「行政」カテゴリーアーカイブ

行政

部分と全体2/2

昨日の続きです。統制の強い組織においては、部分と全体は、権限の配分になります。軍隊、会社などの組織で、出先にどこまで仕事と権限を与えるかです。
出先に仕事が委ねられていても、自由度がない場合は、分散でしかありません。国の出先機関が、これに該当します。この場合は、画一的に仕事が処理されます。それが好ましい仕事と、好ましくない仕事があります。そして、地方での問題がすべて中央に持ち込まれ、中央管理組織の負担が重くなります。
これに対し、日本国憲法において、地方自治は統治権の配分として認められています。分権です。地域のことは、地域で処理させるのです。もっとも現在の日本では、法律によって自治体の仕事が過度に縛られている=自由度がないことが、地域の活力・日本の活力を損なっていると認識されています。それが、より実質的な分権への要求となっているのです。
一方、統制の弱い組織内では、中央による統制と部分による自由活動とのせめぎ合いになります。党首を目指して政治家が闘う政党をイメージしてもらうと、わかりやすいでしょうか。うまくいくと、自由な活動が競争を生み発展します。しかし、競争が闘争になり、混乱が生じる場合もあります。
管理する側は、秩序を維持するために、統制をきつくしようとします。しかしそれは、自由・競争による発展を閉ざします。
組織論において、全体と部分は、管理と自由、統制と競争、規律と闘争、秩序と混乱、維持と発展、という対比につながります。

部分と全体1/2

ハイゼンベルク著『部分と全体』(邦訳1974年、みすず書房)を読み終えました。著者は1901年ドイツ生まれの物理学者で、24歳で量子力学を創始し、不確定性原理を発見、ノーベル物理学賞を受賞しています。1976年に没。本の内容は、仲間の科学者との対話の形式をとった、自伝です。科学理論はこのような過程で究められるのかと、感激を覚えます。
部分と全体という問題そのものを、考察したものではありません。しかし、彼は自らの伝記に、このような表題をつけました。物理学だけでなく、哲学、音楽、宗教、政治とのかねあいまで、彼の関心は広いです。そして、常に部分と全体の在り方を考えていたのでしょう。随所に、関連する記述があります。
私には量子力学はわかりませんが、昔から本屋でこの表題が気になっていました。私の関心にあっては、部分と全体は、国家統治機構の部分と全体であり、行政組織の部分と全体の在り方です。国と地方の関係にあっては中央集権と地方分権であり、組織管理にあっては集中と分散です。このテーマは、私にとって一生の課題ですが、すべての組織にとって永遠の課題でしょう。
ところで、対話の相手に、カール・フリードリッヒ・フォン・ワイツェッカーという哲学者が出てきます。よく似た名前だなあと思って調べたら、ドイツ大統領になったリヒャルト・カール・フォン・ヴァイツゼッカーのお兄さんでした。

イギリスの官僚

4月23日の朝日新聞オピニオン欄、グレアム・フライ前駐日英国大使のインタビュー、「日英、官僚の在り方は」から(古くなって、すみません)。
・・私たちの場合、官僚は政治家とほとんどつきあいません。自分の役所の大臣、副大臣、政務官とは毎日会いますが、例えば野党の大物政治家と連絡するときは大臣の許可が必要です。
・・(日本の「政と官」の関係について)政治主導ということで、各省に政治家が集まっていろいろ決めていると聞きました。政治家と官僚は役割が違うから、互いに尊敬してやればいいのではないでしょうか。特に重要なのは、大臣が「これをやりたい」と言った時です。その場合、官僚の義務は客観的に分析して問題点を指摘することです。大臣は聞きたくないかもしれないし、こいつは邪魔をしようとしていると官僚が誤解される可能性も大きい。そういうことができる政治家と官僚の信頼関係は非常に大切だと思います。
・・官僚の能力として一番評価されるのは、どんな政策を作ったらいいかという大臣へのアドバイスなんですが、大事なのはそれだけじゃありません。プロジェクトの管理や運営が上手にできるかなんですね。そうすると、官僚の技能で足りるのか、そういう技能は民間にあるんじゃないか、じゃあ民間から導入しようとなるんですね。
・・(官僚の人事について)政治家は介入しない方がいい。なぜなら、官僚が政治家にくっついてしまう失敗がありうるからです。人事は委員会を設けて、できるだけ客観的に評価するのがいい。ある人たちは若くして昇進する。でもポストは増えないから、そうでない人たちは若い人にポストをとられて昇進できません・・

