ブルデュー

加藤晴久著『ブルデュー 闘う知識人』(2015年、講談社)と、あわせてブルデュー著『自己分析』(邦訳2011年、藤原書店)を読みました。ブルデューについては、文化資本の考え方を、個人から広げて地域の財産の一つとして使わせてもらいました(拙著『「新地方自治入門」』)。それが書かれている『ディスタンクシオン』は、大部なのと読みにくそうなので勘弁してもらい、石井洋二郎著『差異と欲望―ブルデュー『ディスタンクシオン』を読む』(1993年、藤原書店)で理解しました。
加藤晴久先生には、東大駒場時代にフランス語を学んだので、その懐かしさもあって、『ブルデュー』を手に取りました。先生の解説で、ブルデューが文化資本を提唱した背景がわかりました。それで、『自己分析』も読んだのです。それについては、追って書くとして。
『ブルデュー』の巻末に、著作リストがついています。加藤先生の短い解説付きです。そこに、Le Sens pratique 1980年、邦訳『実践感覚Ⅰ・Ⅱ』(みすず書房、2001)について、次のように紹介されています。
「『ディスタンクシオン』と並ぶ代表作のひとつ。アルジェリア・カビリア族の人類学的研究を踏まえた行動理論の集大成。邦訳Ⅰは理解不能」と。
そうなんですよね、翻訳書には、読んでいて「これは何を言いたいのだろう」と思う日本語に出会うことがあります。一つには、原文自体が理解困難な文章である場合。もう一つには、翻訳のできが悪い場合があります。若いときは、難しい翻訳を読んで、「私の頭が悪いんだ、勉強不足だ」と思いましたが、最近は「これは翻訳が悪い」と決めつけて、読むのをやめてしまいます。
本書には、20世紀後半のフランスの思想家たちが難解であることを取り上げて、次のようなインタビューを紹介しています。フーコーが、会話の明晰さと書くものの晦渋さとの差について問われたときの答です。「フランスではすくなくとも10%、理解不可能な部分がなければならないんだ」。この話を向けられたブルデューは、「フランスではある本が真剣に受け止められるためには、10%ではだめで、少なくともその2倍、20%は、理解不可能な部分がなければ」と答えます。p154~。
そんなものを読まされる者は、大変ですわ。このページでも、ソーカル事件を紹介したことがあります(2015年4月4日)。