6月30日の日経新聞サーベイ欄が、「クールビズ10年」を取り上げていました。クールビズが、2005年に小泉首相の提唱で始まってから、もう10年が経ちます。すっかり定着しました。さらに近年は、スーパークールビズになって、かなりラフな格好の職員も見受けます。私は、紺のスーツに白いワイシャツでノーネクタイは、嫌いです。どうも、さまになりません。
導入当初、このホームページでも、何度か取り上げました。「夏服・クールビズ騒動」(2005年6月5日)、「続・夏服騒動」(2005年6月10日、12日)。読んでみてください。今読み返すと、えらく力を入れて書いています(苦笑)。私は50歳、総務省の総務課長でした。
さて記事では、全国の20~50代の働く男女1,000人に、インターネットで調査した結果が載っています。「クールビズは定着したと思うか」という問に、75%の人が「定着した」と答えています。「意識した服装をしているか」との問には、「実践している」が48%です。う~ん、単にネクタイを外しただけですか。
クールビズの問題点を聞いたところ、「だらしない格好の人が増える」が25%、「服装のせいでマナーが緩くなる」もあります。「洋服の買い足しで出費が増える」も2割くらいいます。この人達は、ファッションを気にしている人たちですね。
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歩道のカフェ
6月21日の朝日新聞夕刊に、「東京特区、来たれ海外マネー」という記事が載っていました。そこに、港区虎ノ門の歩道でのオープンカフェが紹介されています。
・・虎ノ門では、「虎ノ門ヒルズ」が開業した11日にあわせ、近くの歩道にオープンカフェがお目見えした。パリの雰囲気で国内外の人を「おもてなし」するため、道路の占用許可を緩めて認めた「東京シャンゼリゼプロジェクト」の第1号。今後、歩道沿い約150メートルにわたって、オープンカフェが並ぶ計画だ・・
これ自体は、良いことですよね。パリの真似、名前もパリの通りの名が使われてることは残念としても。
しかし、写真を見て、う~んと考えてしまいます。背景に、何本もの電柱と電線が写っているのが、見えますか。見苦しいですね。いずれ、地中化されるのでしょう。
在宅医療と看取り
朝日新聞6月3日オピニオン欄「在宅医療で見えたもの」、太田秀樹・全国在宅療養支援診療所連絡会事務局長のインタビューから。
・・(日本では)8割が病院で亡くなります。がん患者の場合は9割。日本は病院死の割合がとても高い。米国はともに4割前後、オランダは全体の病院死が35%、がん患者は28%です。昔は日本でも自宅で亡くなるのがふつうでした。1976年に、病院での死亡率が自宅での死亡率を上回ります・・
・・超高齢社会を迎えるにあたって、治せるものは病院で治すが、治せないものは治せないと、患者や家族、医療関係者を含めた社会全体が受け入れることが必要です。そうでないと、いつまでも病院で濃厚な医療をすることになる。必要なのは、1分でも1秒でも長く生きる長寿ではなく、天寿を支える医療です。
たとえば、最期のときに病院に運んで治療するのではなく、家族が休暇を取ってそばにいるという医療です。そのためには「死」を受け止める覚悟が必要です。少しでも長く生かそうと死のそのときまで点滴を続けることがありますが、点滴すればむくんで苦しくなる。しなければ眠るように安らかに旅立ちます。
うちの診療所ではこれまでに約2千人の在宅療養を支援し、約600人を自宅で見送りました。自宅でみとった患者さんの割合は開業した1992年当時は20%でしたが、今は7割近い。昔は「家で死なれたら困る」「世間体が悪い」という人も多かったですが、最近は患者さんや家族の意識も変わってきたと感じます・・
・・質をはかる尺度を「数値改善」に限れば、在宅の方が低いと言う人もいますが、生活の質を考えると、病院より質のいい医療をしています。たとえば、病院で放射線をあててがんの大きさが半分になっても、だるくて苦しくて寝たきりになった末に命を落とすのと、放射線治療をせずに自宅で緩和ケアをし、苦しくないようにして好きなものを食べて、家族と暮らすのとを比べてください。命は短いかもしれないけれど、後者の方が幸せじゃないですか。
もちろん、苦しくても、とにかく病院で治療を受けたいという人は病院に入院すればいい。けれど、天寿を受け入れ、安らかに自宅で死にたいという希望があっても、在宅医療を提供する態勢が整っておらず、その希望がかなえられないという、いまの状況が問題なのです・・
・・人は必ず死にます。それを受け入れなくてはなりません。それが、いまの医療の課題です。最期をどう迎えたいのか、私たち一人一人が考えなくてはいけないと思います・・
日本は異質だという思い込み
4月27日日経新聞中外時評、小林省太論説委員の「五輪を機にというならば」は、考えさせられます。日本とフランスとの間の翻訳をめぐるシンポジウムについてです。
・・なかには「仏訳がある岩波新書は1点しかない」という指摘もあった。岩波書店に尋ねるとその情報は不正確だったが、それでも仏語に訳されたのは4点だけ。中国語、韓国語訳は多数ある。しかし英訳でさえ17、独訳9、伊訳1という数字は、問題が日仏間にとどまらないことを示している・・
社会科学系の研究書の「入超」については、先日「大学、社会との関わり方の変遷、2」(4月18日)で疑問を呈しました。
次のような指摘もあります。
・・仏国立東洋言語文化研究所のエマニュエル・ロズラン教授は言う。「日本はお茶や生け花、武士道、今なら漫画、アニメということになってしまう。それはウソではないが、ずれている。日本人も世界の人々と同じ問題を抱えて生きる普通の国の普通の人だという感覚が我々にもない。自然科学は別だとしても、少子高齢化でも原発問題でも、世界に伝えるべき日本の思想や施策がもっとあるのではないか。それが西洋中心主義を考え直すきっかけにもなる」。
「美しい日本」「クールジャパン」。そんなせりふが先走り、地球を覆う課題を考える共通の土俵に日本が立っていない。その指摘には耳を傾けなければならないだろう・・
「日本は西洋に比べ遅れている」という主張も、「日本は各国と違い優れている」という主張も、どちらも「日本は異質だ」という「自尊心」の現れでしょう。
65歳は高齢者か
高齢者の定義を見直してはどうか、という議論があります。
例えば、4月4日の日経新聞経済教室、金子隆一・国立社会保障・人口問題研究所副所長の「高齢の定義、見直しの時」。
そこで提案されているのは、「平均余命等価年齢」という指標で、高齢化を捉えるものです。すなわち、1960年当時は、65歳での平均余命は男性11.6年、女性14.1年でした。それぞれあと、12年、14年生きることができました。その後、平均寿命が延びたので、それを2010年時点に置き換えると(同じだけの平均余命の歳は)、男性は75歳、女性が77歳になります。
個人差があるので、一般化や平均は慎重に議論しなければなりませんが、この説は納得できます。
かつては、60歳はおじいさんやおばあさんで、見るからに年寄りでした。今、60歳の人に「おじいさん」とか「おばあさん」と呼びかけたら、殴られますよ。
「年齢に0.8をかけた年が、かつての年齢に相当する」という説もあります。それだと、60歳×0.8=48歳。81歳×0.8=65歳です。これはちょっときつすぎるとして、0.9だと、60歳×0.9=54歳。70歳×0.9=63歳です。昔は多くの職場で55歳定年だったのが、60歳定年に伸びました。現在は、65歳へ引き上げつつあります。しかし、単純に定年を引き上げることは、後輩たちから、「早く席を譲ってくれ」と苦情が出そうです。