リゾート開発の失敗

朝日新聞3日の変転経済は、リゾート法でした。1987年にリゾート法ができ、各県の要望合戦のすえに、いくつかの地域がリゾート開発地域に指定されました。代表が、記事で紹介されている宮崎シーガイアです。
時は、バブル期。四全総で、多極分散型国土開発が掲げられました(と言っても、若い人は全国総合開発計画を知らないでしょう)。
どのように失敗したか、記事をお読みください。後から検証すると、「なぜ、そんな簡単な間違いをしたのか」「なぜ、気がついた時に引き返さなかったのか」と思うでしょうが。
まだ20年前のブームと失敗は、当時の関係者には「ついこの間のこと」ですが、学生や後から来た人には、聞いたことのない話でしょう。

魅力ある国を作る

20日に、経済財政諮問会議のグローバル化改革専門調査会、金融・資本市場ワーキンググループが、第一次報告「真に競争力のある金融・資本市場の確立に向けて」を出しました。「はじめに」に、次のような文章があります。
「世界の2大国際金融センターであるロンドン市場とニューヨーク市場の間の市場間競争はますます激化しており、アジアにおいても、シンガポールや香港は、国家的な優先課題として金融・資本市場の競争力強化に取り組んでいる。ところが、こうした市場間競争から我が国は遙かに立ち後れた位置にあり、東京はアジアの金融センターとしての地位さえも脅かされようとしている。
東京が十分な金融サービスを提供できていないがゆえに、我が国を含むアジアの貯蓄が一旦は欧米に流出し、欧米でリスクマネーに変換されてアジアの投資をファイナンスするために還流するという資金循環の構造が生じている。この結果、日本は単なる資金提供者の地位にとどまることになって、資金仲介の過程における金融サービスの提供が生み出す利益を享受できないでいる・・」
これを読んで、政府の役割について、いろいろ考えました。
まず、現在の国家間競争についてです。かつては、それは領土や資源を争う戦争でした。次に、よりよい工業製品を作って売ることでした。この点について、日本は大勝ちしました。今や、そのような競争もありますが、もっとも先端部分では、サービスや情報を売る競争になっています(これは富が歴史的に、農業→商工業→サービス・情報に変化していることによります)。
この提言にあるように、金融市場は、お金を呼び込む競争になっています。お金を持っている国はもちろん強いのでしょうが、それを有効に使えるかどうかです。日本は1,500兆円という家計金融資産を持ちながら、それを使って利益を上げているのは欧米です。それは、「金融サービス競争」「魅力ある金融市場作り競争」に、日本が負けているということでしょう。
その次に、外国からの投資を呼び込む競争があります。国際的な金融資本は、よりもうけが出る国、魅力ある投資先に金をつぎ込みます。日本は海外に大きく投資しながら、海外からの投資を呼び込むことに失敗しています。これまた、「魅力ある投資先としての国作り」に負けています。
次に、このような国家戦略は、だれが考えるかということです。日本政府にあっては、どの行政機構がそれを担うかです。このHPでも書きましたが、霞ヶ関には企画部がありません(「新地方自治入門」p68)。各省には政策立案部門がありますが、それぞれの所管業務に縛られ、また発想もそれに縛られます。ここに、内閣府・経済財政諮問会議が、国家の司令塔=企画部の役割を果たす「余地」があるのです。