6月も終わりです。

今日は6月30日。6月が終わりました。早いですね。大先輩である石原信雄さんの、日経新聞「私の履歴書」も完結です。
そして、今年の半分が過ぎました。もっとも、役所や学校は4月始まりですから、そこを起点にすると、まだ3か月しか経っていません。

皆さんは、この半年間に、どれくらいのことを成し遂げましたか。
私たちは、毎日忙しく過ごしています。しかし、毎日忙しいことと半年間の成果とは、必ずしもつながりません。目標を決めて、それに向かって努力する必要があります。そして、毎日の目標と成果と、半年の目標と成果は、違います。
職場の多くは、4月に期首面談で目標を決め、10月に期末面談で成果の評価をします。それと同じように、あなた自身が目標を立てて、評価をする必要があります。

さて、私はどうか。毎日の仕事はそれなりにこなし、講演会などもいくつか行いました。この半年間の成果を考えると、『明るい公務員講座 管理職のオキテ』の出版と、連載「公共を創る」の執筆でしょうか。まあまあ、良くやっていると、自己満足しましょう。

空き家問題、住宅を資産として考えない日本の意識

東京財団政策研究所のレポート「所有者不明土地問題」に、砂原庸介・神戸大学教授が「空き家問題:対症療法だけでなく長期での取り組みを」(6月21日)を載せておられます。

住宅を資産として考えるか、海外との意識の差を指摘しておられます。
・・・日本の文脈において、資産としての住宅という観点が強調されにくくなっているということではないか。資産価値を重視するからこそ十分な管理が行われて良質な中古住宅が市場に出るし、自分の資産の価値に影響を与える他者の行動に対する関心も高まる。所有者本人の観点からしても土地や住宅を空き家、ひいては「所有者不明」とするのは惜しいし、周辺住民や地方自治体から見てもそんな状態を放置することができないという感覚が強まると考えられる。日本の現状は、住宅の住む機能のみが過度に強調されて、その住人(所有者のみならず貸借人も含む部分がある)が自由に扱うことが許されていることを反映しているのではないか。それは一方で好きに住むということで空き家としての放置を許し、他方で好きに処分するということで土地が投機を招くことにもつながっていると思われる・・・

・・・ズレのもう一つの原因は、住宅が特定の個人のみに帰属する資産だという発想ではないかと考えられる・・・
・・・しかし、注意しなくてはいけないことは、土地や住宅の価値はその所有者の意思や行為のみによって決まるわけではない。周辺の土地や住宅がどのように管理されているか、ということも重要である。とりわけ集合住宅ではそのような性格が強くなる。言い換えるならば、住宅の金融資産として価値を蓄える、貯金のような機能があるとしても、それは個人において完結するのではなく、周辺地域の価値と連動しうるのである。たとえば、住宅の近くに新たに線路が敷かれるということであれば、騒音に悩まされることで価値が低く評価されることになるかもしれないし、反対に線路に加えて近くに鉄道駅ができると便利な地域として住宅の評価が上がるかもしれない。それは(招致運動や反対運動に参加することがあったとしても)基本的に所有者の意思や行為の帰結ではなく、他の土地や住宅の所有者の意思や行為に基づくものである・・・

・・・このように、同じ地域に住む他の人々の行動が、自分の資産の価値に影響するという観点から考えたとき、空き家というものが周辺からそのまま放置されるというのは非常に奇妙なことに見えるのである。日本の文脈で考えれば、土地や住宅という特定の資産を処分できるのはその所有者であり、所有者が住宅を利用せずに空き家として放置していることは、ある意味で所有権の正当な行使の範囲内にあると理解されるだろう(「正当」とされるのかは微妙だが)。しかし、自分の土地や住宅を将来売却する可能性がある資産として捉える見方が強ければ、地域に何か新しいものを建設する場面、とりわけそれまでの土地利用の用途を変える局面では、影響を受ける地域全体の集合的な同意が極めて重要なものとみなされる。そして、空き家を放置する行為は所有者としての正当な責任を果たさないものであり、自分自身の資産を守るために地方自治体や周辺の住民で一致して介入するという発想がむしろ自然なものとなるのである・・・

私も、戦後日本で進んだ「土地に関する所有権の絶対化」が、背景にあると思います。端的に言うと「所有者はその土地をどのように処分しても良い、他者は意見を差し挟めない」です。周囲との関係が忘れられている、公共の福祉との折り合いの付け方がうまくできていないのです。

