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私のHPには、下宿人が二人います。というか、いました。(歴史遺産)

フンベツする

フンベツする
 地仙ちゃんは、巣穴の前でニョロのシッポを掴んで振り回すという危険なあちょびをしていました。たまたま表に出てきた先生がびっくりして止めさせようとします。
「ち、地仙ちゃん、それはちょっと危険だよ。ニョロがチんじゃうかも知れないよ」
「ニョロはなかなかチなないの。チにそうでも時々皮を脱いで元気になっちゃうの」 と地仙ちゃんは言い訳をします。
「確かにニョロは脱皮を繰り返すので若返りの象徴ではあるけど、チんじゃったらもう生き返らないんだよ」
「ふうん、ちょうなの・・・。ところでセンセイ、ナゼ荷物をまとめているの?」
 そうなのです。先生は部屋にあったモノを箱に入れて、荷造りをしているのです。
「いや、言いにくいんだけど、ちょっとお別れすることになるかも知れないんだ・・・」と先生は言いにくそうに言いました。
「「別」するの? フンベツ? お部屋の中のキタナいガラクタを捨てるのね」
「何言っているんだ、大切な骨董品や書籍ばかりだから捨てるハズないじゃないか」
 先生はガラクタと言われてかなりムっとしています。すごく大切なもののようです。
「せっかくだから、少し説明しておくと、①は「別」という字。骨からニクをそぎ落す、 という意味の文字だ。それだけ聞けば料理のときの話かと思うかも知れないけど、左側は 『一部崩れたニンゲンの上半身の骨格』をさす。矢印で示したように、昔はドクロちゃん と同じ字だったんだよ。だから、ニンゲンの骨に関わる文字なんだ。右側は「刀」。
 実はこの字は大昔の葬儀の方法にからんでいる。大昔はひとがチんじゃうとまずは草原とか山中とかあるいは特別な小屋などに葬り、死体を風化させて、その後、残った骨だけを他のところに移しておマツリする「複葬」という方法がとられていて、「別」はこの「複葬」で骨を移す際に骨に残った肉をごしごし落すことを示す文字なんだ。この「複葬」 という方法は、カンコクやリュウキュウでは近代まで残るし、ニホン本土でも古代には行われていた。チュウゴクでも周の時代の終わりごろの『列子』という書物に「南方の蛮風」として紹介されているが、殷の時代には黄河流域でも行っていたんだ。
 さて、ニホンの古代の例などでは移骨のすんだ後は「故○○さん」ではなくて「祖霊」 という一般化された神格の中に入ってしまう。大昔のニンゲンにとって、骨と肉を別ける、という儀式は精神的にもそのひととおワカレするということだったのだよ。
 ②は「分」。この字は何かを刀で割いている姿。上部の「八」は数字を意味する前は二 つに分けられたナニかを示していて、このナニか、は犠牲の肉である、という説がある。
③の「半」にも「八」が入っているが、「半」は半分にされた犠牲(牛か羊の一部と思われる)の姿の象形なので、確かに「八」は割かれた肉だろうね。でも、「別」と違って、「分」や「半」のニクはニンゲンのニクでなくてもいいみたいだ。・・・くれぐれもマネ しないように。ニョロで試してみようなんて思っちゃいけないよ」
 すると、地仙ちゃんが聞きました。
「センセイ、おワカレするかもちれないということは、チんじゃうということ?」
「いや、チんじゃうというわけではないんだけど・・・いつかはチぬけどね・・・」
 地仙ちゃんは何だかぶす-っとしています。もし先生がいなくなると遊んでくれるオトナがいなくなってしまうから、困ってしまうみたいです。

