学校教育ベルトコンベア型システムの弊害

7月5日の日経新聞教育欄、苫野一徳・熊本大学准教授の「学校の存在意義 自由を尊重、経験積む場に」から。

・・・私自身、これまで長らく、公教育の誕生以来ほとんど変わることのなかった教育システムを大きく転換する必要を訴えてきた。すなわち「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」システムの転換である。
この約150年間続いてきたベルトコンベヤー型のシステムこそが、いわゆる「落ちこぼれ」やその反対の「吹きこぼれ」、不登校やいじめなど様々な問題の元凶になっているのだ。
みんなで同じことを同じペースで勉強していれば、それについていけない子が構造的に生み出される。自分のペースで自分に合った学び方で学んでいれば、落ちこぼれることなどなかったかもしれないのに。
「同じ年生まれの人たちだけからなる集団」は、学校のほかにはおそらくほとんど存在しない・・・その意味で「誰もが、いつでも誰とでも学べる社会」の実現は、確かに目指すべき近未来の教育のビジョンである。私たちは必ずしも、みんなで同じことを、同じペースで、同質性の高い学級の中で学ぶ必要はないのだ・・・

・・・人類は、1万年以上の長きにわたって、凄惨な命の奪い合いや、ごく一部の人が大多数の人々を支配する時代を生きてきた。今日の民主主義は、そのような歴史を何とか終わらせるために、最近になってようやく登場したアイデアである。
もし、人類が平和に、自由に生きたいと願うのならば、私たちはまず、お互いの自由を認め合う必要がある。そして、一部の支配者ではなく、対等な市民たちの手によって共に社会を築いていくほかにない。
これを「自由の相互承認」の原理という。現代の民主主義の最も根幹をなす考えであり、人類史上最も偉大な発明の一つであるといっていい。実際、人類の多くは今日、政治的・社会的自由を手に入れ、そして意外かもしれないが、この2~3世紀を通して戦争は確実に減少したのだ。
この「自由の相互承認」を実現するための、最も重要な制度。それこそが学校教育にほかならない。お互いの自由を尊重し、この社会を共につくり合うこと。学校は本来このことをこそ、子どもたちに教える場でなければならないのだ・・・

連載「公共を創る」第124回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第124回「社会参加の意識─諸外国との比較」が、発行されました。国民の政府や政治に対する意識の次に、社会参加の意識を議論します。

日本人は「思いやりの心」「助け合いの心」が高いと言われるのに、日本人の人助け指数は世界で最下位です。矛盾しているように見えますが、これまでの本稿の議論を踏まえると、次のように説明できるでしょう。
日本人は他者への思いやりが強いといわれますが、それは知っている人や身内の人に対するものであり、見知らぬ人への思いやりは他国に比べ弱いと考えられます。また公共心が強いといわれますが、それは決められたことを守るという方向性で発揮され、公共のために自己の判断で積極的に行動することは少なく、特に見知らぬ人たちとの関係づくりは不得手です。私はこれを受動的集団主義であり、能動的集団主義ではないと表現しています

日本人の高い公共意識は、身内で成り立っていた「ムラ社会」を前提としたものであり、都会に出て来て他者と共存する場合には公共意識を発揮する経験が少なく、そのような行動は不得手だと考えられます。また中間集団への参加も少なくなっています。

この問題にどう対処するか。スウェーデンでは国民全体、また若者の投票率が極めて高いこと(約8割。日本の若者はその半分程度)を紹介しました。

曽我記者、安倍総理の評価

7月17日の朝日新聞「日曜に想う」は、曽我豪・編集委員の「安倍氏の「顔」が改まるとき」でした。
・・・安倍晋三氏には二つの顔があった。
動と静、硬と軟。時流を引き寄せようと急(せ)く保守の原理主義者の顔と、現実と折り合う機会主義者の顔である・・・

・・・(自民党総裁選再出馬の際に)ただ、体調不良から一度目の政権を投げ出したことを世間は忘れておらず、谷垣禎一総裁や石原伸晃幹事長に後れをとれば終わった政治家と言われよう。そう指摘すると、うなずいていたが、後で安倍氏は携帯に電話をかけてきた。
「出馬する。勝負しての負けなら負けで仕方ない。それよりも、勝負できない政治家と思われた方が終わりだ」
リベラル色の濃い新政権の誕生を阻む保守の勝負どころとみたのだろう。谷垣氏が出馬を断念し、石原氏が失速して安倍氏は総裁に返り咲いたが、運を引き寄せたのは「動と硬」の顔だった。