アメリカの保守主義の変化、市場主義が家族を破壊している

会田 弘継・青山学院大学教授の「アメリカが心酔する「新ナショナリズム」の中身 保守主義の「ガラガラポン」が起きている」(東洋経済オンライン6月28日)が、興味深いです。

・・・そのカールソンは1月初め、市場経済とアメリカの「家族」の問題について、次のようなことを番組の中で長々と「独り言」として述べた。
「アメリカでは今や、結婚は金持ちしかできない。そんなことでいいのか。半世紀前には、結婚や家族生活において階級格差などほとんどなかった。1960年代後半から、貧困層が結婚できなくなった。1980年代には労働者階級のかなりの部分でそうなってきた。18~55歳の貧困層では26%、労働者階級では36%しか結婚していない」

労働者階級の子どもを見ると、半分近く(45%)が14歳までに両親の離婚に直面している。さらに婚外子、家庭崩壊などが激しく増加している。中間層以上の裕福な家庭では56%の成人が結婚しており、離婚率もずっと低い。どうしてか。
市場経済がなすがままにする連邦政府の誤った政策が、労働者階級の「家族生活」の経済的・社会的・文化的基盤を台無しにしている。カールソンはそう批判した。製造業の働き口がなくなり、高卒以下の労働者の賃金が下がり続け、結婚もできず、家庭は崩壊し、薬物・アルコール濫用、犯罪増加につながっている、と指摘した。
富裕層のエリートたちは労働者を踏み台にして、脱工業化経済の中で繁栄を享受しているのに労働者の苦境に見て見ぬふりをしている。「すさまじい怠慢ぶり」だ、とカールソンが激しく批判した。
共和党だけでなく民主党も同罪だと述べ、大きな問題は、アメリカ保守思想の一方の核である「市場」が、もう1つの核である「家族」を破壊しているということだ、と論じた。「家族の価値」を重んじる保守派による資本主義批判という点が注目される。

これに対し、中西部ラストベルトの崩壊貧困家庭からはい上がって、自身の物語を『ヒルビリー・エレジー』という本にまとめ、今は保守派論客となったJ・D・ヴァンスは保守派論壇誌『ナショナル・レビュー』への寄稿で満腔の賛意を表明した。
アメリカのGDPは拡大し、輸入雑貨が安く買えても、子どもの死亡率は下がらず、離婚も減らないし、寿命まで縮んでいる地域がある。これで豊かな国だといえるのか。「政府の介入」が必要だ。「市場が解決する」などありえない。

トランプ政権時代に入り、アメリカの保守派からこうした声が出るのは当たり前のように思えるが、FOXテレビや『ナショナル・レビュー』という保守の中核メディアで保守派論客が堂々と市場経済を否定し、大きな政府(「政府の介入」)を求め、しかも市場経済が家族を破壊しているとまで主張するのは、大きな思想変化が起きたことを意味する。既成の保守派内から猛然と反論が出たのは当然であった・・・

私も連載「公共を創る」で、科学技術と市場経済の発展は必ずしも社会を幸せにしないこと、「見えざる手」だけでは「暴走」を食い止めることはできないことを書いているところです。

雨が降ると植物は元気になる

6月24日の肝冷斎が、「孟子より沛然下雨」を書いていました。私の「鉢植えの危機」を読んでとのことです。
同じように、植物が雨が降ると元気になることを見ても、考えることが違いますねえ。

リンゴが落ちるのを見て、もったいないと考える人と、引力を考える人と。同じことを見ても、人によって考えることが違います。もちろん、どんな関心を持っているか、どんな知識を持っているかによります。

いつものことですが、肝冷斎の博学に脱帽します。しかも、元気よく野球観戦に行き、ホームページも毎日更新しています。最近は「明るいサラリーマン講座」のページも作ったようです。素人には、少々難解なのが残念です。

連載「公共を創る」第8回

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第8回「想定外が起きた─政府の役割を考える(6)未曾有の震災に前例のない政策を」が、発行されました。
前回は、企業やNPOの貢献や支援を説明しました。今回は、国による被災した自治体への支援や、ほかの自治体から支援を説明しました。これらも、過去の災害にはなかった支援です。

なぜ、これまでのような緊急物資を送り仮設住宅を造るだけでは、被災者支援は終わらなかったのか。なぜ、どのような支援が拡大したのか。それを、まとめとして書いておきました。それが、この連載の出発点です。
これまで6回にわたって、発災直後の被災者支援での、新しい対応について説明しました。次回からは、次の段階、すなわち町を再建する過程で考えた、「まちとは何か」を説明します。