カテゴリーアーカイブ:行政

コメ輸出より減反、半世紀3

2026年6月16日   岡本全勝

コメ輸出より減反、半世紀2」の続きです。5月19日には「増産タブー視、消えたコンテスト」が載っていました。

・・・八ケ岳のふもとに広がる長野県富士見町の傾斜地の田んぼに、「米作日本一 生産の地」と刻まれた石碑がたたずむ。10アールあたりの収穫量(単収)を競う全国コンテストを1961、62年と制した、小池政之さん夫妻の功績をたたえたものだ。その収穫量は、975キロ(61年)と863キロ(62年)。一方、2025年産の収穫量の全国平均は、農林水産省によると573キロ。農水省のコメ研究の担当者は、「コンテストの優勝者ほどの収穫量がある農家は、いまはまずいない」と話す。

このコンテストは、終戦直後の食糧難の解決が緊急課題だった1949年に始まった。毎年およそ2万人が参加する激戦を勝ち抜こうと、農家はいち早く多収品種を導入し、日本一に輝く品種は、毎年のように入れ替わった。小池さんが61年に採用した「ふ系55号」も、前年に配布が始まった最新品種だった。
小池さんの棚田は、標高約1100メートルの寒冷地で、土壌は火山灰。コメ作りに不向きとみられていた。小池さんの技術を学ぼうと、全国から10万人を超える人が視察に訪れたとされる。だが、いまは「近くの小学校の子どもたちがキャベツを見に来るぐらい」と、次女美幸さん(80)は話す。

コンテストは68年で打ち切られた。そのころ、コメ政策は転換点を迎えていた。増産が進む一方、食生活の洋風化で需要は伸び悩み、政府は山積みになる余剰米の処理に苦悶していた。翌69年には、生産量を抑えるための減反に踏み切った。
このコンテストの主催者だった朝日新聞は「米作日本一20年史」で打ち切りの理由をこう記している。「『米の増産』に関連することはタブーとみられるにいたった」

減反で消えたのは、コンテストだけではない。
品種開発では、多収の研究が止まり、食味や冷害への対応力の向上が中心になった。限られた生産量でいかに収入を増やすかに注力し、高く売れるブランド米ばかりをつくるようになった。
それが半世紀にわたって続いた結果、かつて世界トップレベルを誇った日本のコメの単収の地位が大きく低下した。国連食糧農業機関(FAO)の統計によると、日本の1968年の単収は世界4位だったが、2024年は14位に落ち込んだ。米中などに抜かれた。

日本が減反を始めたころ、世界では単収を引き上げるために肥料を多く与えても稲穂が倒れないよう、背丈が低い品種の開発や普及が加速した。日本で進んだのは、この逆だった。1979年以降、作付面積トップのコシヒカリは、背丈が高く、単収は少ない。コシヒカリは、56年に命名された古い品種だ。
コメ政策に詳しい荒幡克己・日本国際学園大教授(農業経済学)によると、海外の主流品種は、古くても10年ぐらい前のものだという。「半世紀以上前に開発された品種がいまだにトップになっている日本の構図は、世界では異例だ」と話す・・・

コメ輸出より減反、半世紀2

2026年6月15日   岡本全勝

コメ輸出より減反、半世紀」の続きです。2面には続きが載っています。

・・・輸出が補助金頼みになるのは、日本の米価が国際水準からかけ離れて高いからだ。農水省によると、25年産の国産米の業者間取引価格(1キロあたり)は627円。タイ産はその10分の1の63円、米国産は4分の1以下の142円だ。
政府は昨年4月、「食料・農業・農村基本計画」を閣議決定し、24年は4・6万トンだった輸出量を、30年に35・3万トンに増やす野心的な目標を掲げた。だが、25年はほぼ横ばいの4・8万トンだった。
「今の米価では高すぎて売ることは難しい。米価が大きく下がれば輸出は伸びるだろうが、生産者団体としてそれは受け入れられない」。JA全農の高桑健太郎・米穀部原材料課長はそう話す。

日本は60年代後半に、コメ余りの時代に突入した。そのころには、人件費が上昇するなどして国際競争力を失っていた。経済原理に従えば、コメが余れば米価は下落し、国際競争力は回復していくはずだった。だが、実際にはそうはならなかった。農水省は関税などで国内市場を海外と隔離したうえで、予測する需要量にあわせて生産量を抑制する減反政策を続け、米価の高値誘導を続けたからだ。
高い米価は、疲弊する地方経済を下支えし、農家を主な支持基盤とする自民党が安定政権を築くことを可能にした。
その一方で、消費者は、税金や社会保険料の負担が増すなかでも、高いコメを購入し続けることを強いられた。高い米価のもとで生産性が低い零細農家が残り、農家の技術革新も停滞した。この結果、世界有数だったコメの面積あたりの収穫量は、いまではトップ集団から脱落し、かつて日本が大きくリードした中国にも抜かれた・・・

