盆休みの終わり

今日は8月18日、日曜日。多くの方が、今日でお盆休み、そして夏休みが終わったのではないでしょうか。ゆっくりと、過ごされたでしょうか。お出かけになったでしょうか。暑かったですね。また、大型台風が直撃して、天候も荒れました。
これから休みを取る方は、ゆっくりと楽しんでください。

私は、休みに入る前は、あれもしよう、これもしよう、あの本を読もうと計画していたのですが。思ったようには、いきませんね。いつものことです。
キョーコさんのお供をしたこと、原稿が少し進んだことをもって、良しとしましょう。
お風呂の隅の黒ずみが、カビキラーできれいになったこと。調子が悪かった洗面所の蛍光灯を、電気屋さんに頼んでLEDに代えてもらったことも、よかったです。
本を捨てることは、今回もできず。
アサガオは、ツルが伸び葉が茂るのですが、花は少しずつしか咲きません。

病院での悩みを聞く宗教者

8月15日の日経新聞夕刊、「患者の苦悩、向き合うケア 「生きる意味は」「死ぬのが怖い」 医療・福祉の現場、宗教者ら常駐」から。

・・・欧米の病院や福祉施設では宗教者らが常駐し、患者や家族に寄り添って心の問題をケアする。病院に宗教者が入るのを忌避する傾向があった日本でも多死社会を迎え、こうした「スピリチュアルケア」が広がってきた。スピリチュアルケア師や臨床宗教師の育成が進み患者や家族を支えている・・・

・・・人は重病など危機に直面すると「生きる意味はどこにあるのか」「なぜこんな目にあうのか」というスピリチュアルペインに見舞われる。大嶋健三郎院長は「患者の悩みに医療者だけでは立ち向かえない。死生観や宗教観がしっかりした人材が必要」と話す。
病院には僧侶3人が常駐し、患者の散歩や食事に付き合いながら話をする。通常は僧衣を着用せず、僧侶から宗教の話をすることはない。その一人、花岡尚樹・ビハーラ室長は「患者のそばにいて会話や傾聴を通して支えるのがケア。その中で『死ぬのが怖い』などの言葉が出たときに宗教者として受け止める」と話す。毎夕、院内のホールで僧侶が念仏を唱え法話をする。患者も家族も自由参加で、布教はしない・・・

科学や医学の発達で、病気や死について、科学的知識が増えました。しかし、病気や死の仕組みを理解できても、「なぜ私がそうなるのか」とか「死んだらどうなるのか」など心の悩みは減りません。それは本人だけでなく、家族や親しい人にとっても同じです。
かつては、人生の苦しみを引き受けたのは、宗教でした。科学の発達で、宗教を信仰する人は減りましたが、科学とは別の次元で、科学を超えた人の悩みを引き受ける役割はあると思います。
東日本大震災で犠牲者を仮埋葬する際に、読経を求められたこと、そしてそれが遺族にとって大きな意味をもつことは、拙著『復興が日本を変える』などにも書きました。

ミューシャ展、日本の遊楽図展

先日、渋谷文化村美術館の「みんなのミューシャ展」に行ってきました。ミューシャは、5月にプラハの美術館に行ってきたばかりです。
ミューシャの絵と共に、彼の影響を受けた画家たちの絵が並んでいました。当時としては、斬新なデザインだったのでしょうね。その女性の姿、全体の構図、細部に描かれた意匠に、作家の才能と努力が伝わってきます。

引き続き、サントリー美術館の「遊びの流儀展」に。こちらは、日本画の世界です。桃山時代に花開いた、遊びやカブキが屏風絵となって、全国に伝えられたのでしょうね。これだけの作品を集めたとは、力の入った展覧会です。

サントリー美術館の売店が、うれしいです。日本の美を伝える小物類が、たくさん並んでいます。中には、値の張る物もありますが、美術品としてはそれだけの価値があると思います。
お隣にある、ワイス ワイス トゥールスも、伝統的な小物を現代風にして売っています。こちらも決して安くないのですが、それだけの価値はあります。
外国から来るお客さん(金持ち)や、日本の伝統文化を生活に使いたい人に、もっと買って欲しいです。外国人をはじめとする観光客のお土産が、新撰組のはっぴや木刀では寂しいですよね。

歴史の見方、思想が動かすか情念が動かすか

歴史の見方、指導者の歴史と民衆の歴史」の続きです。
もう一つの区分に、歴史は理念で動くとみるのか、情念が動かすとみるのか、があります。
思想の歴史といった書物を読むと、哲学者の思想が並んでいます。確かに、彼らの思想が社会を動かしたこともありますが、大衆はそれを知らなかったことも多いです。
江戸時代の思想とか、昭和時代の思想といった場合、大学で講義されていた思想や書物に表されていた思想は、それぞれの時代の思想の一部でしかありません。というより、大衆からは離れ、ごく一部の人の思想だったでしょう。本屋に並んでいるのは、(ヨーロッパから輸入した)最先端の思想書です。

確かに、ルソーやモンテスキューの思想が、近代市民革命の思想的基盤になったのでしょう。しかし、フランス革命とナポレオンを支えた民衆は、そのような思想ではなく、情念で動いていたと思います。また、フィレンツェで、サボナローラの神権政治を支えた市民も、たぶん情念で動いていたのでしょう。
民衆だけでなく、指導者にあっても、鹿島茂さんが『ナポレオン フーシェ タレーラン 情念戦争1789-1815』で描いたように、情念で動いているようです
情念が時代を動かす

歴史の見方、指導者の歴史と民衆の歴史

歴史を語るときに、エリートや指導者を見るのか、民衆を見るのかの違いがあります。前者は、王様や英雄を語ることで、歴史を書きます。後者は、社会の変化を見ます。
これまでの歴史学は政治史が中心で、前者に偏っていました。年表は支配者の交代で時代が区切られ、記述も戦争や支配形態が主でした。読み物も、英雄の伝記が多かったです。

それはそれで面白いのですが。政治史では、民衆がどのような暮らしをしていたのか、どのような変化があったのかわかりません。
王様が交代しても、民衆はほとんど変わらない生活をしていたのでしょうね。他方で、生産技術の向上、思想や信仰の変化、生活はどのように変わったのか。そのようなことを知りたいです。社会史や文化史の視点が必要です。
この項続く

歴史の見方の変化」「加藤秀俊著『社会学』」「覇権国家イギリスを作った仕組み、10。エリート文化と民衆文化