1日の読売新聞に「ずさんな現場浮き彫り…東武4人死亡事故「意見を述べると怒られる」「余計なことを言うともめ事になる」」が載っていました。紙面では「東武4人死亡 非番の上司現場で指示 指揮混乱」という見出しです。
記事を読むと、非番の職員が現場に出てくることも疑問ですが、仕事熱心な社員だったのでしょうか。その人が、部下である現場指揮者に代わって指示を出したとのこと。それが混乱の原因のようです。部下はこの上司に意見を言えない関係、社風だったのでしょう。事務の職場でもありそうなことで、職場が混乱するのですが、作業現場では死を引き起こす事故が起きます。

・・・ 栃木県鹿沼市の東武日光線新鹿沼駅構内で、除草作業中の作業員4人が特急列車と接触して死亡した事故で、東武鉄道は30日、事故原因などを分析した中間報告書を国土交通省に提出した。報告書は、現場責任者の作業指揮者が作業員の退避先や列車の見張り場所を指示していなかったと指摘。事故当日、指揮権限のない上司が現場で指示を出し、指揮系統の混乱を招いていたことを明らかにした。

報告書によると、7人は東武建設と下請けの建設会社の従業員で、警備会社に所属する3人が列車の見張り役を務めていた。
このうち東武建設社員の作業指揮者は、東武鉄道の規定に反し、作業員らに見張り場所の指定や避難先を確実に共有することなどを怠った。ホーム上から列車の接近を作業員に知らせる「列車見張り員」は、事故直前までほかの作業員とともに線路内に立ち入っていた。

死亡した作業員4人のうち1人は作業指揮者の上司だった。除草作業全体を統括する「現場代理人」という立場で除草作業の経験も豊富だったが、この日は非番で、現場に来る予定はなかった。ところが、現場代理人は見張り員などへの指示も出し、除草作業の経験がなかった作業指揮者は事故当時、記録用の写真撮影をしていた。作業指揮者は会社の調べに「(現場代理人に)任せれば安心と考えていた」と説明しているという。

列車見張り員は事故直前、現場代理人に「列車到着3分前」と伝えたが、現場代理人のジェスチャーを作業続行と受け止め、除草作業は中断されなかった。
列車見張り員は疑問に思ったが、「意見を述べると怒られると思った」と説明している。別の作業員は「余計なことを言うともめ事になるので、遠慮していた」と話しているという・・・