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社会

被災地の子ども、田村太郎さん

昨日、田村太郎さんが、多文化共生で朝日新聞記事に取り上げられたと、紹介しました。本人からお礼とともに、毎日新聞にも出ていますと、電子メールがきました。12月7日「震災後に貧困、学習意欲は持続 「被災地・子ども教育白書」 公益社団法人調査
・・・復興庁の田村太郎参与は、被災地から就職先や進学先を求めて東京などに出たものの、生活になじめずに地元に戻ったケースが少なくないと紹介。今後はこうした若者たちの支援についても検討が必要だと述べた・・・

エコル・ノルマル・スュペリユール

加藤晴久著『ブルデュー 闘う知識人』には、エコル・ノルマル・スュペリユールの超エリート教育が紹介されています。p25~。
フランスには、大学と並行して、ゴランド・エコル(大学校)があり、国公立・私立あわせて300校近くあります。エコル・ノルマル・スュペリユール(高等師範学校とも訳されます)は、大革命期の1794年設立、元は高等中学(リセ)の教員養成が目的でした。パリとリヨンに合計4校ありますが、パリのウルム通りにあるのが、ダントツのようです。ブルデューは、ここを卒業します。入学者は、文科・理科ともに40人前後。20歳前後で入学する学生は準公務員扱いになり、小学校教員並みの給料をもらう身分になります。
加藤先生も、1961年から4年間学ばれました。当時は全寮制、起きてパジャマにガウンをまとうか、着替えて食堂へ。その間に家政婦が、ベッド・メイキングをして、掃除をしてくれます。昼食と夕食では、サービス係がテーブル食事をに運んでくれ、ワインも出ます。食事の質も上等。ワイシャツ、下着、ハンカチまで提供され、袋に入れて出すと、洗濯してアイロンをかけて返してくれるそうです。
学生たちは、俗事から解放されて、ひたすら勉強に励むのです。

多文化共生、田村太郎さん

12月6日の朝日新聞「戦後70年エピローグ。縮む世界、開く心の距離」に、田村太郎さんが出ていました。ヨーロッパで大きな問題になっている移民。日本の状況について。
・・・日本に暮らす外国人は過去最多の約217万人。雇用されているのは約79万人だ。政府は単純労働者は受け入れないとしながら、例外を増やしてきた。
日本は70年代まで移民を送り出していたが、85年からの円高やバブル景気で、世界中から人が集まった。90年には3世までの日系人に定住が認められ、来日があいついだ。事実上は単純労働の「技能実習」制度は拡充されている。
家族と日本で暮らす人たちを地域の一員として迎え入れようと、総務省が「地域における多文化共生推進プラン」を策定したのは06年だ。霞が関には政策づくりの機運が生まれたが、2度の政権交代を経て、今は「冬の時代」といわれる。
NPO法人「多文化共生センター大阪」の代表理事、田村太郎(44)は「自治体とNPOが必死に取り組んで大きな社会問題にならなかったのをよいことに、政府も国会も外国人との共生を議論せずにきた」と指摘する・・・

ブルデュー2

加藤晴久著『ブルデュー 闘う知識人』を読んで、なるほどと思った一番の点は、ブルデューの生い立ちとその主張との関係です。
ブルデューは、フランス南西部の田舎の出身です。そして、地方の中心都市の学校へ、次にはパリへとフランス最高の秀才コースに進み、エコル・ノルマル・スュペリユールを卒業します。このエコル・ノルマル・スュペリユール、特に哲学科のとんでもないエリート扱いについては、追って紹介しましょう。その過程で、田舎とパリ、農民とエリートとの格差に気づき、たぶん悩んだのでしょう。「文化資産」という概念は、そこから生まれたのだと思います。
加藤先生は、次のように書いておられます。
・・・日本でもそうだが、どこの国でも、芸術・学問の分野で、大きな業績を残す人たちには、地方の出身者が少なくない。地方に生まれ育った人間は首都に強く憧れる。それこそ首都に乗り込んで「一旗揚げたい」という野心を抱く。そして、頭角を現すには主流に挑戦する「前衛」にならざるをえない。変革はつねに中心に対する周縁からの挑戦、異議申し立てにはじまる・・・ブルデューも、フランスのど田舎の出身である・・・p17
ブルデュー自身は、次のように書いています。
・・・フランスでは辺鄙な地方出身であることはーその地がロワール川以南である場合はとくにー植民地状況のうちに同等物を見いだしうるようないくつかの特性を付与するものです・・・これがフランス社会の中心的諸制度、とりわけ知的世界に対するひじょうに特殊な関係をつくりだすのです。さまざまな形の隠微な社会的レイシスム(注)が存在するために、ある種の透徹したまなざしを養います・・・p15 (岡本注 人種差別の意味でしょうか)
この文章も、一度読んだだけでは、理解しにくい文章です。
ブルデューは、『自己分析』で、次のように自らの学校生活を振り返っています。町の寄宿舎に入ったとき、町の子は、田舎者をいじめるのです。
・・・こうした双対の経験は学校世界での高い評価と社会的出自の低さとの間の大きな隔たりの結果であるところの、緊張と矛盾を孕んだ分裂ハビトゥスの形成をいっそう促すことになった・・・p155

ブルデュー

加藤晴久著『ブルデュー 闘う知識人』(2015年、講談社)と、あわせてブルデュー著『自己分析』(邦訳2011年、藤原書店)を読みました。ブルデューについては、文化資本の考え方を、個人から広げて地域の財産の一つとして使わせてもらいました(拙著『「新地方自治入門」』)。それが書かれている『ディスタンクシオン』は、大部なのと読みにくそうなので勘弁してもらい、石井洋二郎著『差異と欲望―ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む』(1993年、藤原書店)で理解しました。
加藤晴久先生には、東大駒場時代にフランス語を学んだので、その懐かしさもあって、『ブルデュー』を手に取りました。先生の解説で、ブルデューが文化資本を提唱した背景がわかりました。それで、『自己分析』も読んだのです。それについては、追って書くとして。
『ブルデュー』の巻末に、著作リストがついています。加藤先生の短い解説付きです。そこに、Le Sens pratique 1980年、邦訳『実践感覚Ⅰ・Ⅱ』(みすず書房、2001)について、次のように紹介されています。
「『ディスタンクシオン』と並ぶ代表作のひとつ。アルジェリア・カビリア族の人類学的研究を踏まえた行動理論の集大成。邦訳Ⅰは理解不能」と。
そうなんですよね、翻訳書には、読んでいて「これは何を言いたいのだろう」と思う日本語に出会うことがあります。一つには、原文自体が理解困難な文章である場合。もう一つには、翻訳のできが悪い場合があります。若いときは、難しい翻訳を読んで、「私の頭が悪いんだ、勉強不足だ」と思いましたが、最近は「これは翻訳が悪い」と決めつけて、読むのをやめてしまいます。
本書には、20世紀後半のフランスの思想家たちが難解であることを取り上げて、次のようなインタビューを紹介しています。フーコーが、会話の明晰さと書くものの晦渋さとの差について問われたときの答です。「フランスではすくなくとも10%、理解不可能な部分がなければならないんだ」。この話を向けられたブルデューは、「フランスではある本が真剣に受け止められるためには、10%ではだめで、少なくともその2倍、20%は、理解不可能な部分がなければ」と答えます。p154~。
そんなものを読まされる者は、大変ですわ。このページでも、ソーカル事件を紹介したことがあります(2015年4月4日)。