・・・コメ農家(個人経営)の25年の平均年齢は71・1歳。農家数は、5年前から25%減った。団塊世代の引退で、担い手減が一段と加速することが確実視されている。
離農者が手放した土地を、別の担い手にスムーズに移行できれば、コメの自給は続けられる。大規模化による生産性の上昇で、消費者は安くコメを食べられるようになるかもしれない。ただ、移行が進むとは限らない。
千葉県北部の沼南ファームは、130ヘクタールの農地を耕す全国有数の大規模農家だ。橋本英介社長(52)が就農した25年ほど前は60ヘクタールほどだったが、離農者の土地を引き受けてきた。だが、「これからは、引き受ける農地の仕分けに入る」という。
離農で土地を引き受けても、点在していたり、斜面にあったりする農地は、最新の農機具で効率的に耕すことができず、手が回らないからだ。

終戦直後の農地改革で475万戸もの零細な農家が生まれた。小作農を貧困から解放した一方で、農地の細分化で、生産性が低くなる副作用をもたらした。大規模化しても、農地が点在しがちなのはこのためだ。
新しい担い手への農地の移行を進めていくためには、農地の権利を整理し、まとまった農地にしていくことが欠かせない。だが、農水省は「憲法が保障する財産権の制約があり、実行は難しい」(幹部)として、有効な対応策を打ち出せずにいる・・・

コメ輸出より減反、半世紀

2026年6月14日   岡本全勝

5月18日の朝日新聞1面「減反は何をもたらしたのか:1」「コメ輸出より減反、半世紀」から。

・・・過去半世紀のコメ政策には一つの謎がある。なぜ、政府はコメ余りを防ぐために減反の道を選び、最近まで海外への輸出に活路を見いだそうとしなかったのかだ。歴史文書をひもとくと、二つのキーワードが見えてくる。「コストの壁」と「米国の圧力」だ。

「対外的に余剰米処理を匂わせることを極力避けることが肝要である」。外務省が公開している1969年12月作成の内部文書にはこう記されている。文書には下線が引かれ手書きの文字が書かれている。「匂わざるをえない」
「余剰米処理」とみられることをなぜ警戒したのか。当時、戦後の食糧難は一変し、政府は余剰米の処理に頭を悩ませていた。69年には、主食用米の生産を制限する「減反政策」に試験的に踏み出していた。
コメの輸出を増やすことも選択肢にあがった。ただ、日本産はすでに国際競争力を失い、海外産より高かった。海外を援助するという名目で、税金を投入して国内価格との差額を補填し、格安で輸出する形をとらざるをえなかった。

外務省が神経質になったのには訳がある。米国からの苦情申し立てだ。
文書が作成される5カ月前の7月。日米の閣僚級の会合で、ハーディン米農務長官(当時)が日本側にこう釘を刺した。「(3月に合意した韓国との取引で)米国の商業ベースの貿易は数百万ドルも損失を蒙る」。国連食糧農業機関(FAO)は、余剰農産物を援助で処理する場合、他の輸出国の利益を不当に害さないよう求めていた。
その後、日米貿易摩擦が過熱する。米国は日本をコメの有望な輸出先と見込み、市場開放を強烈に迫るようになる。高木勇樹・元農林水産事務次官によると、「市場開放要求に防戦するなかで、援助拡大は自粛せざるをえなくなった」という・・・

最高裁判断を国際水準に2

2026年6月13日   岡本全勝

最高裁判断を国際水準に」の続きです。

江島 近年海外では、新たな憲法を作る際に、国際機関や外国の憲法制定支援を受けながら、過去を反省して憲法裁判所を歯止めとして作ることも一般的です。しかし、46年公布の日本国憲法にはそうした機会がありませんでした。違憲審査権が導入されたものの、どう運用していけばいいのか、先例もありません。初の法令違憲は73年と、時間がかかったのは、最高裁においても模索が続いていたということでしょうか。

泉 戦前の裁判官が公職追放もなく、戦後もそのまま裁判官となり、上層部を占めていましたからね。

―裁判所が、国際人権条約を生かした判断をあまりしないのはなぜでしょうか。

泉 裁判官は人権条約についてきちんとした教育を受けておらず、民事や刑事事件で目にすることはほとんどありません。条約は「国と国の約束」で、法的効果を国民一人ひとりに与えるものではないという誤った観念が強いのだと思います。
裁判官は、裁判所も国家組織の一部で自分たちも統治機構の一部という感覚を持ちがちで、国会や、内閣を頂点とする行政庁との摩擦を避けようとする傾向があります。

―司法の判断を国際水準にするための制度改正に何が必要ですか。

泉 一つは個人通報制度の導入です。人権を、条約に違反して侵害された個人が、被害を条約機関に通報して、救済を求める仕組みです。裁判所が人権条約に正面から向き合うことになり、そのことを通じて、同じ人権問題に対する諸外国の取り扱いに目を向けることになります。
例えば、夫婦同氏を定めた民法750条の合憲性が最高裁で争われてきましたが、女性差別撤廃条約に違反するとして、規定を改めるように、国連の女性差別撤廃委員会などから日本政府は繰り返し勧告を受けてきました。個人通報制度が導入されれば、こうした見解を裁判所も真剣に受け止める必要が出てきます。

