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行政

「ダイバーシティ」は第3ステージ

田村太郎さんのメールマガジン(4月30日号)「自治体におけるダイバーシティ・多文化共生推進」に、次のような発言が載っています。「ダイバーシティ」とは社会の多様性、そしてそれを認め合うことと訳したら良いでしょうか。

・・・日本のダイバーシティ推進が「第3ステージ」に入った・・・民族や性別といった「表層の属性」ヘの配慮を中心とした第1ステージから、価値観や考え方などの「深層の属性」へ配慮が拡がった第2ステージを経て、マジョリティの意識変革を通した社会全体の機運醸成の第3ステージに進んでいくのではないか・・・

詳しくは、メールマガジン「ダイバーシティの第3ステージ」(2024年6月5日号)に載っています。
・・・私は日本のダイバーシティは「第3ステージ」に入ったと感じています。
日本におけるダイバーシティ推進は、企業のマネジメント手法として2000年代中頃から注目されるようになりました。ダイバーシティ研究所も2007年に創立し、当初は企業のCSRを通した多様性配慮を中心に活動をスタートしました。この頃の取り組みは、性別や民族、年代など「表層の属性」への配慮に留まっていたように思います。続いて2010年代に入ると女性活躍や多文化共生、LGBTQなど、マイノリティ分野ごとの個別課題への対応が進みます。そのなかで「表層の属性」だけでなく、価値観やキャリア、思想といった「深層の属性」へと対象が拡大していきました。ここまでが第1ステージと第2ステージです。

そして2020年前後から、マジョリティ側の意識変革や社会全体の機運の醸成による包摂的な取り組みの重要性に再び関心が戻り、企業だけでなく自治体でもダイバーシティを統括する部門を設置したり、指針や計画を策定したりする事例が広がっています。例えば、世田谷区では2018年に「多様性を認め合い男女共同参画と多文化共生を推進する条例」を制定し、包括的な施策の推進をめざしています。また関西経済同友会では2022年度に「Diversity&Inclusion委員会」を設置して提言をまとめましたが、提言を実装する翌年の活動では「Diversity, Equity &Inclusion委員会」へ名称を変更し、組織全体、地域全体での意識変革の重要性を指摘しています・・・

渡邉雅子著『論理的思考とは何か』2

渡邉雅子著『論理的思考とは何か』の続きです。
91ページ以降に、「ディセルタシオンの誕生ー市民の論理と思考法」が書かれています。これは、日本の作文教育、学校教育だけでなく、法学部での教育と比較して、深く考えさせられます。

・・・ディセルタシオンは、自律して考え判断できるフランス市民(国民)育成のために18世紀末に起こったフランス革命後、100年余りの試行錯誤の中から創られた。フランス革命は人権宣言を理念的な柱とし、法の下の平等、人民による人民のための政治を宣言して「政治的主体としての市民(国民)」を誕生させた。これ以降、フランスは統治者である国民の育成という大事業に取り組むことになる。そのため公教育の目的は、憲法をも真理として扱わず事実として教え、完成している法律の称賛ではなく、「この法律を評価したり、訂正したりする能力を人々に附与すること」を求めることとした。近代の学校が国家を支える労働者と国家防衛のための兵士の育成を第一の目的としたのに対し、フランスはフランス革命の理念の実現を公教育の第一の目的にしたのである・・・

・・・実際にディセルタシオンの登場によって「暗記と模倣」が中心だった伝統的な教育は、生徒自らが構想し批評する教育へと大きく変化した・・・
・・・こうした歴史に照らしてディセルタシオンの構造を見ると、政治領域には欠かせない「既存の法律を評価したり訂正したりする能力」を育成し、「自立的に考え破断すること」「批判的にものを見ること」が論文構造に否応なく組み込まれていることが確認できる・・・
参考「できあがったものか、つくるものか

公共政策理論のアメリカの教科書(翻訳)

