年別アーカイブ:2026年

二つの脳、直感と熟慮

2026年3月20日   岡本全勝

ダニエル・カーネマン著『ファスト&スロー―あなたの意思はどのように決まるか?』(上下)(原著2011年。2012年早川書房、204年ハヤカワ文庫に再録)を読みました。あるところで紹介されていたので。今ごろ読んだのは、「ファスト&スロー」という表題に、関心を持てなかったからです。私がつけるとしたら、「直感と熟慮ー意思決定の2つの型」でしょうか。

文庫本で上下巻あわせて、800ページを超える大著です。著者の主張は、人間の判断は必ずしも合理的ではないということです。それを、いくつもの実験で証明します。その功績で、ノーベル経済学賞を受賞しました。近代経済学は、人間は合理的に判断するものとして組み立てられています。その根底を覆すのですから、経済学会からは冷たい扱いを受けたようです。著者は経済学者ではなく、心理学者であり、行動経済学をつくった一人です。
本書を読むと、納得することばかりです。近代経済学の限界がよくわかります。経済学もこのような「実際の人間」を扱ってほしいです。そして、抽象的な数式を深めるのではなく、現実社会の問題に取り組んでほしいです。参照「スティグリッツ著『資本主義と自由』」

著者の結論は、次のようなものです。
人が判断する際には2つの型(システム)があります。システム1は早い思考をする直感的なもので、システム2は遅い思考をする熟慮型です。そして、システム2は時にはシステム1の監視をして、間違った判断を修正します。
直感は深く考えることなく、ものを見ると直ちに判断します。それはどうやら、人類が長年の進化の過程で身につけたようです。そして、個人も成長の過程で、身につけるようです。相手の顔、表情を見て、相手が何を考えているかを推測するとかです。あまり深く考えることなく判断するので、脳に負担をかけない、経済的効率的な判断です。しかし、しばしば間違います。本書にはその例がたくさん載っています。
それに対し熟慮は、二桁のかけ算のように「頭を使う」判断です。直感では答えが出ない場合に、仕方なく熟慮が働きます。

また、利得が得られる場合と損失を被る場合では、リスクの評価が異なること。痛みの記憶は、実際の体験とは異なって思い出されることなど、人間の判断と記憶がええ加減なことが、次々と示されます。

なるほどという事例が、いくつも出てくるのですが、次の例は興味深いです。将来予測はできないという話です。
ある証券会社の個人客1万人について、7年間の取引記録16万件を調べたところ、売買実績より、そのまま持っていた方が実績が良かったのです。これは平均ですから、うまくやった投資家もいたでしょうが、もっとまずいことになった投資家もいたでしょう(上巻374ページ)。著者やこの話を投資アドバイザー向けの講演でしたそうですが、無視されたそうです。
また、大企業の最高財務責任者に、翌年の株価指数連動型投信のリターンを予想してもらう調査でも、まったく外れでした。しかも、彼らは自分たちの予測能力のなさをまったく自覚していません(下巻62ページ)。

飛び地の中の飛び地、アラブ首長国連盟

2026年3月20日   岡本全勝

時々紹介している、川北英隆先生のブログ。3月17日は「UAEフジャイラへの期待」でした。話題になっている、ホルムズ海峡付近の地理です。そこに、次のような文章があります。

・・・よく見ると領有権が入り乱れている。海峡の北側がイランであるのは確かだが、アラビア半島からの角の突端はオマーン(正確にはオマーンの飛び地)であり、角の下はUAEである。UAEを少し詳細に見ると、その西(ペルシャ湾内)にUAEの最大の都市、ドバイが、東(ペルシャ湾の外)にフジャイラがある。
と、単純に思ってはいけない。フジャイラの少し北側、内陸部にオマーンのもう1つの飛び地があり、しかもその飛び地の中にUAEの飛び地がある。つまり入れ子状態になっていて、UAEの中にオマーン領が、されにその中にUAE領がある。
少し調べると、UAE側の飛び地はシャールジャ首長国のものであり、この部族はかつてイランの海岸部に居住してたのだか、イランに追われ、アラビア半島側に移ったとか。複雑な民族興亡の歴史がありそうだ・・・

噺家もウケる日とウケない日がある

2026年3月20日   岡本全勝

朝日新聞連載「語る 人生の贈りもの」、3月13日は噺家の桂南光さんの「落語はお客さんと一緒に作るもん」でした。

・・・《入門から56年。同じネタでも、ウケる日もあればウケない日もある》
そら、ウケへんかったら多少は気になります。でも、高座で話しているとき、なんか自分を俯瞰するもう一人の自分がおるんです。「うわ、あれだけ稽古してきたのに、今日のお客さんに全然ウケてないがな」と。
ひねった噺が好きなので、笑う人もいれば、全然笑わない人もいてますからね。落語っていうのは、お客さんと一緒に作るもんですわ。ウケないときは「今日のお客さんとはセンスが合わなんだな。自分のお客さんはどこかにおる」と思うようにしています・・・