カゼが吹く

カゼが吹く
 びびゅううん、とすごい風が吹いてきました。
「ちゅごい風でちゅね。風使いの精霊・風仙ちゃんは気まぐれでちゅからね。でも昨日までと違って風が湿っていてあったかいの。吹く方向も違うみたい」 と庭先にいる地仙ちゃんは帽子を押えながら大声で言いました。
 しかし、誰も答えません。先生は地域のひとたちと話し合いをしてから、あちこちに手紙を書いたり、書籍とか骨董品の類のガラクタ(先生の宝物らしいです)を箱詰めするのに忙しいみたいで、書斎の中にこもったままです。何をしているのでしょうか。
 地仙ちゃんは春一番に吹かれて、ごろんごろん転がったりしてひとりで遊んでいましたが、そのうち飽きてきたみたいです。書斎の窓をどんどんと叩いて、
「センセイ~、ナニちてるの? あちょんで~」と言いました。
 しばらく経ってから先生が顔を出します。
「わたしは今いろいろと忙しいんだよ。荷物を取りまとめなきゃいけないのでね・・・。それに、今日は春一番で風が強いからオモテに出たくないし・・・。春一番は外国語の直訳だが、温帯モンスーン地帯にあるチュウゴク江南地方では四十五日ごとに風の向きがかわるとされていて、三百六十五÷四十五=約八になるので、一年で八方向から風が吹き、方向ごとに名前がついていて「八風」という。これによれば冬至から四十五日経つと東の風(明庶風)、九十日経つと東南の風(清明風)が吹くとされる。
 で、①②はともに「風」という字。
 そもそも漢字の基を作った殷の国は、鳥を始祖(史記では「ツバメ」)としていて、その鳥は天上にいる「帝」が姿を変えたもの、と考えていた。鳥トーテムだね。で、その鳥が羽ばたくと風が吹くのだという。だから、「風」の古い字は点線内のように冠のある鳥の形で表されていた。この字形をそのまま引き継いでいるのが「鳳」だが、これについては別に述べたい。・・・ということで、風は「神鳥」の象形が元になった字なのだよ。
 さて、殷から周にかけて、大地の四方・八方にも神鳥がいて、ある方向から風が吹いてくるのはその方向の神鳥が飛んできているからで、特定の風は特定の神鳥の性格を受けて土地やニンゲンの在り方に強い影響を与える、と考えられるようになった。こうして、「風」は、「風土」「風光」のようにその地方の地理的性格を規定するとともに、「風俗」のように民衆のならわしを決め、「風邪」のような流行病も運んでくることになった。また、ニンゲン関係の雰囲気を指すこともあり、おエラ方から「風化」が、シモジモからは「風刺」がなされる(「風」で軍隊の強弱も判断できた。「聖なる夜」の章参照)。
 さて、周の時代には王のもとに各諸侯国の民歌が集められた。その国がよく治まっているかどうかを知るには民衆の歌を聞くのが一番だという理由だけど、そのような民歌を「国風」といい、これを収集する役人を「風人」と言ったのだよ」
「へ-、風ニンゲンがいるの? 風ニンゲンも鳥だから焼いて食べちゃうの?」
「「風」の鳥は文字が生まれるずっと前から伝承される「太陽鳥」(イヌワシと推定されている。参考図参照)に淵源があると思われるので、熱には強いんじゃないかな。・・・でもこのハナシをし始めると太陽の中に住む「三本足のカラス」のハナシまでしないといけなくなるので今回はここまでにしよう・・・次回がいつかは知らないけどね・・・」
と先生は言ってますよ。