江島 世界の裁判官との対話も大事ですね。裁判官対話は、世界的に活発です。最高裁も、性同一性障害特例法の憲法適合性を考える際に、ヨーロッパ人権裁判所の17年判決に触れています。19年の合憲決定では補足意見としてでしたが、23年の違憲決定では多数意見の中で言及されたことを特筆したいです。グローバルな人権法をてこにして、裁判官が国境を越えて対話する可能性が示されていると思います。

江島 そして、国会です。旧優生保護法は制定時から違憲だったのですから、本来作るべきではなかった。作ったことが誤りであったならば一刻も早くそれに気づき廃止し、被害者を救済すべきだった。そのいずれも後手に回った国会は、二度と同じことを繰り返さないための仕組みを真剣に考えて欲しいと思います。先ほど言われた国連が推奨する国内人権機関はその筆頭です。

泉 最高裁に憲法調査官を常置し、世界の判例や制度を継続的に調査・研究できる態勢を制度化して欲しい。最高裁判事に憲法学者や行政法学者を複数任命することも検討に値します。

最高裁判断を国際水準に

2026年6月12日   岡本全勝

5月19日の朝日新聞オピニオン欄、泉徳治・元最高裁判事と江島晶子・明大教授の対談「最高裁判断を国際水準に」から。

旧優生保護法をめぐる違憲判決をはじめ、「憲法の番人」としての最高裁の存在感が近年、増しているようにも見える。しかし、これで十分なのか、司法の判断は国際水準といえるのか。制度改革について発信を続ける元最高裁判事の泉徳治さんと、憲法・国際人権法に詳しい明治大学教授の江島晶子さんが語り合った。

―今年は日本国憲法の公布から80年、自由権規約が国連で採択されて60年の節目の年です。人権を守るとりでである最高裁はその役割を十分に果たしているでしょうか。

江島晶子さん 障害のある人たちに不妊手術を強いた旧優生保護法を、立法当時から違憲だった、と判断した2024年7月の最高裁判決が考えるヒントを与えてくれます。賠償請求権が不法行為から20年の除斥期間経過により消滅したものとすることは、「著しく正義・公平の理念に反し、到底容認することができない」と述べて、被害者の救済を図ったことは画期的でした。とはいえ、救済にあまりに時間がかかりすぎました。司法だけではなく、人権侵害を救済する仕組みを社会全体でどう整えていくか、という問題を投げかけました。

泉徳治さん いま振り返れば、被害救済すべきだというのは当然のことです。問題はなぜ、当たり前のことに気づけなかったのか。法律で制度が作られると、国民はそれが正しいものと思い込んでしまいます。被害者は声をあげるのが難しい。時間はかかったけれども、被害救済へつながったのは、世界の動きの影響があったからでしょう。例えば、1998年に国連の自由権規約委員会が日本に補償を勧告し、99年にスウェーデンで「不妊手術患者への補償に関する法律」ができています。

江島 外からの目と、当事者や被害者支援団体など内からの声が結びついたことが、被害者救済の推進力になったということですね。

泉 人権は世界共通の課題です。国連の条約機関の勧告に謙虚に耳を傾けること、世界の人権状況を把握して日本国内の人権の向上を図るために、国内人権機関を設置することが必要だということを、旧優生保護法の問題から学ぶべきです。

―戦後の最高裁の違憲判決を振り返ると、法律を違憲としたものが14件、裁判手続きなどを違憲としたものが15件で、計29件です。全体的にどう評価されますか。

泉 大きく三つの時期に分けられます。(1)1973年の尊属殺重罰規定を違憲とする裁判が出る前の段階(2)この判決が出てから2001年の司法制度改革審議会の意見書が出る前の段階(3)その後、です。(1)では自白のみによる有罪判決を違憲とするなど裁判手続きを問題にしました。戦後新しくなった刑事訴訟法が定着しておらず、修正が必要でした。(2)の時代に薬事法の薬局開設距離制限規定の違憲判決(1975年)、「一票の格差」が最大約5倍になった、公職選挙法の議員定数配分規定を憲法14条に違反すると初めて判断した判決が出ます(76年)。
(2)の時期で注目したいのは、中村治朗さんという英米法に造詣(ぞうけい)の深い人物が最高裁の首席調査官にいたということです。いずれの違憲判決もドイツの連邦憲法裁判所の判決や米連邦最高裁の判決などを参照していて、中村さんの影響が大きかったとみられています。
政府の司法制度改革審議会の意見書は、違憲審査制が十分に機能していないとして、憲法問題など重大事件に裁判官が専念できる態勢作りの検討などを提言しました。それ以降、法律を違憲と判断したケースが9件に上ったのは、意見書の影響があったと考えています。裁判官は当然、意識しますから。
この項続く