晩秋に入り、民主党の野田佳彦首相が突然、党首討論で安倍総裁を相手に衆院解散を宣した。その夜、政権を担う場合の政策課題の優先順位づけを尋ねた。安倍氏の顔は「静と軟」に改まった。

「改憲は三番目だ」と明言した。「デフレ脱却が二番目。一番は、東日本大震災の復興を含む危機管理だ」と続けた。
一度目の政権の失敗体験があった。教育基本法改正など保守的改革の実現を急ぎ過ぎ、「消えた年金」問題で政権が混乱した結果、参院選で惨敗した。ならば民主党政権との違いを示すためにも、危機管理と経済政策の実を挙げたうえで改憲へと向かおう。そう考えたのだろう。
事実、改憲不要論を招くのは承知のうえで、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認と安保法制の成立を先行させた。特定秘密保護法も含め世論の賛否が割れる懸案を処理した後は、支持率と株価が堅調になるのを待ち、衆院解散の機会を計って政権を安定させた。「アベノミクスで得た政治的な資産を安保・憲法で使う」と説明するのを聞いた。

だが長期政権の弊害が覆い隠せなくなると、かたくなな顔が現れた。森友・加計疑惑など政権のゆがみが露呈しても説明責任を果たさず、コロナ危機に際しては地方や現場の異論をくみとれぬ官邸主導の弱点をさらけ出した。一番に見据えた危機管理能力が陰り、改憲の目標は果たせぬまま、体調不良により退陣した・・
詳しくは原文をお読みください。

安倍元首相の狙撃事件。県警警備の検証は

安倍元首相の狙撃事件で、県警の警備が十分ではなかったのではないかと、国家公安委員長が現場を視察し、警察庁で検証が始まっています。元首相が殺害されたので、国での検証は必要でしょう。

ところで、県警察は県公安委員会の下にあり、県の組織です。県議会にも出席します。奈良県や県議会、県公安委員会の対応も問われます。「奈良県の組織」「7月13日、県公安委員会臨時会議

アメリカでの小学校での銃の乱射事件では、警察の対応を州議会が検証しています。警察の指揮官のリーダーシップ欠如だと指摘しています。

政府における専門家と官僚の役割

7月3日の朝日新聞、片山杜秀さんへの各務滋記者のインタビュー「専門家と官僚機構に責任を」から。

各務 「科学者の議会」で思い出すのは日本学術会議です。科学技術も人文社会も網羅する魅力的なシンクタンクにみえますが、菅前政権の任命拒否問題を見ても政府がその役割を重視しているとは思えません。
片山さん 学術会議が首相所轄の形で設計されたのは、専門家が内閣に助言し、それが重要な意思決定に作用するような会議体として考えられたからでしょう。ただ政府が1959年に科学技術会議(総合科学技術・イノベーション会議の前身)を別途作った時点で、その役割はすでに形骸化していると思います。

各務 一方では有識者会議が乱立しています。
片山さん 政府がやりたい政策について、それを支持しそうな顔ぶれが選ばれてお墨付きを与えているだけ。責任の所在があいまいなのも問題です。
専門家の知見が十分生かされる仕組みを考えるとしたら、責任を持たせないとダメだと思います。科学者の提言を受け入れて政府が行った施策がうまくいかなかったら、メンバーが交代するぐらいでなくては。

各務 官僚機構も専門知を担うシンクタンクですが、国土交通省の統計不正やコロナでの接触確認アプリの不具合など、近年はほころびが目立ちます。
片山さん 政治改革で官邸・内閣官房・内閣府と頭でっかちにして、既成省庁の権限を弱めて上で決めたことだけやらせるようにもなりました。でも官邸の方が各省庁より専門知があるわけではない。コロナでの一斉休校や布マスク配布はその欠陥の表れです。むしろ疫病のような専門的な問題が生じたときは、その分野の専門知が集まる省庁の大臣に優越的な権限を与える方がいい。