地仙ちゃんの楽器

地仙ちゃんの楽器
 地仙ちゃんがおウチの庭で熱心に笛のようなモノを吹いています。先生は、何をしているのか興味を持ってしまって覗き込みました。
「あるトコロでこの楽器を手に入れたので鳴らちているの。これを吹くとニョロが踊りだちてオモチロいの」
「ほう。それはオカリナだな。ニョロは地面の振動を敏感に感じ取るチカラを持っているから、空気中の一定の音波の振動に反応してもおかしくはないね。
 オカリナはチュウゴクでは「ケン」と呼ばれる。紀元前四千年ぐらいのヤンシャオ文化の遺跡からも発掘されている古い楽器だ。
①に示したのが「ケン」を現す文字。アもイも左側は素材の「土」。アの右側は「員」だ。員はおカネでもある貝を集めて数える、というような意味だが、「圓」(「円」の本字)という字もあるように、「丸い」という意味もあって、アは「アヒルやニワトリの卵のごとし」というケンの形態を指している。イの右側は「燻す」(いぶす)の右側と同じ(これは古代の食生活の一端を現すオモチロい字だが、今回は説明省略)。粘土を焼く、というオカリナの作り方を示した文字だな」
「ツチでできているの? じゃあ、地仙ちゃんの楽器?」
 地仙ちゃんのメが輝きました。
「チュウゴクでは楽器の素材を八種類に分類する(「八音」)。その中にツチがあって、その代表がケンとされている。その音は「キョウ」というそうだ(参考の文字参照)。ということで「大地の精霊」地仙ちゃんの楽器と言ってもおかしくないね。
 土の楽器にはケンのほか、②の缶(フ)がある。胴体がドラム缶みたいになっていて口のすぼまった土器で、食器でもあるが「秦の地方のひとはこれを楽器として使って歌の節をとるのに使う」(説文解字)らしい。ちなみに、今「ドラム缶」と言ったけど、これは器の一種を指す「罐」(カン)という文字の変わりに「缶」を借用しているのだよ。
 『荘子』の中に、荘子のヨメがチんだときに荘子がツチ楽器を叩いて歌っていて、友人から不謹慎だと叱られる話がある。荘子は「妻は大宇宙という家に帰っただけ。悲しんだりするのは、ナニも知らないオロカモノだ」と理屈をコネるが、ホントはホントにウレしかったのじゃないかなあ、と疑っているのだが・・・」
 そこへ半ベソになったムスコを連れて陳さんの奥さんがやってきて怒鳴りました。
「地仙、うちのボクから奪い取ったオカリナを返しなさいザマスっ」
「ダ~メ。これはツチでできてるから地仙ちゃんの楽器だとセンセイにも認められたの」と地仙ちゃんが言います。「どういうことザマスかっ」と攻撃は先生に移りました。
「地仙ちゃん、さっきの発言は素材に着目したモノで、ニンゲンには所有権という概念があるんだ。返してあげなさいっ」
と先生は青くなりながら地仙ちゃんを叱りますが、地仙ちゃんは返しません。先生は取り上げようとしますが、相手は強いオンナのコ。互角です。・・・もみ合っているうちに、オカリナは二人の手から滑り落ちて地面に落ちて、「ぱりん」と壊れてしまいました。
「うひゃあ」「あーあ、コロちてちまいまちたね」
 陳さんのムスコはついに泣き出しました。陳さんの奥さんは、
「なんてことを・・・。こうなったら何としてもおマエたちを追い出してやるザマスっ」と激怒しながらムスコを連れて帰って行きます。エラいことになってきました。

象形文字「チセンチャン」

象形文字「チセンチャン」
「センセイ、地仙ちゃんの文字ができまちたよ~、ほらほら」
と突然地仙ちゃんが呼びかけてきます。
「ナニができたんだって・・・」
 先生はメンドウくさそうです。春先でぽかぽかしているので反応が鈍いのです。地仙ちゃんは○とか□で作られたヘンな図形が書かれている紙を嬉しそうに見せてくれました。
「はあ・・・。で、このナニはなんと読むの?」
「チセンチャン、と読んで、カワイイとかニンキモノとかいう意味なの。どうかちら?」
「どうかしら、と言われてもねえ。文字というなら、その文字の音価と伝達する意味について、少なくともそれを用いるひとびとの合意が必要だからねえ・・・。まあ、そのナニは「地仙ちゃん」を表しているようには見えるので、字前記号の一種というべきかな」
「ジゼンキゴー? なに、ちょれ? 食べるモノ?」
「文字ができる前に、特定の意味を持たせて使われた記号のことだよ。文字ができる以前の情報伝達方式として、縄の結び方や石の置き方に一定の意味を持たせることがある。「太古の民は縄を結んで文字の代わりにしていた」と『周易・繋辞伝』にも書かれている。
そういう遙かな過去のことをよく覚えていたもんだね。・・・そのような文字以前の伝達方式の一種として「字前記号」というのがあるんだ。神の像に刻み込んで「なになにの神様」という意味を持たせた神名記号や土器や青銅器に刻み込んで「なになに族の持ち物」という意味を示す族符記号などのマークだね。「物」(ブツ)という文字はもともとこう いう記号のことを指したという説もある。
 最近は考古学的な立場から、「井」「良」「舌」などこれまで象形文字と考えられていた字の多くが実は「字前記号」からできたんじゃないか、という説も出されている。
 ①はその典型例の一つである「亜」(ア。「次順位」というような意味)という文字。 十字架みたいだね。通説ではひとの背中が曲がっている様の象形、というのだが少しムリ だ。ある説によればこれは「お墓の石室の象形」だとされていて、死者の祭儀を掌るひとを指すことになり、そういうひとが軍隊にもいたので、「にくむ」という意味を生じ、「悪」という文字を構成した、という。
 この説も大変オモチロいが、②の図形を見てほしい。これは「亜字形図象」と言われるモノ。大昔の青銅器などに人の名前を示すものとしてたくさん描かれている。「亜」に当たる図形が特定の一族を示していて、その中に書いてある記号がさらにその一族の中の個人を指しているのだ、というのが字前記号の方の考え方だ。この「亜」族が古代王朝で占めていた地位を想像すれば、「次順位」という意味や軍隊における地位を示す理由も説明できる。オハカの象形という説とも矛盾はしないね。
 ついでに、「卍」(マン、「すばすちか」)は仏教が使っていた生成を意味するマ-クからできた文字とされているが、チュウゴクでは仏教伝来の何千年も前からこのマ-クが神像などに使われている。何かが生まれてくる場所、ということについて人類共通の図像イメ-ジがあるのかも知れないね。・・・このヘンはユング心理学の世界になってくるけ ど、漢字という文字は古代のひとの使っていたモノがそのまま今も使われているので、形を見るだけで一定の感情を換起する力があると言われるんだよ」
「チセンチャンも形を見るだけでカワイイ・ニンキモノってわかるでちょ」
と地仙ちゃんは誇らしげに言っています。