クリストファー・M・ウイブル編集、稲継裕昭翻訳「公共政策: 政策過程の理論とフレームワーク」(2025年4月、成文堂)を紹介します。
原著は1999年に初版が出て、この翻訳は2023年の第5版です。学生、研究者、実務家にとって公共政策研究・政策過程研究の入口となる書であり、最も定評がある教科書とのことです。
行政学や公共政策論については、日本の学者も本を出していますが、諸外国の動向は意外と紹介されていないのではないでしょうか。もちろん日本の行政の仕組みや特徴を知ることが重要ですが、諸外国と比較して日本の特徴を知ることも重要でしょう。

訳者はしがきで、稲継先生が次のようなことを述べておられます。
「アメリカで始まった理論の実証的適用が、欧州諸国のみならず、南米やアジア諸国、さらにはグローバル・サウス諸国へと広がりを見せている。そのような中で、日本の事例については、国際的なジャーナルへの投稿が極めて少なく、(自戒の念も込めて)海外へ発信されていない。2024年に『Public Administration in Japan』(Palgrave Macmillan)を出版した際、海外の学者から「日本の行政はこれまで謎だった」などと指摘された。具体的適用例についてはなおさらだ。だが、日本は事例に富んでおり、本書の諸理論を適用して分析すれば、国際的には非常に注目される実証研究となることは言うまでもない」

政権に入らない野党の打算

4月4日の日経新聞経済教室は、境家史郎・東京大学教授の「少数与党下の政策、問われる有権者の判断力」でした。

・・・なぜ少数内閣が存在するかという問題は、なぜ閣僚ポストと一定の政策実現を約束されるにもかかわらず政権入りを拒む政党があるのか、という問題と言い換えることもできる。ノルウェー出身の政治学者カーレ・ストロムによれば、これは政党がより長期的な視点から得失計算すると仮定することで理解できる。
政権入りに現時点で一定の利益があるとしても、次の選挙で政権運営全体の責任を問われるリスクを負う。このリスクが大きいと判断する政党は容易に政権入りに応じない。国民民主党や日本維新の会が閣内協力を否定するのはそのためで、不人気の自民党と一蓮托生になりたくないのである。
以上の議論は、裏返せば現野党の連合による政権交代が実現していないことの説明にもなる。国民民主党や維新の会にとって立憲民主党と組むことは、自民党と組むこと以上にリスキーと見られているのである・・・

・・・この点で参考になるのがオランダ出身の政治学者アレンド・レイプハルトの、多数決型民主主義とコンセンサス型民主主義を対置する議論である。多数決型とは英国のように過半数議席を得た単独政党に権力を集中させるタイプを指す。コンセンサス型は欧州大陸諸国に見られるように、統治への幅広い参加や政策への広範な合意が目指される。
伝統的に政治学では多数決型、すなわち英国式の二大政党制を理想視する向きが強かった。しかしレイプハルトの分析によると、実際には様々な経済指標でコンセンサス型は多数決型と同等以上の結果を出している。またコンセンサス型では相対的に汚職が少なく、選挙の投票率が高く、国民の民主主義への満足度も高いといった傾向がある。

この議論を踏まえると今回、自公政権がコンセンサス型の政権運営を強いられることになったこと自体を悲観する必要はない。「103万円の壁」にせよ、高校授業料無償化にせよ、これまで政権内に異論の強かった、もしくは関心を持たれにくかった政策争点が野党の影響を受け、この半年間に動き始めている。
夫婦別姓やガソリン暫定税率の議論も進むかもしれない。個別の政策への賛否は様々あるとしても、長らく惰性で続けられてきた政策が変化する可能性が高まったのは多くの有権者の期待するところだろう。

ただし、レイプハルトはあくまで国際的な「傾向」を示したにすぎない点にも留意しなければならない。多くの政党が政権入りせず影響力を発揮する政治のあり方には、やはり短所もある。ひとつの大きな懸念は政策決定の責任の所在が不明確になることである。
すでにこの半年に見られたように、財政全体に責任を負わない各野党が個別に多額の費用を要する政策実現を要求し、財政規律が緩みつつある。その結果、仮に今後インフレがさらに進むとしよう。そのときどの政党が責任を問われるのだろうか。少なくとも与野党は互いに責任をなすりつけ合うことになるだろう・・・

