連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第96回「「孤独・孤立問題と近代憲法の限界」が、発行されました。
近代国家は弱者を発見して、その人たちを支援する仕組みをつくってきました。しかし、孤独・孤立問題や社会的包摂は、これまでの憲法が定めた自由権や社会権では対応できません。
自由権は、国家の干渉を否定する自由国家・消極国家の思想を基礎とする、国家に対する不作為請求権であるのに対して、社会権は、国家の関与を広く認める社会国家・積極国家の思想を前提として、国家の積極的な作為を請求する権利です。ところが、引きこもり、若者無業者、うつ病や自殺の増加といった孤独・孤立問題への支援は、この自由権と社会権という憲法の論理に収まらないのです。
この人たちは、国家に対して「××が不足しているので支援してほしい」とは主張しません。支援を必要としていると周囲の人は考えるのですが、その人たちへの支援は彼ら自身の国家への請求権によるものではありません。では、周囲の人たちの救済請求によるものなのか、それとも社会が守らなければならない「正義」のようなものがあるのでしょうか。
この200年の歴史を見ると、近代憲法は二つのことを忘れていたようです。
一つは、自立できない人たちです。市民革命は封建時代のさまざまな桎梏から、人を解き放とうとしました。自由と平等がその理念でした。そこで想定されたのは自立した個人でした。しかし現実には、経済的に自立できない人がいることを忘れていました。これについては社会権を発見し、社会保障制度を発明しました。もう一つ、近代憲法が忘れていたことがありました。それは、個人は独立して生きているのではなく、互いに助け合って生きていることです
これで「第4章政府の役割再考 1社会の課題の変化」を終え、次回第4章第4章2社会と政府」に入ります。