 

地仙ちゃん登場

歌仙ちゃん登場の巻
 いずれの時代のことでありましょうか。春のたけなわのことでした。橘の麻呂はぽかぽかとする陽気に誘われてサクラの木の下まで散歩してまいりました。もうサクラの花は風の吹くにまかせて雪のように散り始めています。
 麻呂はサクラの花を見上げて、
「ああ、散るのだなあ・・・。えーと・・・散りぬるをサクラはいいなもろともに・・」と和歌を詠もうとしますが、なかなかいい句が出てきません。と、その時突然、どざざざーと見慣れないオンナのコがサクラの木から滑り落ちて来ました。  
「うわあ、ナニモノ?」
「あたちは和歌の精霊・歌仙ちゃんでちゅナリ」
 オンナのコは背中に自分と同じぐらいの大きさのフクロを背負っています。そのフクロを「よいちょ」と言いながら地面に下ろして、
「ニホンにはたくちゃんの和歌がありまちゅ。その時その時に合ったウタが必ずあるもの。ちゃあ、お引きなちゃいメレ」 とフクロの口を開きました。
 麻呂は言われるままにフクロの口に手を突っ込みます。中にはたくさんのカードのようなものが入っているようです。そのうちの一枚を引きました。
「こんなの出てきたけど・・・」麻呂はオンナのコにカードを渡そうとしました。しかし、オンナのコはクビを振ります。
「なりまちぇん。あたちは字が読めないの。オノレで読むナメリ」「はあ・・・」
 麻呂は仕方がないのでカードに書かれた文字を読みました。
 さくらばな ちりかいくもれ 老いらくのこむといふなるみちまがふがに(なりひら)と書かれています。
「ちゃあ、解説ちてンゲレ」
 解説までひとにさせるようです。
 
麻呂は説明しました。
「えー、この歌は確か古今集賀歌の中に選ばれている歌で、右大臣藤原基経の四十歳のお祝いに作ったもの。サクラの花吹雪に、老いることを擬人名詞化した「老いらく」が道に迷うようにすごく散ってください、と依頼している歌だね。
 パターン化した方が賀歌としてはメデタくていいような気がするが、この歌はかなり破格。サクラの花の向こうから不気味にやってくる「老いらく」の姿は、大昔には時季を定めて村を訪れたと折口信夫のいう「まれ人」あるいは「翁」といった来訪神を連想させ、ぞくぞくするような幻想的な情景だが、お祝いの席でこんなキモチ悪い歌うたわなくていいような気がする。
 「この幻想的な花吹雪が止んだら、「老いらく」が微笑みながらオマエを待っているであろう」と言っているようなもんじゃないかね。
 ちなみに作者の在原業平は色好みの代表みたいになっているけど、若いころはともかく中年以降武官として中将、さらに官房長官に当たる蔵人頭まで勤めた実務派官僚でもあり、兄行平の死後は在原一族の棟梁として政治的にも活躍している。おエラ方のお祝いの席にも出かけたのだろうね。ちょっとがっかりだね」
 歌仙ちゃんはうんうんとうなづいて、「よくできまちたでコソアリシカー」と言いました、と伝えられています。