私も、講義や講演の際に同じ経験があります。私の場合は笑いを取るのではなく、(少々笑いも取りますが)理解してもらうことです。噺家も同じですが、最初の「つかみ」である程度の反応がわかります。

個人の再登場、2

2026年3月19日   岡本全勝

個人の再登場」の続きです。
社会において「組織中心の社会」から「個人中心の社会」への転換しつつあることは、行政においても同様です。
明治以来の行政は、国民の福利向上のために努力してきましたが、まずは国家を強くし、豊かにすることでした。富国強兵です。産業振興も、企業や業界団体を相手にしました。公共サービス充実も国民を相手にしていますが、その手法は国民個人個人を相手にせず、提供者などを通じてです。医療、教育もそうです。企業も自営業も農業者も、団体に加盟することで、行政の支援を受けました。中央省庁は各業界を相手にしていて、国民はその先にいるのです。これは、サービス充実には効果的な手法でした。

個人が属した組織には、宗教団体もあります。心のよりどころとして、宗教団体に入りました。宗教団体も大きな組織になると、信仰とともに組織の維持拡大が課題になります。時には、個人より組織が優先されます。経済取引なら不利ならやめることができますが、信仰は思い込みなので、信者は脱出するのは難しいようです。

他方で、組織中心から個人中心の社会になると、人と人とのつながりが重要なことが認識されました。組織に属さないと、人は孤独です。「居場所」の重要性です。対策としては、やはり組織に属するのか、組織ではないつながりを作るのかです。
近代市民革命は、王権による市民の活動への恣意的な介入を阻止し、他方で自立して平等な市民を理想としました。フランス革命では、宗教も中間団体もそれを阻害するものとして否定されました。しかし、自由が確立すると、個人の孤独と不安が見えてきました。
中間団体は新たな形で復活し、宗教も続いています。それらに属さない人たちに対して、どのように安心を提供するのか。次の課題です。

首相が語る責任

2026年3月19日   岡本全勝

3月8日の日経新聞「風見鶏」、峯岸博・編集委員の「高市首相が語る「責任」の重み」から。

・・・「首相はうかつに『責任』という言葉を使わない」。駆け出し記者だった1990年代、先輩からそう教わった。さまざまな不祥事での閣僚交代をめぐり野党から任命責任を追及されても、どの首相もかたくなに責任論をかわし続けた。
任命責任を認めるのはすなわち辞めることを意味するとの不文律があったからだ。「責任」という言葉はそれほど重かった。

日本経済新聞のデータベースで「首相」と「任命責任は私にある」をセットで検索すると、90年代はゼロ件だった。それが2010年代になると急増する。
その多くが安倍晋三政権時代だ。閣僚が辞任するたびに安倍氏は野党が拍子抜けするほどあっさり任命責任を認めた。「国民に深くおわびする」と頭を下げ、それで幕引きが図られた。
刑事責任は刑事罰を、民事責任は損害賠償などを伴うが、任命責任の場合は閣僚が辞めても首相に法的な罰や賠償は科されない。
首相は企業の経営者らとは異なり結果責任が特定されるケースも少ない。歴代政権では競うように「地方創生」や「女性活躍」が叫ばれたが、成果が見られず責任をとって誰かが辞めたという話は聞かない・・・

・・・責任ある態度で積極財政を進められるだろうか。学習院大の野中尚人教授は「中身を考え方や数字、目標、財源などとセットにして、国民に説明を尽くすのが『責任ある』の言葉が意味する本来の姿だ」と指摘する。「それができなければ無責任になる」とも話す。
責任に言及するなら未達の場合は辞める覚悟か、相手が納得するまで説明する姿勢が必要というわけだ・・・

・・・ハリウッド大学院大の佐藤綾子特任教授(パフォーマンス心理学)によると、高市首相は環境によってくるくる変化する「カメレオン型」の表現がうまい。
それによって「約束を破るのではないか、最後まで責任をとれないのではないかとの疑問がでるのを想定し、先に『責任がある』と答えておくのは世論への予防線でもある」という。大風呂敷を広げても「責任ある」と付けると安心感を与えたり、けむに巻いたりできる魔法の言葉のようだ・・・