官僚による調整でなく議員間討論で

4月3日の日経新聞経済教室は、飯尾潤・政策研究大学院大学教授の「少数与党下の政策、議員間討論で妥協点探れ」でした。
・・・2024年の総選挙以来、石破茂内閣は衆院で過半数の議席を持たない少数与党政権となり、25年度予算案の修正協議など従前とは違う政策決定過程が展開している。これについて財政膨張の傾向や政策決定の不透明性に批判も根強い。
ただ、これらは政治家が全体像を考え、責任を持って統治する仕組みが不十分だという日本政治の問題点が表面化したもので根は深い。政治家の行動様式を変えることが必要なのだ。
日本で議会に提出された予算案が修正されることはまれだ。今回の修正協議では国民民主党、日本維新の会、立憲民主党の修正案に対して与党である自公両党がそれぞれ対応したが、財源を示さずに巨額の歳出増を必要とする修正案が主張されるなど財政健全性が心配される状況が生まれた。
また各党個別に修正協議が進行したために、どの修正案がどういう理由で選ばれたのかが分かりにくい状況も生まれた。直接的には国会での予算案修正のルールが未確立であることが原因であるが、より大きな原因は、政治家同士では具体的な政策を議論しにくい日本政治の構造にある。

法案や予算案は、事前審査制と呼ばれる手順を経て与党の議論を済ませ、細部に至るまで確定してから内閣から国会に提出されるのが、日本における通常の政策決定の枠組みである。
そこでは法案や具体的な予算項目を所轄する省庁の官僚が、予算案の場合は財務省の査定を、法案の場合は内閣法制局の審査を受ける。さらに必要な場合には他省庁と調整を行いつつ、与党議員を中心とする政治家への働きかけを行う。
自民党の政務調査会の部会など国会議員が政策を決める場においても、説明するのは官僚の役割で、反対する議員を議員会館などに出向いて説得するのも官僚である。国会議員は様々な意見を主張するが、例外的な場合を除き、同僚議員と議論して結論を出すとか、反対する議員を説得するということは行わない。
与党内部の調整のかなりの部分が官僚によって担われているのである。官僚はそうした調整過程で政府全体の調整も行い、予算や法律の整合性が確保される仕組みになっている。官邸主導と呼ばれた時期も、首相の権威を背景に官邸官僚が各省の官僚を使って調整を行っていたのであった・・・
・・・そうした状況で、国会において実質的な審議が行われ修正などが生じると、政策調整に不慣れな政治家が非合理な決定をしてしまう可能性がある。そこで事前審査制で細部まで具体的内容を詰めてから国会審議に臨み、衆参両院では原案のまま可決することが政策決定の基本となってきた。
そのとき野党議員は、日程調整など議会手続きを盾に反対している法案や予算案の採決時期を遅らせるという抵抗を行う。かつては野党の抵抗で法案などが審議未了・廃案という結末を迎えることもあったが、内容に踏み込まない抵抗だから許される面があった。

欧州の議院内閣制諸国でも内閣提出法案が議会審議の中核を占める。しかし事前審査制のような仕組みが発達しておらず、具体的な予算項目や法律の条文は議会の修正で最終決定される決定過程が通例である。
そうした場合、予算修正の限界についての共通了解や、修正案に対する内閣側の発言権などが確立しており、一定の枠内で議会の論議が進展する仕組みとなっている。多くの国で、議会において議員が政策の調整主体となる仕組みができているのである。
日本のように官僚が政策をまとめてくれるのであれば、政治家が責任を持って決定を主導する必要は少ない。国会においても質疑によって政府側の非を見つけるほかは、日程闘争が主たる活動となる。
今回のように予算案修正の必要が出たとき、政治家が好き放題の主張を述べて財政バランスがとれなくなるのは自然の成り行きである。議論をしているうちに共通了解が形成され、政治的妥協の結果として政策が決まる仕組みなしには、政治主導は実質化しない・・・